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【創作大賞2024恋愛小説部門】早春賦 #13「ふたりの距離」

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十月。若葉が着物姿でカウンターに立つようになって、半年が経った。

お茶の稽古の成果が表れ始めたのか、はたまた、つぼみという妹分ができたおかげか、若葉は急に大人びて、つぼみからだけでなく、比較的若いお客からも「若葉ママ」と呼ばれるようになった。
それに合わせて、着物の色柄も少し落ち着いたものを選ぶようになってきた。露出度高めの派手な格好をしていたのが、随分と昔のことのように感じられる。

ある定休日の昼下がり。

地味な着物姿の若葉が鼻歌を歌いながら店を訪れると、誰もいないと思っていた店内にモクさんがいた。カウンター席のスツールに座り、ノートパソコンに向かっているが、いつもの黒ずくめの服装ではない。

白いTシャツの上にライトグレーのハイゲージニットを重ね着し、チャコールグレーのストレッチパンツに濃茶のレザーシューズを履いている。いつもはしない眼鏡をかけ、いつもは後ろに撫でつけている灰色の長い前髪を、無造作に前に下ろしている。

営業中とは全く違う雰囲気のモクさんに、若葉は驚いた。左頬の傷がなかったら、誰だかわからなかっただろう。

「びっくりした…。モクさん、お休みやのに来てはったの。」

モクさんは無表情のまま小さく頷き、お前こそ何しに来た、というふうに、若葉の手元を見ている。若葉は大判の包装紙にくるまれた花をモクさんに見せながら言った。

「ああ、これね。…ふふ。実はあたし、お茶だけやなくて、お華も一緒に習うてるの。だいぶん形になってきたから、そろそろお店で生けさせてもらおかなって思うて。」

若葉はカウンターの隅に紙包みを置くと、羽織を脱いで丁寧に畳み、収納棚を開けて花器を探し始めた。
モクさんはスツールから立ち上がり、紙包みの中を覗き込んで花の種類を確かめると、若葉の上から覆いかぶさるようにして、黒い大ぶりの信楽焼と嶮山を取り出し、「これがええ」と言ってカウンターに置いた。

そして若葉が身につけている、銀鼠の小紋にちらりと目をやった。

「…自分で、着付けたんか。」

「うん。お稽古の時は自分で着るようにしてるの。動画を見ながらやから、ちょっとおかしいかも知れへんけど。」

「…見せてみ。」

モクさんは、タオルウォーマーからおしぼりを一つ取り出し、自分の手を綺麗に拭うと、若葉の背後に回った。そして少ししゃがんで、名古屋帯に手をかけた。

「…お太鼓は、もうちょい小さいほうがええ。」

そう言って、お太鼓の中に手を入れ、折り目の端をぐいぐいと引っ張って、大きさを整える。そして、無言のまま、若葉の躰をくるりと反転させ、若葉の前にひざまずく。
若葉は思わず息を呑む。普段は遠くに見上げているモクさんの顔が、今、目の前にある。

モクさんは若葉の帯に上から手を差し込み、帯揚げと帯枕の紐を引っ張り出す。若葉の胸元で、大きな手で器用にほどき、器用に結ぶ。その美しい指の動きを、若葉はうつむいて見つめる。
モクさんの灰色の長い前髪が、若葉の目の前で揺れている。モクさんの額と若葉の額が触れそうになる。

「…帯枕が、少し下がってきてる。もっときつく縛らなあかん。」

モクさんは抱きつくようにして両腕を若葉の背中に回し、帯枕の位置を直して紐を引き直すと、手際よく結び直して帯の奥に差し込む。そして、帯揚げをふんわりと形よく結び、帯の中に丁寧に差し込む。
モクさんが帯の中に手を差し込むたびに、モクさんの指が自分の胸にかすかに触れて、若葉は恥ずかしくて息が止まりそうになる。

最後にキュッと形よく結び直した帯締めを、モクさんは少し名残惜しそうに見つめながら、

「…まあ、こんなもんやろ。」

と呟いた。そして、若葉の顔を見ずに立ち上がり、くるりと背を向けると、元いたカウンター席に戻っていった。

「ありがとう…。」

若葉は、ぴたりと決まった帯締めを指先でなぞりながら、もしかしてモクさんには、いつもこんな風に着物のお世話をしてあげている相手がいるのかしら、と思う。そんな若葉の心を見透かしたように、

「…子どもん時に、母親の着付けを手伝ってたんや。」

モクさんはそう言った。

若葉は立ち尽くしたまま、モクさんを見つめる。モクさんはスツールに座り、ノートパソコンのキーボードを叩いている。腰を立ててすんなりと首筋を伸ばし、肩を開いている姿を見て、モクさんは姿勢がいいから、余計に躰が大きく見えるのだ、と若葉は気づく。

…やっぱりモクさんは、誰も見ていないところでも美しくしている。あたしも、モクさんみたいに、いつも美しくしている人になりたい。

若葉は胸の前で両手を組み、どうしようか、と少しためらっていたが、やがて意を決したようにモクさんの近くへと歩み寄り、恐る恐る話しかけた。

「モクさん。」

モクさんは、なんや、という風に、若葉をちらりと眼鏡越しに見る。

「あたし、お華のお稽古が月に二回あるんやけど、そのあと、お店に来てもええ?モクさんに色々と教えて欲しい。着物のこととか、お酒のこととか、その他にも。」

モクさんは少し考えてから言った。

「…定休日は、十四時から十七時まで店にいてる。」

若葉はモクさんに頼んでラインのアドレスを交換し、稽古日を事前に連絡することにする。色々と教えて欲しい、とお願いした以上は、何も考えなしで来るわけにはいかないだろう。若葉は毎回、身の回りの疑問点を洗い出して、モクさんへの質問を整理する。

定休日のモクさんは、ノートパソコンを相手に事務作業をしたり、お客への挨拶状をしたためたり、新しいカクテルを試作したりしているが、若葉があれこれ尋ねると、面倒がらずに作業の手を止めて、丁寧に教えてくれる。

若葉に何かを教える時、普段は寡黙なモクさんが、随分と饒舌になる。そして、「網羅的に知りたいんやったら、ネットで記事を拾う前に、本を何冊か読んだ方がええ」と言って、書物を貸してくれる。
書物を読み進めるうちに興味の対象が広がって、モクさんに聞きたいことがどんどん増えていく。

モクさんも、若葉からの質問の中に、自分がわからないものがあった時には、「そういうんは考えたことがなかったな」と言いながら、その場で検索して調べてくれる。そして、二人で画面を見ながら「なるほど」とうなずき合う。

若葉は次第に、モクさんの隣の席に座るようになる。モクさんの隣に座って、モクさんから借りた書物を読む。書物を読みながら、モクさんに質問して、ノートにメモを取る。

若葉のクセ字があまりにひどいので、モクさんが、かつて自分が使っていたというペン習字の教本を貸してくれる。モクさんの横で楷書の練習をしていると、ペンの持ち方を指摘される。モクさんの指の形を何度も確認しながら、懸命に真似る。

「どうせやったら良いペンを使った方がええ」と、モクさんが愛用の万年筆を譲ってくれる。その万年筆を、若葉は大切に持ち歩く。

若葉は今、モクさんの弟子になったつもりでいる。

モクさんのように、いつも美しくしている人になりたい。モクさんのことを正しく知りたい。モクさんが知っていることを自分も知りたい。モクさんができることを自分もできるようになりたい。
そして、あたしを拾ってくれたモクさんに恩返しをしながら、これからもずっと、一緒にお店をやっていきたい。


続く

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