短編Ⅸ | YOU 5/5
俺は、女亭主にうまく言いくるめられただけのように思いながら、それでも、少し気持ちが楽になったように感じながら、残りのズブロッカを飲み干して席を立った。そしてドアに手をかけて外に出ようとしたところで、女亭主に呼び止められた。
「あんたさ、メソメソ悩みたいなら勝手に悩めばいいけど、勝手にお嬢ちゃんの気持ちを決めるのは止めなよ。お嬢ちゃんは、あんたの想像と全然違うことを考えてるかもしれないよ?ビビってないで、お嬢ちゃんの気持ちをちゃんと確かめてみな。どうせ、このままじゃ別れることになるんでしょ?」
「……」
「それから前も言ったけど、『ありがとう』と『ごめんなさい』と『大好き』は思った時にすぐに言うんだよ。大事なことは、何度も言わないと伝わらないんだからさ。…はい、あたしに言ってごらん!」
「……『ありがとう』」
俺は女亭主の店を出て、自分の店に向かった。
◆
店の鍵を解いてドアを押し開くと、カウンターから仔猫が出てきた。
「…おかえりなさい」
俺は仔猫に笑いかけようとしたが、自分の笑顔がぎこちないように思えて、すぐに引っ込めた。
俺は仔猫の脇をすり抜けてカウンターに入り、シンクで丁寧に手を洗って水気を拭き取ると、アルコール消毒液を摺り込んだ。
その間、仔猫は黙ったまま、俺の横に並んで立っていた。そして、ちょうど俺の手が空いたタイミングで、「はい」と畳んだギャルソンエプロンを差し出した。
「……ああ」
俺はそのギャルソンエプロンを受け取ろうと視線を落として、それを握っている仔猫の両手が小さく震えていることに気が付いた。思わず顔を見ると、仔猫はうつむいたまま自分の手元を見つめ、小さく尖った鼻先をうっすらと赤く染めて、唇を不自然に引き結んでいた。
…どうした。
俺は、仔猫のあごに人差し指を当てて引き上げた。仔猫は素直に顔を上げたが、スッと俺から目を逸らした。
仔猫の目の回りが赤く腫れ、マスカラもアイラインもすっかり剥がれ落ちてしまっていた。
「泣いてたのか?」
俺がそう言った途端、仔猫の下まぶたに涙がふくれあがり、目尻を伝い落ちた。仔猫はギュッと目をきつく閉じて、しばらくの間、引き結んだ唇を小刻みに震わせていたが、やがて小さな声で、つかえながら呟いた。
「…マスター、ごめんなさい。マスターの気持ちを考えずに、赤ちゃんが欲しいなんて言って、ごめんなさい…どうか私のこと、嫌いにならないで」
俺は驚いて、息が止まった。
仔猫は目をきつく閉じたまま、両手でギャルソンエプロンを強く握りしめ、自分の胸に押し当てた。そして、大きく泣きじゃくりながら、小さな声で言葉を続けた。
「…マスターは子どもが欲しくないのに、あのとき、無理をさせて、ごめんなさい。もう、あんなわがままを言わないから…もう、マスターに無理をさせないから…私のこと、嫌いにならないで。私を、おばあちゃまのところに棄てないで。…どうか、お願い……」
…仔猫は、そんなことを考えていたのか。
そのときになってようやく、俺はとんでもない考え違いをしていたのだということに思い至った。
俺のぎこちない態度を見て、仔猫は、俺から嫌われてしまったと思い込んでいたのか。
そして、自分の願いを俺に伝えたことを、ずっと後悔していたのか。
だからあんな風に緊張して、いつもみたいに俺に甘えることもできずに、遠巻きに俺の様子を窺っていたのか。
今日、俺が祖母さんに会ったから、このまま棄てられると思ったのか。棄てられるのは俺のほうだと思っていたのに。
女亭主の言ったとおりだ。
俺は、すっかり目が曇っていた。自分のことばっかり見て、全然、仔猫を見ていなかった。いつもなら、仔猫が困っている時にはちゃんと気づいてやれるのに、全然気づいてやれていなかった。
俺は仔猫の小さな頬を両手で包み込んだ。仔猫は、俺の両手の上に震える手を重ねて、目を開けた。久しぶりに、目が合った。
目が合った途端、俺の中に仔猫の張り裂けそうな気持ちが一気に流れ込んで、息が苦しいくらいにシンクロした。俺は仔猫と同じように涙ぐんで言った。
「棄てるわけないだろ。こんなに大好きなのに」
”大事なことは、何度も言わないと伝わらない。”
いや、俺はこれまで、仔猫にちゃんと伝えて来なかった。言わなくてもわかるだろうと思って、「大好きだ」とちゃんと伝えて来なかった。だから仔猫に、こんな心細い思いをさせてしまったんだ。
「こんなになるまで追い詰めて、済まなかった。おまえは辛いときほど平気なふりをして、ギリギリまで一人で我慢してしまうって、知ってたのに、気づいてやれなくて、済まなかった。俺は、おまえが子どもを欲しがる気持ちを蔑ろにしているわけじゃないんだ。ただ、突然すぎて、一体どうすればいいか、わからなくなってるだけなんだ」
仔猫は、堰を切ったように涙を流しながら、俺の両手の中でうんうんと頷いた。そして、声を上げて泣き始めた。
「本当に、本当に、ごめん」
俺は仔猫の頬に自分の頬を押し当てて、一緒に泣いた。
◆◆◆
「どうなったかしらね、あの二人は」
あたしは向かいの雑居ビルの三階を見上げながら、独り言ちた。
「あたしの援護射撃はここまでだよ。あとは自分たちで頑張りな」
◆
今から遡ること三時間半。
あたしが開店準備をしていると、半分下ろしていたシャッターをくぐって、お嬢ちゃんが店に入って来た。お嬢ちゃんは私の顔を見るなり、「お姉ちゃぁん」と小さく叫んで、小さな子どもみたいにわんわん泣き出した。
あたしは急いでカウンターから出て、お嬢ちゃんのそばに駆け寄った。お嬢ちゃんはあたしにしがみついて、あたしの胸に顔を埋めながら、
「赤ちゃんが欲しいと言ったら、途端にマスターがよそよそしくなった。きっと『重い女』だと思われて、マスターから嫌われてしまったに違いない。もう、このまま見放されて、おばあちゃまのところに棄てられてしまう」
と、そんな趣旨のことを大泣きしながら訴えた。あたしはお嬢ちゃんの背中を優しくさすりながら、こう言って慰めた。
「おお、よしよし。思っていることを素直にあいつに話してごらん。あいつはどうしようもない馬鹿だけど、お嬢ちゃんの気持ちをちゃんと聞いてくれると思うよ」
◆
『お姉ちゃん』と呼ぶほどお嬢ちゃんがあたしに懐いていること、多分あいつは知らないだろうね。あいつがジムに出かけるたびに、あたしとお嬢ちゃんが楽しくおしゃべりしていることも、多分知らないだろうね。
それにしてもお嬢ちゃんたら、普段は余裕綽々であいつを手玉に取っているくせに、ちょっと冷たくされただけで脆く崩れるんだもの。びっくりしちゃう。
まあ、お嬢ちゃんのそういうアンバランスなところが、あいつにとっちゃ可愛くて仕方ないんだろうけどさ。
女のあたしでさえ、お嬢ちゃんのことを放っとけないもの。
はあ、やれやれ。全く世話の焼ける奴らだよ。
あたしは、あんたたちのマミーじゃないんだよ?
なんで二人して、同じようなこと考えてメソメソ悩んでんのよ。
そんなに”ラブラブ”なのに、簡単に嫌われるわけないじゃないの。自分じゃわからないのかしらね。
特に、あいつ。
いい歳した中年オヤジが、なんでお嬢ちゃんと同じようにメソメソしてんのよ。精神的童貞かよ。まあ、あいつのそういうところが、お嬢ちゃんはたまらなく大好きなんだろうけどさ。
あたしは、あんな面倒くさい男、まっぴらご免だね。
さてと。
あいつらの店は、今夜は臨時休業になると見た。
お客がうちに流れてくるだろう。お通しを作り足しておくか。
<短編v9 YOU 了>
(次話)
サザンオールスターズ『YOU』