短編Ⅵ | 二隻の舟 1/3
中島みゆきの歌に『二隻の舟』というのがある。歌詞はこんな具合だ。
あいつとあたしも『二隻の舟』なんだと、ずっと思っていた。
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あたしはいわゆる『アロマンティック・アセクシュアル』だ。恋愛感情も性的欲求も持ったことがない。
21歳のとき、あたしはあいつの母親のスナックで働き始めた。当時あいつは16歳だったが、既に地元では悪名高い不良だった。人一倍図体がでかいし、目つきは悪いし、しょっちゅう喧嘩を吹っかけては相手をボコボコにする。犯罪まがいなこともやらかすし、とにかく手に負えない。だが、あいつの母親、つまりママは、あいつが何をしでかしても、まるで無関心な顔をしていた。
大人になってからのあいつは、タダ酒を飲むために、ママの店にしょっちゅう現れた。大抵、女を連れていたが、いつも違う女で、同じ女を連れてくることはなかった。
連れの女に対するあいつの態度は鬼畜そのもので、周囲の目をはばからずイチャついたかと思えば、突然そっぽを向いて完無視し、トイレに行くふりをして置いて帰ることもしばしばあった。手を振り払って出て行くこともあったし、他の女が迎えに来たために一悶着することもあった。
あいつが連れの女に対して無関心であることは、カウンターの中から見ていて良くわかった。女が泣いたり、飲み物をぶっかけたり、バッグで殴ったり、カッターで切り付けたりしても、あいつはまるで他人事のような顔をして、平然と煙草を喫っていた。きっとあいつは、抱けさえすればどんな女でも良かったんだろう。
相手の女だって似たようなものだ。ちょっと見たくれが良くて、金払いがよくて、勢いがあって、女の扱いに慣れているというだけで、あいつにホイホイとついて来る。でも、実際のところは自分のことがかわいいだけで、あいつのことなんて何も見ちゃいない。
女とあいつのどっちが鶏でどっちが卵かは知らないが、そんな不毛な関係ばかりを量産しているあいつは、きっと、あたしと同じ『アロマンティック』…つまり、誰にも恋愛感情を持たない男なのだろうと思った。
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あいつはいつもチャラチャラとしていたが、30歳のときにママが突然死んでからは、まるで別人のように人を寄せ付けなくなってしまった。
ママのスナックを改装して、あいつのショットバーにするということで、あたしは店から追い出された。その代わりに親父さんの手配りで、そのバーがあるビルとは大通りを挟んだ向かい側の路面に、新しい店を持たせてもらった。
あいつのバーが静かに飲める店なのに対し、あたしのバーは半分スナックみたいにわちゃわちゃと賑やかなので、いい住み分けになった。どちらかの店が満席ならもう片方に流れるといった具合に、互助的な関係でもあった。
あれから15年。
あたしには、恋人もいなければ、同居する家族もいない。若い頃はそのことを寂しいと思うことなんてなかったけれど、40歳を過ぎた頃から、客の来ない雨の夜など、ふと、孤独に抱きすくめられるようになった。親が死に、兄弟と疎遠になり、古い友人とは音信不通になり、いろんなものが指の間からこぼれ落ちていく。その切なさに溺れそうになるたびに、あたしは向かいのビルの3階の、あいつのバーを見上げた。
窓から漏れる暖かい灯り。誰にも恋愛感情を持たない孤独なあいつ。あいつとあたしは『二隻の舟』だ。決して一緒になることはないが、互いに気にかけながら、これからもきっと、うまくやっていける。
ずっとそう思っていた。あいつの店に、あの娘が現れるまでは。
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最初にあの娘を拾ったのは、あたしだ。
今年の2月。その夜は冷たい雨が降っていた。店のシャッターを閉めて自転車に乗ろうとしたところで、大通りを挟んだ向こうのビルの外階段に、何かがうずくまっているのが見えた。夜中の3時近くのことだ。1時間ほど前にもそちらを見たが、その時にはいなかったはず。
近づいてみると、小柄な若い娘だった。全身がずぶ濡れで、コートは泥だらけで、凍てつく寒さなのに裸足で、おまけにひどい怪我をしていた。「あなた、どうしたの」と声をかけると、娘は恐る恐るこちらを見上げた。ダッフルコートのフードから覗いた顔は、まるで仔猫みたいにかわいかったが、頬が腫れ上がって、口の端から血を流していた。
娘はガタガタ震えながら涙を流すだけで、あたしが何を言っても返事をしなかったが、やがて、か細い声で絞り出すように言った。
「3階のお店の、マスターに、会いたい……でも、もう、帰っちゃった…」
あたしは歩道に出て、3階を見上げた。窓のロールスクリーンは下ろされていたが、強い雨の中でよくよく目を凝らせば、室内に灯りが点いているのが薄っすらと見て取れた。
あたしはカッパを着たままで、娘を抱き支えるようにして階段を上った。雨をたっぷりと含んだコートは氷のように冷たく、その下の肩と腕は、まるで骨だけかのように細かった。店のドアを叩くと、勢いよくあいつが出てきた。あいつはあたしを見て驚き、あたしの背後に立つ娘を見てもう一度驚いた。そして、あたしへの応対もそこそこに、娘の腕を取って店内に引き入れた。
あの時、あたしは内心、ひどく驚いた。
あたしが全く知らないあいつが、目の前にいた。あいつが誰かに対して、あんなに慈しみ深い眼差しを向けているところなど、それまで一度も見たことがなかった。
◆
それからしばらくは何事もなく過ぎたが、新年度になった頃から、アイツの店のカウンターにあの娘が立つようになった。
あたしは月に1度、早めに店の営業を切り上げてあいつの店に行き、無口なあいつを相手に愚痴をぶちまけることにしていた。それが、この4月以降、あいつの隣にあの娘がちょこんと並ぶようになった。
最初に顔を合わせた時、娘ははにかみながら、あたしに丁寧に頭を下げて、「その節は本当にお世話になりました。どうもありがとうございました」と小さな声で囁くように言った。娘はカウンターの隅で大人しく控えていたが、あたしたちの話に聞き耳を立てられているような気がして、あたしの心はザワザワした。
それ以来、店から外を眺めるたびに、二人の姿が目につくようになった。
出勤時、あいつと娘は仲良く並んで外階段を上がる。長らく感情を動かさなかったあいつが、娘に対して笑顔を見せる。そのことに、あたしの心はザワザワした。
夏になり、同業仲間の暑気払いに、あいつは娘を連れてきた。そのときにも、あたしの心はザワザワした。かつてママの店に女を連れて来ていたときのような鬼畜さが、あいつには微塵も残っていなかった。相変わらず無口ではあったが、娘を仲間に紹介して、話に交ざりやすいように気を配ってやっていた。そして、娘の隣から決して離れようとせず、たまに二人で親し気に話しては、クスクスと笑い合っていた。
そのうちに同業仲間のあいだで、「あの娘はどうやらあいつの女らしい」という噂が立ち始めた。まさか、あいつに特定の女ができるなんて。あたしの心はザワザワした。
嫉妬というのとは違う。
なんだか、裏切られたような思い。
ずっと『二隻の舟』だと思っていたのに、あいつの方から縁を切られたような思い。孤独な男だと思っていたのに、あいつの隣にあの娘が現れて、あたしだけが一人で取り残されてしまったような思い。
そして今。
あたしはあいつの店で、あの娘と二人きりで向かい合っている。
(つづく)