短編Ⅸ | YOU 3/5
仔猫が妊娠しなかったことに俺は一旦安堵したが、苦悩は更に続いた。
再び排卵期を迎えたとき、俺は仔猫と身体を重ねながら、何気ない素振りで「今日はどうする?」と訊ねた。
仔猫は目を閉じ、身体をこわばらせながら「…つけて」と答えた。
俺は「わかった」と答え、そのあとは、いつも通りに振舞った。
いつも通りに振舞いながら、心中は穏やかでなかった。
仔猫は、俺が子どもを望んでいないことに気付いたんじゃないか。
だから、避妊具をつけるように言ったんじゃないか。
俺といても妹の生まれ変わりを産むことができないことに、絶望しているんじゃないか。
仔猫の願いを叶えようとしない俺に失望して、心が離れているんじゃないか。
だからこんなに身体をこわばらせているんじゃないか。
…いや、それは俺の思い過ごしで、実はまだ、何も感づいていないかもしれない。
今日はたまたま、そういう気分にならなかっただけで…。
その夜から、俺は仔猫の言動に対して過敏になった。
仔猫は俺に失望して、心が離れているんじゃないか……
俺は何度も自問自答を繰り返し、動揺を仔猫に悟られないよう振舞い、苦痛に感じながらも、ペースを乱さずに仔猫と身体を重ねた。
その度に、苦痛になっていることを仔猫に気取られないように演技し、仔猫も苦痛になっているんじゃないかと疑い、しかしそのことに無頓着なふりをして仔猫を求めて、日に日に仔猫の反応がこわばっていくのを肌身で感じ、内心ズタズタに傷ついた。
…仔猫が俺から離れていく。
俺は、精神的にも肉体的にも、次第に追い詰められていった。
六月の排卵期にも、七月の排卵期にも、身体をこわばらせた仔猫は、避妊するよう俺に求めた。
その頃には、仔猫は日中も硬い表情をして、俺を避けるようになっていた。
俺の不安は頂点に達し、心が折れた。
仔猫はもう、俺が子どもを望んでいないことに気付いている。
気付いているのに、そのことについて何も言わない。
何も言わないまま、いつも硬い表情をして、身体をこわばらせ、俺を拒絶している。
どうしたらいい。
子どもを望む仔猫の気持ちは、痛いほどわかる。子どもを抱くことで仔猫の心の傷が少しでも癒えるなら、俺もその願いを叶えてやりたい。
でも、俺はどうしても、父親になるのが怖い。
父親が誰なのか知らない。
普通の家庭の暖かさを知らない。
母親からも愛されていなかった。
愛情に飢えて、自暴自棄になって、非行に走って、暴力沙汰を起こして、犯罪まがいのことをして、警察の世話になって、そのたびに親父さんに迷惑をかけた。
女関係にだらしなく、性欲の捌け口としか見なさずに、ひどいことばかりした。
そして、まともに働かずに放蕩し、母親を追い詰めて死なせた。
そんな男が、まともな父親になれるわけないだろう?
もしかしたら、幼い俺と母親に暴力をふるっていた、あの男みたいになるかも知れないじゃないか。そうなったら地獄だろう?
俺は思い詰めて、もう、笑うことができなくなった。
仔猫の目をまともに見ることもできなくなった。
隣で眠る仔猫に触れることもできなくなった。
仔猫に何を言っても、最後は別れ話になるとしか思えなかった。
そんな自分に焦って、なんとかしようとすればするほど、ドツボにはまった。
出口が見えない。このままでは、仔猫は本当に俺の前からいなくなってしまう。
◆
七月下旬のある雨の日。
開店の準備をしていると、店の固定電話が鳴った。仔猫が出ると、即座に切れた。その後も、何度も鳴っては、仔猫が出ると即座に切れた。
最後に鳴った時に、俺が受話器を取った。そして極めて短い会話をして、受話器を置いた。
仔猫が不審げな顔をして、俺を見つめていた。俺は受話器を置いたまま、しばらく考え込んだ。これ以上、仔猫に秘密を作ったら、俺たちの関係は完全に破綻してしまう。
俺は、仔猫から目を背けたまま言った。
「おまえの祖母さんからだった。今から会いに行って来る」
◆
東京ステーションホテルのロビーラウンジでスタッフに用件を伝えると、うやうやしく窓際のテーブルに案内された。そこには、仕立ての良いアンサンブルスーツに身を包んだ老婦人が端座していた。
俺が立ったまま名乗って一礼すると、老婦人は黙ったまま、向かいの座席を掌で指して俺に勧めた。
俺は真正面からその老婦人、つまり、仔猫の母方の祖母の顔を見た。
年齢は七十代前半といったところか。きっと俺の死んだ母親と同年代だろう。仔猫にとても似ている。否、仔猫が年をとれば、きっとこうなるだろうと思われる顔立ちをしている。
俺はきっと、この年齢になった仔猫の顔を見ることができない。そう考えて、ナイフで刺されたように胸が痛んだ。
老婦人は冷ややかな目つきで俺の顔を眺めていたが、しばらく経って小さく溜息をつくと、低い声で言った。
「あの子が東京で水商売をしていて、父親ほども歳の違う男と付き合っていると、あの子の妹から聞きました。だからわたくし、一体どんな男が相手なのか、直に確かめに参りましたの。…全く、想像したとおりだったわ」
俺は黙ったまま、老婦人の顔を見つめた。まるで、仔猫から詰られているような気分になって、膝の上で組んだ手のひらに嫌な汗をかいた。
「あなたのことは、興信所を使って調べさせてもらいました。随分と立派なご経歴ですのね。総領娘があなたのような男と関係を持つなんて、我が一族の恥です。もう、あの子をうちの人間とは認めません。わたくしの葬儀にも出なくて結構」
そう言いながら、老婦人はバッグから小さな封筒を取り出し、テーブルの上で俺に突きつけた。
「これをあの子に渡して下さる?中には、わたくしからの手紙が入っています。わたくしが死んだのちも、あの子には、うちの資産を一円たりとも渡しません。もちろん、あなたにも」
俺は黙ったまま、その封筒を見つめた。
「ただし、あの子が改心して、この一ヶ月以内にあなたと綺麗に別れて、屋敷に戻って来るのなら、話は別です。全てなかったことにして、温かく迎え入れます。あなたにも、相応の手切金をお渡しします。…その方が、よろしいんじゃなくて?あの子にとっても、あなたにとっても」
老婦人は、俺が黙ったまま手紙に視線を落としているのをしばらく眺めたあと、膝の上のナフキンを手に取って口の端を軽く押さえ、
「わたくしの話は以上。よいお返事をお待ちしているわ。それでは、ごめんあそばせ」
そう呟いて、席を立った。俺は座席についたまま、老婦人を見上げて言った。
「彼女が俺と別れて家に戻ったら、あなたが選んだ婿養子を取らせて、跡を継がせるんでしょう?」
「ええ、そうよ」
「あなたは、自分の娘にも同じことを強要して、そのために死なせたんじゃないんですか。孫娘が同じようになっても、平気なんですか。あなたには、肉親の情というものがないんですか」
最後の言葉は、目の前の老婦人に向かってではなく、俺の死んだ母親に向かって吐いたのかもしれない。
「情…?そんなものは、とっくの昔に捨てました。男児を産めなかった以上、一族にふさわしい婿を選び取るのが、わたくしの使命です」
老婦人は俺を見下ろしながら、冷たく言い放った。そして、俺の目を覗き込みながら、まるでこちらの心を見透かすように、言葉を続けた。
「それに、あなたみたいな男と一緒になって、あの子が幸せになれるとは到底思えません。わたくしが選ぶ婿殿のほうが、余程あの子を幸せにできるはずです。…あなただって、そう思うでしょう?」
その言葉に対し、俺は、一言も反論できなかった。
(つづく)
サザンオールスターズ『YOU』