【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #29「雪中四友の春告草」
《前回のお話はこちら》
ジムから帰宅して玄関ドアを開けても、予想通り、若葉の草履はなかった。暗く冷え切った部屋で、惣一郎は寒さに震えながら、店に行く準備をした。
14:00。いつも通りカウンター席に座り、ノートパソコンを開いた。
一週間分の出納データを入力して、伝票を整理していく。店内は静まり返り、エアコンの音だけが、やけに響く。惣一郎は静寂に耐えられなくなり、イヤホンを取り出して耳にはめ、配信アプリのリコメンドを適当に流す。
ほんの少し前まではこうやって、独りぼっちでいることが基本ルーティンだったのだ。そのずっとずっと前から、独りぼっちだったのだ。きっと、すぐに慣れる。
惣一郎は暗い眼差しをカウンターに落としながら、伝票をファイルしていたが、気がつくと、手が止まっている。
…慣れるだろうか、本当に。若葉がいない独りぼっちの生活に。
一旦、春の暖かさを味わっておいて、再び、真冬の厳しい風雪に耐えらえるだろうか。
きっと俺は、アナベルを見るたびに、小さな男の子を見るたびに、美術館に行くたびに、若葉を思い出すだろう。親父さんが店に来るたびに、嫉妬で身悶えするだろう。慣れるはずがない。
カウンターの上にポタポタと、惣一郎の涙が落ちる。…俺は若葉のせいで、弱くなってしまった。長いこと、感情を動かさずに生きてきたというのに。
「モクさん、おはよう。」
突然、肩を触れられ、耳元で声がして、惣一郎は飛び上がって驚いた。手元のファイルがバサバサと音を立てて床に落ちる。
慌ててイヤホンを外して振り向くと、すぐ斜め後ろに若葉が立っていた。うぐいす色の小紋に黒い外套を羽織り、パステルイエローの大判ストールを巻いている。暗褐色の室内で、ここだけに色を差したかのようだ。
腕に抱えた大きな包みから、淡紅色の梅が咲きこぼれる。雪中四友の春告草。厳しい風雪の中で咲き初め、春の訪れを告げてくれる花だ。
若葉はその花の包みをカウンターの上にどさりと置き、惣一郎に抱きついた。惣一郎は頭の切り替えが間に合わず、一瞬、躰をこわばらせた。
そして、二、三秒遅れて、ああ、若葉が俺に会いに来てくれたのだ、と理解し、スツールに座ったまま、思い切り若葉を抱きしめた。若葉のストールに顔を埋めて、温かな匂いを胸いっぱいに吸い込む。途端に、乱れ続けていた呼吸が安らぐ。
「モクさん、一週間、寂しい思いをさせて、ごめんなさい。」
「…若葉。」
惣一郎は、若葉の腕の中で小さく震えている。
「…もう、二度と会われへんかと思うてた。」
…本当に、本当に、このまま独りぼっちになってしまうのだと思っていた。
若葉は惣一郎を抱きしめたままで言う。
「あたし、今朝、小さいモクさんの夢を見たの。七五三の格好をした小さいモクさんが、お母さんを探してた。そんで、あたしを見つけて、泣きながら走って来た。抱っこしてあげたら、あたしにしがみついて、お母ちゃんって言いながら震えてた。」
「………」
「あたし、震えてる小さいモクさんをぎゅうってしながら、思い出したの。前にもこんな風に、震えてるモクさんを、ぎゅうってしたことがある。何べんもあるって。」
…若葉の言う通りだ。俺は、泥酔した若葉を抱きしめてやりながら、自分の絶望的な寂しさを紛らわせていた。泥酔した若葉に絡まれることで、俺も孤独から救われていた。
「モクさん、会いたかった。ほんまに、会いたかった。ずっと一緒におるって言うたのに、約束を破ってごめんなさい。」
惣一郎は若葉のストールに顔を埋めたまま、何度もうなずいた。
二人はしばらく抱きしめ合った後、ゆっくりと躰を離した。若葉は袂からハンドタオルを取り出し、惣一郎の頬を優しく押さえた。
そうする若葉もまた、涙ぐんでいる。その涙を、惣一郎が袖口で拭ってやった。そうして二人は両手をつなぎ、見つめ合った。
「…おかえり、若葉。」
「ただいま、モクさん。」
二人は笑って何度もうなずき合い、いつもの持ち場に戻った。若葉は銅製の立華瓶を取り出して梅の枝々を生ける。惣一郎は常連客に出す余寒見舞いをしたためる。
そして、二人並んでカウンター席に座り、今日のフードの仕込みと、夕飯の段取りについて打ち合わせる。
暗く冷え切っていた店内に、一気に春がやってくる。
いつもの時間に店を出て、いつものように魚屋に寄り、夕飯用にウマヅラハギを二尾買った。皮をはぐのも肝の処理も、若葉が担当だ。
もう惣一郎が手本を見せてやらなくても、口頭で少し指導するだけで、ある程度のことはこなせるようになっている。
二人で向かい合って和やかに夕食を取り、ソファに並んでバレンタインのトリュフチョコを分け合って食べたところで、若葉は遮光カーテンのすきまから外を見て、大きな声を上げた。
「モクさん、見てぇ。雪が降ってる。」
掃き出し窓を開けて、若葉はバルコニーに出た。途端に、二月の寒気に震えあがり、慌てて室内に戻る。そして外套とストールを手に取り、再びバルコニーに出る。
惣一郎もコートを着てマフラーをぐるぐると巻き、バルコニーに出て若葉の隣に立った。
バルコニーの前には広々とした月極駐車場があり、立ち並ぶ外灯の光が、降りしきる雪を白く浮かび上がらせている。
「…雪が降るとは珍しいな。」
「積もるやろか。」
「…大阪は、あんまし降らへんし、積もらへんからな。これも、すぐに止むやろ。」
「そう…。積もって欲しかったな。」
「…なんや。雪が好きなんか。」
「うん。好きになった。モクさんが、あのカクテルを作ってくれた時から。」
「…ああ、『雪国』な。」
「モクさんは、なんであの時、あたしに『雪国』を作ってくれたの?」
「…若葉が頑張ってんののご褒美のつもりやったんかな。『雪国』は、俺が一番好きなカクテルや。あの綺麗な雪景色を見てると、しみじみと温かい気持ちになる。」
「ふふ。あたしもモクさんと同じこと、思うてたわ。『雪国』のカクテルは、モクさんみたいやって。」
若葉はいたずらっぽい眼差しを惣一郎に向けている。
「モクさんが初めてあたしに『雪国』を作ってくれたとき、あのカクテルは、吹雪の下で春を待ってる若葉やと思うたの。
そやけど、恩田木工のお話を読んで、ああ、あのカクテルは恩田木工の国と同じやな、そんでもって、モクさんと同じやな、って思うようになった。」
「………」
「恩田木工の国も、雪国でしょ。信州の、雪がいっぱい降る、とても貧しい国。そこで恩田木工は、長いこといろんなことを我慢して、この国を少しでも良くしようって頑張るの。一所懸命に頑張る恩田木工を信じて、まわりの人も一緒に頑張るの。そうして恩田木工の国は、吹雪の中でも明るくて、希望いっぱいのええ国になっていくの。
…ね?『雪国』の中の緑のチェリーが、恩田木工の国みたいに思えてきたでしょ?」
若葉は、笑って惣一郎を見上げる。
「モクさんもね、外側は無口で無愛想で取っつきにくくて、吹雪みたいに怖くて冷たそうやのに、中身は春みたいに暖かくて、居心地がええの。
…ね?『雪国』のカクテルは、モクさんそのものでしょ?」
「…また随分と、ええ具合に考えたな。」
若葉はフフフと笑い、北御堂でそうしたのと同じように、惣一郎の左手を少し握る。惣一郎はその手を握りしめて、自分のコートのポケットに入れてやる。若葉は惣一郎に寄り添うように立ち、雪を眺めている。
(続く)
《前回のお話はこちら》
【第1話はこちら】