【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #09「若葉の挑戦」
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その翌日から、若葉は着物と格闘を始めた。
とにかく、ちゃんと歩けるようにならないと、お話にならない。若葉は、草履と足袋と長いラップスカートを買い、家にいる時は常に着用することにした。
それから、サチエさんに相談して、デコラティブだったジェルネイルをナチュラル系のデザインに替え、髪の色をミルクティーからアッシュブラウンに染め直した。そうするとますます、鏡の中の自分に自信が持てるようになった。
通常営業に戻るまで、モクさんは毎日、サチエさんのお店まで若葉を送迎して、左手首に掴まらせてくれた。
若葉が一人でうまく歩けるようになり、お店を通常営業に戻してからは、若葉が住むマンションまでタクシーで送り届けてくれるようになった。
真夜中で物騒だからと、若葉がエントランスのセキュリティを解除してロビーに入るまで、タクシーの中から見ていてくれる。自動ドアで振り返って若葉が小さく手を振ると、モクさんは車内から小さく頷き返し、再びタクシーを走らせる。
他人にはまるで無関心だと思われたモクさんの、意外な一面を見た思いがする。
その、若葉の自宅に向かうタクシーの中で、モクさんから次の指令が下った。
「…お茶を習うとええ。」
「お茶…?」
また、ムチャぶり。
「お茶って、あの、お椀の中をシャカシャカするやつ…?いやいやいや、そんな高尚なもん、あたしにできるかいな。ガサツな生まれやから、お上品な人らと、よう付き合われへんで。」
「…大丈夫や。誰でもできるようになる。」
「またそんな、他人事やと思て。そもそも、なんでお茶なん。そんなん必要ある?」
「………」
モクさんは、また若葉の言葉を黙殺して、何も答えなかった。
翌日。サチエさんのお店に行くと、サチエさんがスマホの画面を見ながら出てきた。
「若葉ちゃん、お茶を習いたいんやて?モクさんからラインで連絡あったわ。」
「ラインで…。」
「うちのユキエが通うてるお教室が、吹田にあるねん。優しいおばあちゃん先生やし、ちょうどあんたの店の定休日にもお稽古あるから、今度、ユキエと一緒に行ったらええ。」
まるでベルトコンベアに乗せられたように若葉は運ばれていく。
次の定休日。
若葉は模様のない地味な着物を着せられ、髪をキュッとひきつめられ、ユキエちゃんに連れられて吹田のお教室へと向かった。ここで若葉はこてんぱんにやられる。
まず、おばあちゃん先生が発する単語の意味を全く理解できない。畳のへりや敷居を踏みつけて注意されるも、「へり?しきい?」と聞き返すレベルだ。
これまでガサツに生きてきたことが祟り、一挙手一投足の全てにダメ出しをされて、さすがの若葉も凹み、通常は二時間あるというお稽古の、初めの三十分だけで退室した。
初日ということで、ユキエちゃんも一緒に帰宅の途についてくれる。電車の中で若葉はがっくりと肩を落とし、思わず愚痴をこぼした。
「あたし、できるようになる気が全然せえへん…。」
「大丈夫や。あたしなんか、他の生徒さんの顔にお茶ぶっかけたことあるで。」
ユキエちゃんは、大袈裟な嘘をついて若葉を励ましてやる。
「でも若葉ちゃん、もしも嫌なんやったら、無理せんほうがええんちゃう。あのヤクザのおっさんが言うてるだけやろ?」
若葉はうつむいたまま少し考え込んでいたが、やがて顔を上げて、頭を横にぶんぶんと振った。
「いや、もうちょい頑張ってみるわ。他の生徒さん達を見て、モクさんがお茶を習えって言うた意味が少しわかった。あたし、着物を着てあんな風に綺麗に動けるようになりたいし、あんな丁寧な言葉でお客とお話ししてみたい。」
その日から若葉は、お茶と格闘を始めた。まずは大きめの畳座布団を買い、ラップスカートを身につけて、裾を乱さないよう座る練習をする。
お茶って、お金持ちの奥様たちがヒマつぶし程度にやっているイメージがあったけれど、実際には体育会系のノリに近い。みんな阿吽の呼吸でキビキビと動くし、練習すれば練習するほど楽しくなりそうな予感がする。
若葉は、かつてこれに似た感覚を持っていたことを思い出す。
小学生の頃、若葉はバスケに夢中だった。たくさん練習したし、土日は試合三昧だったし、アニメも大好きだった。あんなに大好きだったのに、中学に入って早々、バスケ部の顧問から、走ると胸が揺れることをからかわれ、それ以来ぷっつりとやめてしまった。
今回は、絶対にやめない。あたしは頑張る。もっともっと綺麗な自分に会いたい。あたしの可愛らしい弟もきっと、綺麗になったあたしを見て喜んでくれる。
若葉は背筋を伸ばし、お作法の本を開いた。
(続く)
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