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主観的な恥、振りかざす恥。


武器商人と旅をした元少年兵。『ヨルムンガンド』。高橋慶一郎先生の作品だ。アニメも2期放映され、コミックスの結末までを描ききっている。

マンガもアニメも何周もしているくらいに好きな作品で、元来ガンアクションが好きだというのもあるけれど、それ以上に高橋先生が描いた思想に惹かれているのだと思う。

『ブラックラグーン』を見ている人間でこの作品を見たことがない人間はいないと言われるほどのガンアクションの双璧だから紹介するのもおこがましいけれど、なんだか最近、思い出すような出来事が多かったのでちょっとだけ書いておく。


元少年兵のヨナはココ・ヘクマティアルという武器商人に雇われ、彼女と、彼女の傭兵たちとともに世界中で銃をぶっ放す。ヨナ君は両親が戦闘で死んでいるから武器が憎くて仕方がないのだけれど、自分が生きていくためには武器を使っていかなければならなくて、その運命的な呪いから逃れられない。そんな彼が武器商人と旅をすることで世界をどう見るか、が物語の一本の筋。いやほんとヨナ君、かわいそうなくらい武器から離れることができないのだ。それでも彼が世界に向ける眼差しはとても美しく、それも泣ける。



もう一人の主人公がココ・ヘクマティアル。ヨナとは対照的に、武器を売りながらそれで死んでいく人間たちに嫌悪感をあらわにする。

私は世界が大嫌いだよ、ヨナ。どこ行ったって戦争、戦争。道端に死体が転がってて嫌い。武器が嫌い。こんなズルい道具で脅された時の感情、思い出すだけで頭が割れそうになる。軍人が嫌い。特に命令には絶対服従なんて思考停止してる奴とか、ガスで膨れ上がった死体より臭い。戦争で子供が死んで悲しみに満ちてみて、次の年にはまた子供作っちゃったりしてて、「この子を戦士にするぞ」とか言ってんの、もうアホだよね。人間が嫌い。私も同じ動物なのかと思うと絶望するよ。

彼女は武器商人でありながら、世界から戦争をなくすために空を閉じる。量子コンピューターにより空の全流通をココの一手の中に収めることで、人類が自由に空を飛ぶことができないようにする「ヨルムンガンド計画」。ココは、武器商人の手によって閉じられた空、近代以前まで立ち返った空を見て、人間は「恥」じないだろうか、と問う。人間が技術を進歩させ、自由に飛べるようになった空を、今度は人間自ら閉じなければいけなくなってしまった世界。ココは心底嫌う人間に対して、武器商人の立場から「恥」を問うた。


それでもまだ人間は戦うかな?


高橋先生はココの兄で同じく武器商人のキャスパーにその答えをさせる。

この世から武器がなくなると、本当に思うか? ココ。航空兵器がダメなら海戦兵器を売ろう。船がダメなら戦車を売るよ。銃を売ろう、剣を売ろう、ナタを売ろう。鉄を封じられたなら、こん棒を売ろう。それが我々武器商人だ。

ああ…そうだよね…ぼくもそう思う。…たぶん、戦う。

ココは世界を、人間を嫌っていながらも、結果超甘っちょろい。量子コンピューターで強制的な平和をもたらすと言いながら、「恥」なんていう人間の善性に訴えるなんて…と思う。でも、それが好き。それが、武器商人の時は天才的なくせに途端に人間臭くなるココ・ヘクマティアルの大好きなところ。



個人的な話を2つほど。

祖母の葬式の帰り道、車両の中をペットボトルが派手な音を立てながら転がっていた。

さっきまでぼくの向かいの席に置かれていて、みんなが丁寧に避けていたものだろうな、今その席には男性が座っているから、きっと彼があのペットボトルを床に置いたりしたのだろうな、と思った。慣性の法則じゃないけど、電車は一方向に動いているのだから空のペットボトルなんて床に置いたら転がるに決まってるじゃないか、と思うんだけど、このおじさんはそういうことお構いなしにとにかく座りたかったんだな。座ってもいいのだけど、せめてそのゴミをどうにかしようとか思わなかったのかな、まあぼくも見て見ぬ振りしていたしなにも言えないけれど、と思った。

でもさすがにコロコロと大仰に存在をアピールされていると無視できない。ちょっと億劫だしなんなら席も座られちゃうだろうけど、転がるペットボトルをそのままにできる乗客の無神経さも気になって仕方がないから、車両の反対側まで立ってペットボトルを回収した。そもそもこのゴミを車内に放置あるいは忘れていったやつが悪いのだけど……。




先日、バイト先に向かう埼京線の中、女性が突然倒れた。ぼくは倒れた女性のすぐそばではなかったけれど十分に近い距離で、あたふたしてしまった。あわてるもんですね。慣れてないから。とりあえず隣にいた男性が「大丈夫ですか?」と意識の有無を確認して、女性の反応があったのでそこまで大事でもなかったのだけど。おばあさんが「お医者さんか看護婦さんいませんか」と車内に声をかけ、ぼくともう一人の女性が「誰か非常ボタンを押してください!」と周りに伝える。てんやわんやとしながらも倒れた女性の周りの人たちには一種の連帯感が生まれた。

女性が倒れるまでぼくは必死にアイドルマスターシャイニーカラーズのイベントをマラソンしていたのだけど、もう本当にそれどころじゃなくて。一通りのアクションをしてからも次の駅に到着して駅員さんに女性を受け渡すまでは結構時間があって。女性の意識があることはわかって、おそらく貧血とかなのだろうとは理解しても、なかなか他のことは手に付かない。

そんな中、ぼくの隣の男性がジャンプを読み始めた。そういえば月曜日だった。いや驚いた。目の前で一人倒れてるんだぞ。…まあぼくにもあなたにも手の施しようはないし全くの赤の他人だけど。でもなんかなぁ…。少なくともぼくにはそういうことはできなかった。

運良く女性はホームの扉側で倒れてしまっていたからすぐに駅員さんに救助されていったのだけど、赤羽駅に着いた時にも信じられないことがあって。まだ倒れている彼女の横をとっとと降りようと扉に向かう男性。嘘だろ…と思ったのでつい、「ちょっと待てないんですか?」と語気強めに言ってしまったけれど。そういう人もいるんだなぁ…。



なんかあれもこれも、ぼくにとっては恥ずかしいことだ。別に善人ぶりたいわけでもないし当たり前のことをしているつもりなんだけれど、ぼくという人格にとってはそうすること/しないことは恥ずかしい。だからやる/やらない。で、その恥という感覚はめちゃくちゃ人に押し付けたくなる。押し付けた上で、恥って個人的なものだということをぼくたちは理解している。恥自体は善性に基づいたものだし、恥を共有できるなんて幻想はもっともっと人間を善いものだと思ってないとできない。そうじゃないかな。転がったペットボトルを平気にしていられる車内の他人にぼくがいてもたってもいられなかったのは、ぼくの恥という感覚がぼくにとってのものでしかないということを痛感していたからだし。おいじじい、ゴミ拾えよ恥ずかしいだろ!なんて言ったらぼくの感覚ではぼくが正しいって言えるけども、そうはならん。まあ、それでもいい。


ココが「恥を問う」という強制平和に走ったのは、それらすべてを理解した上での提案だと思っている。そんなんで人は殺し合いをやめない。戦闘機ができる前から人は人を殺しているし。そういう提案は届く人もいるし、届かない人もいる。そんなことはわかっている。でも全員に届かないからといってその提案を辞めてはいけない。少なくとも恥って合理とは相性最悪だから。そういう他人の恥にすがる甘さがぼくにとっては「人間らしさ」な気がしている。


この世界は優しい君に優しくない

ヨナ君、それでも世界は好きかい?

ヨナ君の前で、ココは世界や人間に対しての呪詛の言葉を散々吐いていたけれど、たぶん彼女もきっと世界や人間を愛さざるを得なかった人だ。でなかったらあんなことはしない。


あ〜、ココ・ヘクマティアル。好きだなぁ。



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