【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #32「凪いだ眼差し」
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約束の時間から五分ほど経ったところで、入口の縦格子が開き、男が入ってきた。
年のころは五十前後といったところか。随分ときちんとした身なりをしている。それなりの企業に勤め、それなりのエリートコースを歩んできたような顔つきだ。この真面目で誠実そうな男が、昔、女子高生を金で買い、今、その女を恐喝しているとは、到底思えない。
若葉は座敷に端然と座したまま、男を見る。若葉は濃納戸の色無地に博多献上の帯を締め、黒髪をきつく引き詰めている。男は身なりに合わない下卑た笑いを浮かべながら胡坐をかき、電子タバコに火を付けた。
「こないだ会うたときも思ったっちゃけど、長い間見らんうちに、ずいぶん色っぽくなったっちゃないと。また触らせんね。こげんとこ連れ込んで、お前も…。」
男は早速、若葉の躰にネチネチとした視線を這わせるが、若葉は全く動じない。
その頃。惣一郎はダークスーツを身にまとい、若葉がいる座敷から二室隔たれた別の座敷で、若葉と同様に端然と座している。
ここは、ママが懇意にしている料亭だ。床の間には、見事な枝ぶりの木瓜がたっぷりと投げ入れられ、薄紅色の花々が鮮やかに咲き誇っている。
…今頃、若葉と例の男が別室で向かい合っているはずだ。
気がかりではあるが、惣一郎は敢えて、その現場には同席しないことに決めた。それでも惣一郎は、自分が逆上して何かしでかしてしまうことを恐れ、ママに相談した。するとママは、涼しい顔で言ってのけた。
「あら、まだそないなこと心配してんの。あなた、こないだ私からわちゃくそ言われてブチ切れてたけど、全然、私に手ぇ出さへんかったやないの。問題ないわ。」
若葉は男を前にしても落ち着き払い、大きな目で冷ややかに男を見据えている。形のよい眉が力強く吊り上がり、口元は嘲り笑っているかのようだ。その表情は、雑司ヶ谷の鬼子母神の石像を彷彿とさせる。
その時、入口の縦格子が開き、部下を二人引き連れたスーさんが入ってきた。
屈強な体格をした若い部下は前室に控え、壮年の秘書はスーさんと共に座敷に入ると、前室とを隔てる襖戸を閉め切って、部屋の隅に端座した。
「二人とも、お揃いやな。」
羽織姿のスーさんはニコニコしながら若葉の隣に腰を下ろし、ゆったりと胡坐を組む。男は、何の前触れもなくスーさんが出現したことに、うろたえている。
スーさんは、まるで商談を切り出すような穏やかさで男に話しかける。
「あんたが昔、サトカと援交してた男か。オレはサトカの今の男や。サトカはオレのかわいいかわいい妾やねん。オレのこの顔、メディアでよう見るやろ。ま、よろしう頼むわ。」
そう言いながらスーさんは名刺を一枚取り出し、男の前に投げて寄越した。秘書が若葉ににじり寄り、火のついた葉巻を灰皿に乗せて差し出した。スーさんは若葉の手元から葉巻を取り上げて、たっぷりと時間をかけて燻らせた。
男は卓子の向こうで正座し、そわそわと落ち着かない様子でスーさんを見ている。スーさんは、そんな男の顔をじっとりと眺め、煙をゆったりと吐き出しながら言った。穏やかな口調は、先程と変わらない。
「あんた。単刀直入に話をさせてもらうが、なんや、わざわざこのサトカを探し出して、脅してるらしいな。金を寄越せとか、躰を寄越せとか。」
スーさんは、柔和な表情を崩さないまま、男の眼を覗き込む。
「オレの女の懐に手ぇ突っ込むいうんは、オレの懐に手ぇ突っ込むのと同じことや。オレの女にちょっかい出すっちゅうんは、オレの金玉を素手で握るんと同じことや。あんた、それをわかってて、サトカを脅してんのやろなあ、おい。」
男は、スーさんの威圧感に呑まれ、蛇に睨まれたカエルのような間抜け面で、震え上がっている。
「あんたの住所、勤め先、親、嫁はん、子ども、嫁はんの実家、子どもの学校、全部、把握してるで。オレにはな、福岡にも、いろんなお友達がいてんのや。
あんた、生物学的にやられるんと、社会的にやられるんと、どっちがええか?好きな方を選ばせたるで。」
スーさんは、秘書に目で合図して、手元に差し出された茶封筒を受け取ると、卓子の上にポンと投げた。
「どっちも嫌やっちゅうんなら、これ持って、大人しゅう福岡に帰ることやな。」
男はその茶封筒を前にして、手に取って良いものかどうか、おどおどと逡巡している。
「なんや。オレがやるっちゅうたもんを受け取られへんのか。随分と度胸があるな。」
男は慌てて茶封筒をわしづかみにすると、よろめきながら出て行こうとする。その背中にスーさんが声をかける。
「おい、写真を全部置いて行け。」
男はあたふたとポラロイド写真の束をポーチから取り出し、震える手でスーさんの前に置いた。
スーさんは素早くその手を上から押さえ、まるで稟議書に承認印を押すかのような手慣れた調子で、男の手の甲に葉巻をジュッと押し当てながら、こともなげに言った。
「画像の一つもばら撒いてみい。一家離散の憂き目に遭わしたるからな。」
男は悲鳴を上げて手を引っ込め、急いで襖戸を開けて逃げて行った。
あっという間に逃げた男の背中を見届けて、ママが控えの間から現れた。スーさんは写真の束をひょいと裏返し、黙ってママへと差し出した。ママはそれを黙って受け取って茶封筒に入れ、シュレッダーで粉砕すべくバックヤードへと持ち去った。
スーさんは若葉に温かい笑みを向けながら言う。
「あの男のことはもう心配ない。あいつの会社の支店長にも圧かけといたったからな。もう新地には寄り付かへんなるやろ。」
若葉は座布団を外してスーさんの方に躰を回し、大きな眼を潤ませながらスーさんを見つめ、深々と頭を下げた。
ちょうどその時、惣一郎も座敷に現れ、スーさんの少し手前で端座すると、目前まで膝行して畳に手をつき、若葉と同様に、深々と頭を下げた。
「そないに気にするな。オレは大阪に来たついでに、ちょっと寄っただけや。」
二人は頭を下げたまま動かない。
「もうええから、顔を上げぇ。」
惣一郎は顔を上げ、スーさんをまっすぐに見つめた。かつては荒み切っていた眼が、今は静かに凪いでいる。スーさんは、惣一郎の眼を愛情深い眼差しで見つめ返し、
「また近いうちに店に行くから、うまいもんでも食わしてくれ。な。」
そう言ってすっくりと立ち上がると、若葉が見送ろうとするのを制しながら、秘書を連れて座敷を出て行った。
「スーさんは、モクさんに春が来るんを、心待ちにしてはったのよ。モクさんに春が来て、やっと、スーさんの冬が終わったの。」
写真を粉砕し終わったママが座敷に入り、惣一郎の隣に座った。
「スーさんはずっと、自分はモクさんから深く恨まれててもしゃあない、って思うてはった。そやから、モクさんが息子みたいに頼ってきてくれたんが、ほんまにほんまに、嬉しかったの。
それにモクさん、スーさんの顔を見るなり土下座したんやってね。モクさんにそこまでしてでも守りたいもんができたってことが、スーさんはたまらなく嬉しかったのよ。」
(続く)
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