短編Ⅸ | YOU 1/5
桜の季節になった。
「そういえば、おまえと一緒に花見をしたことがなかったな」
仔猫を俺の家に引き取ってもう一年以上になるが、昨年の桜の季節はまだそこまで打ち解けていなくて、二人で出かけることはなかったように思う。俺は少し考えて、「せっかく井の頭公園の近くに店があるんだし、定休日の前の晩に店に泊まって、夜明けに桜を見に行くか」と提案した。
この季節の井の頭公園は、遠方からも花見客が押し寄せて、日中は大変な混雑だ。夜は質の悪い酔っ払いで溢れて、更に始末が悪い。その点、早朝は地元の住人がウォーキングしている程度なので、ゆっくりと桜を見ることができる。
定休日の前夜。
俺と仔猫は久しぶりに店で夜を明かした。毛布にくるまってロングソファに横になりながら、「ふふ。懐かしいね」と仔猫が目を細めた。「そうだな。一年ぶりだな」と俺も笑った。
「…一昨年の九月よ。初めてお店に泊めてもらったの」
「そうだったな」
「…あの頃のマスターは一言もしゃべってくれなかったのに、今は、たくさんおしゃべりしてくれるようになったね」
「おまえは太ったよな」
「…ひどい」
「まあそう怒るな。今の方が、俺の好みだ」
…あの頃のおまえは、ひどい男にひっかかって、病的に痩せ細っていたからな。
俺はロングソファのそばにしゃがみ込んで、仔猫の額にキスをした。そして店の灯りを落とすと、あの頃と同じように毛布にくるまって、一人掛けのソファに深く腰掛けた。
◆
翌朝の明け方。
俺と仔猫は店を出て、井の頭公園に向かった。園内には昨夜の宴会の残骸がポツポツと残っていたが、酔客の姿はすでになかった。俺たちは七井橋の真ん中に立ち、井の頭の池を眺めた。静かな水面は夜明けの白い空をそっくり映し出し、薄闇の中で、池畔の桜の巨木があちこちで白く幽玄に咲きこぼれていた。
「…ほんとだ。夢みたいに綺麗」
「俺が若い頃は、もっとすごかった。大きな桜の木がびっしりと池を取り囲んで、隙間なく咲いてたんだ。ボートに乗って池の真ん中まで行くと、もう、目の前が一面、薄いピンク色のパノラマで……おまえにも見せてやりたかったな」
「…誰とボートに乗ったの?」
「え?」
「…その頃に付き合ってた人?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
若い頃の俺は、女と連れ立って公園に来たことなどない。大抵、飲み屋で落ち合って、そこらのホテルにしけ込んで、事が済んだら女を残してさっさと帰っていた。
一体、誰とボートに乗ったんだろう。
「母親、だったのかな」
いや、母親と二人で乗ったのなら、もっと強烈に記憶に残っているはずだ。何一つ母親らしい情愛を見せない女だったのだから。
「ああ、思い出した、親父さんだ。俺の母親が親父さんの世話になることになって、吉祥寺に引っ越してきたときに、親父さんが誘ってくれたんだ。一緒にボートに乗ろうって。俺はまだ十歳だった」
…もう三十六年も前か。あの頃の親父さんは、今の俺と同じくらいの年齢だったんだな。あの頃の俺は、すでに不良気取りの悪ガキだった。親父さんも随分と手を焼いただろうに、それでも俺と一緒にボートに乗ってくれたんだな。
「…私もボートに乗ってみたいな」
「知らないのか。カップルがボートに乗ると別れてしまうんだぞ」
「…え?そんなの初めて聞いた」
「今の若い奴らには、そういう都市伝説はないのか」
そう軽口を叩きながら、俺は内心、仔猫の心情を測りかねていた。
仔猫の母親は、仔猫の目の前で、中禅寺湖に飛び込んで自死したのだ。仔猫と一緒にボートに乗っているときに、仔猫の妹を道連れに。そんな強烈なトラウマがあるのに、ボートに乗って大丈夫なのだろうか。
…思えば、俺と仔猫の人生は、二十の歳の差がありながら、いろんな場面で符合している。
十歳で井の頭公園のボートに乗った俺と、十歳で中禅寺湖のボートに乗った仔猫。
十六年前に母親を亡くした俺と、十六年前に母親と妹を亡くした仔猫。
俺の放蕩を苦にして死んだ母親。仔猫の目の前で湖に飛び込んだ母親。
ただし、俺の母親が死んだとき、俺はもう三十歳の大人だった。
仔猫の母親が死んだとき、仔猫はまだ十歳の子どもだった。
仔猫の方が、俺よりも余程、傷が深いだろう。
それに…
見方を変えれば、仔猫は大切な妹を、目の前で実の母親に殺されたのだ。それなのに、「自分が妹を誤って湖に落として、それを助けようとした母親も死んだ」と、そう嘘をつくように父親から厳しく言いつけられて、長い間、誰にも本当のことを言えずに、独りで耐えていたのだ。
仔猫の中には、きっと、俺にも理解の及ばない深い傷を負ったままの、もう一人の小さな仔猫がいる。
「…ねえ、マスター。お願いがあるの」
仔猫が、池の向こうの桜を見つめながら呟くように言った。
「…私、妹に会いに、中禅寺湖に行きたいの。あれ以来、一度も行ってないから、きっと、冷たい水の下で寂しがってると思う。かわいそうだから、会いに行ってあげたい」
「おまえは、行っても大丈夫なのか」
「…今までは、一人で行く勇気がなかったの。でも、マスターが一緒なら、きっと大丈夫」
「そうか。わかった」
…仔猫の傷が少しでも癒えるのであれば、できる限りのことをしてやりたい。
俺は仔猫の手を取った。手袋をしていなかったせいか、仔猫の指先はひどく冷たかった。俺は仔猫の手をしっかり握りしめて、自分のコートのポケットに突っ込んだ。
(つづく)