【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #22「惣一郎の本質」
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七月。まるでサウナのような梅雨が明けて、じりじりとした猛暑が始まった頃。
定休日の惣一郎に、新たなルーティンが加わった。若葉の華道の稽古がない日は、二人で美術館に行くことになったのだ。
「…美術館で、実物を見た方がええ。」
最近の若葉が展覧会の図録ばかりを眺めているのに気づき、「折角やから」と惣一郎が提案した。
躰が大きな惣一郎と、小柄で着物姿の若葉という組み合わせは、美術館の中で目立ち、たまに凝視されることもあるが、若葉はそれが誇らしい。
美術館のロビーで書物を読みながら若葉の到着を待っている惣一郎を、遠くから認めたとき、その緊張感のある立ち姿に、やっぱりモクさんはあたしの自慢の師匠だ、と若葉は嬉しくなる。
惣一郎はいつもの定休日と同じく、灰色がかった長い前髪を無造作に下ろして眼鏡をかけ、無地のカットソーとストレッチパンツをすっきりと着こなしている。
トートバッグを肩にひっかけているのは、図録を買って帰るつもりだからだろう。
若葉にとって驚きだったのは、美術館での惣一郎が、まるで子どもように楽し気に振舞うことだ。
「綺麗なもんがいっぱいあるな」と眼を輝かせて館内を巡り、大きな躰をかがめて展示ケースに顔をくっつけるようにして、「この形は癒されてええな」とか「この色合いは美味しそうでええな」とか、自分の感じたままを小さく呟く。
惣一郎は、着物だけでなく工芸品全般が好きなのだろう。
「…奇をてらったもんは、あんまり好きやない。この作家さんは、ほんまにこういうのが好きなんやな、とか、これが綺麗やって心から思ってはんのやろな、とか、そういうのがしみじみと伝わってくるもんがええな。なんや、見ててあったかい気持ちになるやろ。」
「モクさんは、昔から美術館によう来てるの?」
「…東京にいてた頃からやな。東京は美術館がようけある。」
「いつも一人で来てるの?」
「…そうやな、いつも一人やな。」
「そやったら、いつもそんな風に、一人でブツブツ言うてるの?」
「…え?そんなにブツブツ言うてるか?」
惣一郎は少し驚いたような顔をして若葉を見た。そして、はにかんだように言った。
「…さすがに一人ではブツブツ言わへんやろ。今は、若葉が一緒にいてるからや。」
惣一郎の屈託のない表情を見て、若葉は思う。
…きっと、これがモクさんの本質なのだ。普段のモクさんは誰に対しても無愛想で無表情だけど、本当はこんな風に、人懐っこくて、愛情深くて、楽しい気持ちを誰かと分かち合いたい人なのだ。
自分は周りを傷つける人間だと思い込んでいるから、敢えて人と関わろうとしない。モクさんはそういう人なのだと、ママは言っていた。
人恋しい惣一郎が、美術館に来るたびに独りぼっちで展示品と対話して、独りぼっちで眺めるために図録を買って帰っていたのだと思うと、若葉は切なくなる。今、若葉の隣で楽しそうにする惣一郎を、抱きしめたくなる。
帰りの電車の中で、若葉は膝の上に小さな包みを抱えている。包みの中の木箱には、ミュージアムショップで買った猪口が二点納まっている。惣一郎と若葉の二人ともが気に入った現代作家の作品だ。
惣一郎は家では酒を飲まないから、どこかに並べて飾っておくといいだろう。まるで修道院のように無機質なリビングに、小さな彩りが加わったところを想像して、若葉は楽しい気持ちになる。
若葉の隣では、惣一郎が単行本に没頭している。今日買った図録は、自宅に帰ってからゆっくりと眺めるつもりなのだろう。自分も惣一郎の隣に座って、一緒に眺められたらいい。
こんな楽しい日々がずっと続くことを、若葉は心から願っている。
(続く)
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