短編Ⅳ | 家出猫 1/2
10月。
「そろそろ、はっきりさせなきゃいけないな」
俺はスマホのカレンダーを見ながら呟いた。親父さんからも、何度も忠告されている。「仔猫をいつまでも飼い殺しにしてんじゃねえぞ。自分でちゃんと始末をつけろよ」と。
◆
ある夜。
店の営業を終えて帰宅した後、俺は仔猫に、ダイニングの椅子に座るよう促した。仔猫はちょこんと椅子に座り、小首をかしげて俺を見た。俺はテーブルの上で両手を組み、少し改まった口調で切り出した。
「おまえがうちに来て、もう半年以上が経ったな」
仔猫はこくりと頷いた。
「あの頃はガリガリに痩せこけてたけど、今ではすっかり血色も良くなって、健康そのものになったな」
「…何が言いたいの?」
仔猫の目が不安げになった。
相変わらず、察しのいい女だ。
俺は腹にぐっと力を入れて、言葉を続けた。
「そろそろ、おまえは俺のうちを出た方がいいんじゃないかと思うんだ。それでだな、いろいろ考えてみた。このまま俺の店で働き続けても、バイト程度の給料しか出せないし、それじゃあ一人暮らしは苦しいだろ?で、親父さんに相談してみたら、ちょうど西荻のスナックがチイママを探していて、それがおまえにピッタリなんじゃないかと……」
「…ちょっと待って」
仔猫が小さな声でピシリと言った。
「…つまり、マスターから離れて生きていけ、ってこと?一人暮らしをして、別の街で、働けと?」
「まあ、そういうことだ」
「…どうして?」
「おまえにはおまえの人生があるし、俺には俺の人生がある。いつまでも一緒にいる訳にはいかないだろ」
「…一緒に生きていくって選択肢はないの?」
「それは、ないな」
俺はきっぱりと言い切った。
「俺は、死ぬまで一人で生きて行くって決めてる」
「…私を一人ぼっちにして、心配じゃないの?」
「いつかは離れるんだから、いつまでも心配してても仕方がないだろ」
俺を見つめる仔猫の両目がみるみる潤んできた。
「…私がマスターのことを好きだって、知ってるでしょ?」
「いや、知らないな。そういうことには興味がない」
「…マスターだって、私のこと、好きでしょ?」
「そんなこと、言った覚えはないぞ。おまえのことは、ただの成り行きで、元気になるまでうちに置いてやってただけだ。正直、そろそろ重荷になってきてるんだ。おまえの面倒を見てやるのが」
仔猫の顔が歪んだ。声には出さなかったが、口の中で「うそばっかり」と呟いたのがわかった。俺は努めて冷ややかな顔をして、仔猫から目を背けた。少しの間、沈黙が続いた。
「……わかった」
仔猫は涙声でそう言うと、大きな音を立てて椅子を下げ、リビングを出て行った。残された俺はなんとも苦い気持ちになったが、その一方で、少し安堵していた。俺はダイニングの椅子に座ったまま天井を仰ぎ、大きくため息をついた。
…言えたな、ちゃんと。これで前に進める。俺も、あいつも。
◆
しばらく経ったところで、俺は浴室に行き、バスタブに湯を溜めた。そして、仔猫の部屋の前に立ち、声をかけた。
「風呂が沸いたぞ」
返事がない。眠ってしまったのだろうか。
俺は振り返り、何の気はなしに玄関ドアを見た。閉めたはずのチェーン錠とサムターン錠が開けられていた。
…え?
俺は仔猫の部屋をノックし、「入るぞ」と声をかけてドアを開けた。だが、そこに仔猫の姿はなかった。トイレにもいない。洗面所にも、リビングにも、バルコニーにもいない。
…まさか、出て行ったのか?今?
俺はスマホを取り出し、仔猫に電話をかけた。呼び出し音が仔猫の部屋から聞こえてきた。見ると、ベッドの上にバッグが置きっぱなしだ。「悪いが中を見るぞ」と呟いてひっくり返すと、スマホと、家の鍵と、財布が出てきた。
…何も持たずに出て行ったのか?こんな真夜中に?
慌ててクローゼットを開けた。よく着ているオリーブ色のレザージャケットがなかった。ちょっと前に俺が見立てて買ってやったヤツだ。俺はリビングに戻り、急いで自分のコートを羽織って、家を出た。
…出て行けとは言ったが、今すぐに、とは言ってない。それなのに、どうして。…どこに行ったんだ。こんな真夜中に。
夜中の3時半。住宅街は寝静まって、車が通る気配すらない。俺はあたりを見回しながら急ぎ足で歩いた。いつものコンビニにも行ってみた。仔猫はいない。
近所の住宅街をグルグルと一巡したあと、神明社の裏手から回り、玉川上水に出た。これはあいつが最近気に入っている散歩コースだ。
夜の玉川上水は、照明もなく真っ暗闇だった。俺は仔猫の名前を呼びながら、井の頭公園方面に向かって走った。児童遊園にも、ナザレの庭にも、野草公園にも、杉山公園にも、仔猫はいなかった。
俺は泣きそうになった。
ああ、こんなことが、随分昔にもあった。
俺が小学1年生の時。夜中に目を覚ましたら母親がいなかった。水商売というものをよくわかってなかった俺は、母親がいないことに驚いて、泣きながら外に出た。「お母さん、お母さん」と泣き叫びながら、母親の姿を求めて、真夜中の街をさまよい歩いた。あの時もこんな風に暗い夜道だった。
…あの時、俺は、母親が死んでしまったんじゃないかと思った。俺を残して、どこかに消えてしまったんじゃないかと思った。俺が悪い子だから、置いていかれたんじゃないかと思った。ものすごく怖かった。
◆
仔猫の名前を呼びながら玉川上水沿いを北上するうちに、井の頭公園に辿り着いた。まだ5時にもなっていないというのに、終電を逃して夜通し騒いだ酔っ払いと、早朝ウォーキングにいそしむお年寄りで、公園は奇妙に賑わっていた。俺は池の周りを一巡し、隣駅まで行ってみた。駅前の交番に昔馴染みの警官が座っていたので、「小さくて仔猫みたいにかわいい女を見かけなかったか」と聞いてみた。壮年の警官は驚いた顔をして、俺をまじまじと見ながら言った。「大丈夫か、てめえ。そんなにパニクって」
いない、どこにも。
お茶の水の湧水口に差し掛かったとき、俺はハッと空を見上げた。公園を睥睨する白亜のマンションの5階に、親父さんの別宅がある。以前あいつは、もしも俺に冷たくされて寂しくなったら、親父さんのところに行くかも、と言っていた。俺は親父さんの部屋に灯りが点いているのを確かめながら、電話をかけた。
…どうか、そこに居てくれ。親父さんと多少どうこうなっていても構わないから、とにかく無事でいてくれ。
親父さんは2コールで出た。
「親父さん、すみません。こんな真夜中に…」
『いや、別にいいぜ。オレにとっちゃあ真っ昼間みたいなもんだ』
「うちのが親父さんとこに行ってませんか?」
『お嬢ちゃんがうちに?いや来てねえよ』
「本当に?」
『なんでおまえに嘘をつかなきゃいけねえんだよ。もしもお嬢ちゃんが本当に来てんなら、今頃、ベッドん中でミャアミャア鳴かせてるぜ』
思わず俺は、涙声で呻いてしまった。
『冗談だよ、冗談。どうしたんだ一体。え、おまえ、本当にお嬢ちゃんに出て行けって言ったのか。馬鹿だねえ、言ったらどうなるか、ちゃあんと考えて言えよ。おまえはいつもそういうトコだぞ』
「その話はまた後で…もしもあいつが来たら、すぐに俺に連絡ください」
俺は早々に電話を切った。
いない。どこにも。どこに行ってしまったんだ。カネも持たずに。
駅前に出ようとしたところで、「もしかしたら、もう家に帰っているかもしれない」と思いつき、慌てて引き返した。あいつは鍵を持たずに部屋を出ている。もしも家に帰っていたら、今頃、締め出されて途方に暮れているはずだ。
…頼む。どうか無事に家に帰っていてくれ。
俺が悪かったから。何度でも謝るから。
俺はもう、あんな思いをしたくないんだ。
母親が死んだときのような思いを。
………どうしよう。
俺のせいで、危ない目に合っていたら。
俺のせいで、怖い思いをしていたら。
俺のせいで、どこかで死んでしまったら……
気が付くと、俺は道のど真ん中に突っ立って泣いていた。拭っても拭っても、涙がどんどん溢れて、夜道が見えない。
…頼むから、無事に戻って来て。
もう二度と、あんなことを言わないから。
なんでも、言うことを聞くから。
どうか、俺のところに、戻って来て。
(つづく)