短編| 戎橋画廊にて
胸がドキドキする。
彼女は僕に全く気付かないまま、油絵にレンズを向け続けている。
◆
その日の午前。かなり遅い時間。
休日ゆえに朝寝坊をした僕は、ぼんやりと朝刊に目を通しながら、ふと、紙面の片隅に戎橋画廊の広告を見つけた。
『円谷サヨ展』。そう書いてあった。
”円谷”。
彼女の苗字と同じだ。
彼女の母親は画家だと聞いた。中学校の美術教師を勤めながら、油絵を描いていると。とても珍しい苗字だもの、これはきっと彼女の母親に違いない。
今日が展覧会の最終日。
ひょっとしたら、彼女は今日、この画廊にいるかもしれない。今から行けば、彼女に会えるかも…!
僕の胸は大きく高鳴った。急いでヒゲを剃り、髪の毛を整え、プレスの効いたシャツに袖を通した。ジャケットとスラックスの組み合わせは…うん、これでいいだろう。
「お母さん、ちょっと難波に行って来るわ」
僕は母にそう声をかけ、諏訪ノ森の自宅を出た。
◆
僕は、母と祖母との3人暮らしだ。
僕が1歳のとき、父は結核で亡くなった。
戦前、父は大阪市の中心部で大きな鋳物工場を経営しており、軍需景気も相俟って、かなりの資産を築いた。おかげで、父の死後、残された僕らは生活に困らずに済んだ。父の工場が空襲で焼けてしまった後、母と祖母は、父の旧友の勧めに従って財産の多くを不動産に投資し、戦後の混乱を切り抜けた。そうして僕らは、疎開先の諏訪ノ森の別荘に居ついたまま、何不自由なく暮らすことができた。
高校の頃、僕が東京大学に進みたいと母に告げた、翌朝。
母は、目を真っ赤に泣き腫らしていた。直接には何も言わなくても、僕を離したくないという母の気持ちが、十分過ぎるほど伝わってきた。思えば、父のいないこの家で、母は僕だけを頼り、支えにして生きてきたのだ。
当然ながら、諏訪ノ森の自宅から東京大学には通えない。
母の望むとおり自宅から通うとなると、中之島にある大阪大学しか選択肢がなかった。僕は大阪大学に入学し、そのまま修士課程、博士課程へと進んだ。
博士号を取得してしばらくのち、教授から「府立大学と東北大学に助手の口があるが、どちらに行きたいか」と問われた。僕は迷わず府立大学を選んだ。
かつては潤沢にあった財産が底を突き始め、そろそろ働き口を得なければならなかった僕に、このまま大阪大学に残り続けるという選択肢はなかった。
別に、母や祖母のために人生を犠牲にしたとは思っていない。地味で慎ましやかな母のことも、元芸者の粋な祖母のことも、僕は深く愛している。父親がいなくても真っすぐ伸びやかに成長できたのは、母と祖母がたっぷりと愛情を注いでくれたおかげだ。僕はたった一人の跡取り息子として、これからもこの二人を守っていく。
そう思いながらも…心の片隅では……
僕の科学者としての人生が、このまま大阪から出ることなく終わってしまうのかと思うと、物寂しく、物足りなかった。本当は、できることなら東京大学という大きな舞台で活躍したかった。東京大学とまでは行かずとも、旧帝国大学である東北大学の充実した研究環境に身を置きたかった。それを諦めた僕は、20代半ばにして既に、心だけが老いてしまったように感じていた。
そんな時、僕は合ハイで彼女と出会った。
その日…1964年10月4日を、僕は一生忘れないだろう。
パステルピンクのセーター、くるくると巻いたつややかな髪。しなやかな細身なのに、溌剌としたエネルギーが全身から溢れ、小鳥がさえずるように喋り、朗らかによく笑う。笑うたびに黒目勝ちな眼がキラキラと輝き、リスのような可愛らしい前歯がピンク色のくちびるからこぼれる。
8人いる女の子の中から、彼女の姿だけが僕の目に飛び込んできた。
間違いなく、一目惚れだった。
僕は府立大学の助手で、彼女は府立幼稚園の先生だ。
僕たちは同じ、大阪府の公務員だ。
僕たちは同じ、大阪府で働く運命だ。
このとき僕は、大阪から出られない自分の人生を、初めて肯定できた。
僕はきっと、彼女と一緒に生きていくために、今、大阪にいるのだ。
◆
諏訪ノ森から南海線に乗り、難波へ。
そして、徒歩で戎橋画廊へ。
画廊の少し手前で、僕はガラスに映る自分の姿を確かめた。
髪の毛、よし。
衣服、よし。
いけない、革靴が土ぼこりを被ったままだ。
ポケットからハンカチを取り出そうとしたが、忘れてきたことに気が付いた。仕方なく僕は、指先で土ぼこりをはらった。
そして、もう一度、ガラスを見て……
よし、大丈夫だ。行こう、戎橋画廊へ!
戎橋画廊の『円谷サヨ展』と書かれた看板を横目に見ながら、僕は期待と緊張でドギマギしつつ、ガラス扉を開けた。
最終日だからだろうか、画廊の中はたくさんの人でごった返している。僕は少し面くらいながら、人と人のあいだをすり抜け、中央へと向かい、キョロキョロとあたりを見回した。
……いた、彼女だ!
後姿でも、僕には彼女だとすぐにわかった。
胸がドキドキとして、息苦しくなった。
僕は5メートルほど離れて彼女の横に並び、さりげなく彼女を見た。
今日の彼女は、エンジ色のワンピース。
ひざ丈のスカートの裾から、すらりとした脚が伸びている。
黒いレースのリボンを頭の後ろでヒラヒラと揺らしながら、母親の作品を一枚一枚、真剣な表情でカメラに収めている。
その横顔がとても愛らしくて、僕はつい、彼女を見つめたくなる。
ああ、どうしよう。
本当に彼女がいた。
彼女に会ってからのシナリオを、僕は全く考えていなかった。
話しかけようか。でも、彼女は僕のことを全然覚えていないかも。
話しかけて怪訝な顔をされたら、僕は到底立ち直れない。
どうしよう。どうしよう。
僕はドキドキしながら、彼女をチラチラと見る。
彼女は僕に全く気付かないまま。
気付いて!……いや、気付かないで!
そうして時間だけが過ぎて…
他の客が彼女に声をかけた。
きっと、知り合いなのだろう。話が弾んでいる。
僕は急速に、自分が場違いな人間のように感じ、画廊のガラス扉を開けて、外に出た。すでに陽は傾き、11月の冷気が、首筋をすうっと抜けていった。
僕はとぼとぼと、来た道を引き返した。戎橋筋商店街を抜け、大通りの手前で立ち止まり、ぼんやりと赤信号を見つめる。
僕は一体、何をやっているんだか…
次に彼女と会えるのは、いつになるだろう。
その時突然、後ろから至近距離で呼び止められた。
「坂田くん?」
振り返る前から、それが彼女の声だと僕にはわかった。
小鳥がさえずるような、少し早口の、かわいい声。
僕はゆっくりと振り返った。
彼女は息を切らせながら、僕に笑いかけた。
「ああ、やっぱり、坂田くんやわぁ」
「円谷さん…僕のことを追いかけて来てくれたん?」
「うん。お母さんが教えてくれてん。『なんや、背の高いひょろっとした男の人が、ずっと直子ちゃんのことをチラチラ見てはったで』って。私、絶対坂田くんやと思うて、ここまで走って追いかけてきてん」
僕を見上げる彼女の大きな目が、キラキラとしている。
ああ、やっぱり、とても可愛い。
「坂田くん、なんで戎橋画廊に居てたの?偶然?」
「ううん、新聞に『円谷サヨ展』って書いてたから、君のお母さんちゃうかなって思て。ほら、お母さんが画家やって言うてたやろ?」
「坂田くん、私のお母さんが画家やってこと、覚えててくれたん?それでわざわざ、画廊まで見に来てくれたん?」
「うん…もしかしたら、君に会えるんちゃうかって思たから…」
ああ、つい、口が滑ってしまった。
これではまるで、告白みたいじゃないか。
僕の顔が真っ赤になったのが、自分でもわかった。
そんな僕の顔を見つめながら、彼女はとても嬉しそうに笑って言った。
「そんなら、せっかく私に会えたんやし、もうちょい、ゆっくりして行ったら?」
……それが、おじいちゃんとおばあちゃんの馴れ初めなんだよ。