短編Ⅸ | YOU 4/5
東京駅から吉祥寺駅に戻って来たときには、すでに開店時間を過ぎていた。雨は夕方から本降りとなり、駅前は傘を差した人々で混雑していた。その間を縫うようにして、俺はとぼとぼと店に向かった。
三階の店の灯りが見えた時、俺はどうしてもそこに戻りたくなくて、大通りの向かい側にある女亭主の店に入った。十八時を少し過ぎたばかりとあって、客はまだ一人もいなかった。
「あら、あんたがうちの店に来るなんて珍しいね」
俺の顔を見た女亭主が、鬼瓦みたいな顔をほころばせた。俺はカウンター席に座ると、ズブロッカのストレートを注文した。
「あら、あんたが酒を飲むなんて珍しい。じゃあ、煙草も喫っちゃう?」
「禁煙じゃないのか」
「いいよ、まだしばらく誰も来ないもの。あたしも喫いたいし」
俺は、女亭主が差し出した黄色い紙包装をカウンターに二度打ち付け、ロングピースを一本抜き出して、唇の真ん中にくわえた。そして、女亭主が差し出したジッポを手に取って、左手で覆いながら火を点けた。
久しぶりにきつい煙を吸い込んで、俺はむせそうになりながら耐えた。強いニコチンに脳が痺れ、しばらくの間、目を閉じた。
その様子を眺めていた女亭主は、自分もロングピースを喫いながら言った。
「あんた相変わらず、煙草を喫う仕草だけはカッコいいよねえ。くたびれたおっさんになっても、そこだけは惚れ惚れするわ」
俺は女亭主の言葉を黙殺した。
「そういや、年度末あたりかな、あんたの店にジュノンボーイみたいなイケメンが出入りしてなかった?あの子、お嬢ちゃんにベタ惚れみたいでさ、あたしの店で時間を潰しては、あんたの店にいそいそと向かってたよ。あんたよりそのジュノンボーイの方が、よっぽどお嬢ちゃんにお似合いだと思ってたわ」
俺は引き続き、女亭主の言葉を黙殺した。
黙殺しながら、女亭主の言う通りだと思った。
仔猫には、俺なんかより、あの若造の方がふさわしい。育ちも、気立ても良さそうだし、結婚して子どもを作ることにも抵抗なさそうだし、きっと、あの祖母さんのお眼鏡にも適うだろう。
「…で、何?なんかあたしに話したいことがあって、うちの店に来たんじゃないの?」
「いや…何でもない」
「あんたさ、そういうところだよ」
女亭主は、煙草を挟んだままの指で俺の顔を差した。
「何でもないわけないじゃん。そんなに雨に濡れてさ、しょんぼりしてさ、とっくに店を開けてる時間なのにうちに来てさ、普段は飲まない酒と煙草をやってさ。なのになんで素直に話さないんだよ。いつもそんなだから、ママは途方に暮れてたんだよ」
「なんでそこで、おふくろが出てくるんだ」
「だってそうじゃないの。ガキの頃からいっちょまえの顔して強がってさ、ほんとは寂しいくせにママには一切言わずにさ。母親ってのはね、子どもが甘えてくれて初めて、母親としての自信が生まれるのよ。あんたが一切甘えてくれないから、ママは母親としての自信がなかったんじゃないの?だからあんたのこと、腫物みたいに扱ってたんじゃないの?」
俺は女亭主の言葉に一言も返せず、黙って煙草を喫い続けた。女亭主はくわえ煙草でロックグラスを二つ取り出し、ズブロッカを適当に注ぎ入れて、その一つを俺の前に差し出しながら、「ほれ、グイッと飲みな」と言った。そして、さっきの話を続けた。
「あんただってそうでしょ?お嬢ちゃんが甘えてくれるから、男としての自信が持ててんじゃないの?お嬢ちゃんだって、あんたが甘えてくれるから、女としての自信が持ててんだよ」
「……」
「それからあんた、親父さんから聞いたけど、ママが死んだのは自分のせいだと思ってるんだって?そんなわけないだろ、このタコ。いくらあんたがドラ息子だからって、あんなヤマネコみたいな女がメンタルやられる訳ないじゃないの。全くあんたはさ、他人事にはとっても聡いのに、自分事となると途端に目が曇りまくるよね」
「……」
「…で?今日は何よ。さっさと白状してくれない?ほら、吐けよ。楽になるぞ」
俺は手に持ったグラスをくるくると回していたが、やがて観念して、女亭主にポツリ、ポツリと話し始めた。
「あいつが、赤ん坊が欲しいって言ってるんだ」
「へえ、お嬢ちゃんが。それで?」
「俺は、まともな父親になれる気がしないんだ。俺の育ちの悪さを考えても、無理だと思うんだ。だから、子どもを持つのが怖いんだ」
「まあそうだろうねえ、あんたは本当にロクでなしだから。それで?」
「あいつをがっかりさせたくなくて誤魔化してたら、どんどんギクシャクしていって、もう、修復不可能な感じになってるんだ。あいつは、俺が子どもを欲しがってないって、気付いてると思う。そして、俺に見切りをつけてると思う。それを確かめるのが怖いし、もう、何を言っても別れ話になりそうで、どうすればいいのか、出口が見えない」
「ふーん。あんたでも弱気になるんだね。それで?」
「以上だ」
「以上…?なあんだ、そんだけかよ。しょうもな」
「しょうもなくないだろ」
俺は女亭主に気色ばんだが、女亭主は眉間を開いてうすら笑った。
「しょうもないじゃん。だって、解決策は決まってるんだから」
「どんな解決策だよ」
「別に、簡単な話だよ。お嬢ちゃんにあんたの子どもを産んでもらえばいいじゃない」
「は?おまえ、俺の話をちゃんと聞いてなかっただろ」
女亭主は「やれやれ、これだからこいつは」と呟きながら肩をすくめ、大袈裟に頭を振って見せた。
「出口が見えないのはね、入口を間違えてるからなの。あんたは問題の設定を間違ってんの。二つのことを一緒くたに考えてるから、わからなくなってんの。はい、一つ目。あんたはお嬢ちゃんと、これからもうまくやって行きたいんでしょ?どうよ?」
「まあ、そうだ」
「じゃあ、答えはハッキリしてるじゃない。お嬢ちゃんみたいなカワイコちゃんがジュノンボーイに目もくれないで、あんたみたいな、くたびれたおっさんのことを好きになってくれてんでしょ?そんでもって、あんたみたいな、ロクでなしの子どもを欲しがってくれてんでしょ?そんなら、ありがたく産んでもらいなよ」
「そんな簡単なことじゃないだろ」
「簡単だよ。お互いに好き合ってんだからさあ。あんただって、お嬢ちゃんが他の男の子どもを産むなんて、絶対に嫌でしょ?だったらあんたの子どもを産んでもらえばいいじゃないの。…で、二つ目。あんたはまともな父親になれる気がしないんでしょ?だったら、どうすればまともな父親になれるかを考えればいいだけじゃない」
「そんな簡単なことじゃないだろ」
「簡単だよ。あんたがママの店を引き継ぐ方が、よっぽど難しかったよ。こんなチャランポランで他人の気持ちを考えられない男に客商売ができるのかって、みんな心配してたよ。でも、なんだかんだで、十六年間やって来れたじゃない」
「それは、親父さんやあんたが助けてくれてるからだろ」
「父親になるのだって、同じじゃないの。あんたがダメ男な分、親父さんやあたしが助けてやるからいいじゃないの。店のことも、お嬢ちゃんのことも、子供のことも、あんた一人で抱え込む必要はないんだよ?」
「……」
「はい、問題解決。早く店に行きなよ。お嬢ちゃんが心配しながら待ってるよ」
(つづく)
サザンオールスターズ『YOU』