散文| 銀
少女の頃、犬を飼っていた。
弟が急逝して間もなく、
近所で生まれた野良の子犬を
私が自宅に連れ帰ったのだ。
内気でのそのそとした子犬。
「うちに来るか?」と問うと
大きな瞳で見つめ返してきた。
白く輝く毛並みに『銀』と名付けた。
銀の世話は私の担当だった。
私たちは近所の海岸を散歩した。
銀は私にぴったりと寄り添い、溌溂と走った。
家族の中で、私の言うことだけを銀は聞いた。
その頃の私は、抜き差しならない状況にあった。
砂浜に銀と並んで立ち止まり
水平線を眺めながら、死にたいと思った。
海に沈んで消えてしまいたいと、小さく呟いた。
どれくらい時間が経っただろう。
わん!と一声、銀が吠えた。
見下ろすと、銀は行儀よくお座りをして
真剣な表情で私を見上げていた。
ああ、ごめんね、銀。
死にたいなんて思ったりして。
銀は、私を引き留めてくれるんだね。
私を必要としてくれて、ありがとう。
高校に入り、大学に入り、就職し、
私は次第に、銀から遠ざかっていった。
でも銀は、私が帰省するたびに
狂おしいほど喜んで私を迎えてくれた。
夫と婚約した頃。
銀はすっかり、おじいさんになっていた。
近づいて手を伸ばすと、びくりと退いた。
ああ、銀。もう私のことがわからないんだね。
夫と結婚してしばらく経った頃。
銀がいなくなったと母から電話があった。
よぼよぼで歩けないはずの銀が
チェーンを引きちぎってどこかに消えた、と。
ああ、ごめんね、銀。
私が帰るたびにいそいそと出迎えて
私に体をもたせかけて日向ぼっこをして
散歩するかと問えばきりきり舞いをしてくれたのに。
私は銀の愛情をちゃんと受け取れていなかった。
ちゃんと受け取れる器があったなら
もっと大事にしてあげられたはずなのに。
ほったらかしにして、ごめんね、銀。
ある時、知人が私に言った。
いつも首のあたりに白い毛皮が見える、と。
ああ、それはきっと、銀だ。
銀は今も、私に寄り添ってくれている。