鼻の形は呼吸気道の暗示。人生の息苦しさ度合いと気に関する安定度を表す。第二義的ににものの見方・見え方にも関わる。
鼻の形、向き、盛り上がり方、眉間部分の太さ、末広がりかまっすぐか、上顎との位置関係は、呼吸気道を暗示している。
呼吸気道は現代科学でいう酸素などの供給の意味のほか、東洋でいう「気」とか「プラーナ」の通り道という意味も併せ持つ。
人体においての呼吸とは最重要の外部とのエネルギー的接続形式である。
その形式がどうであるかを示すのが鼻である。
第2に大きな意味として、頭蓋骨における骨格的な目の位置を内側から規定し、鼻は左右の視野における照準の役割をしている。
同じ街並みを表現するにしても、欧米人の描く絵にやたら奥行きがあるのは彼らの鼻が高いことによる。
日本人を中心に、東洋人の絵やアニメでは奥行きが浅く描かれる。子供の空間認識もそうだ。これは鼻が低いことによる。
文字通り見え方が異なるのだ。
さて、鼻には上鼻道、中鼻道、下鼻道という3つの区切りがあり、それぞれ粘膜が渦を巻くように上下三段に配置されている。
下鼻道は最も広く、主に物質的な意味での吸排気を担う部分である。スポーツなどでバイタルが変動すると主にここを使ってスーハ―する。
上鼻道は狭く、吸気量も少ないが、嗅覚認識をする部位をとおり、副鼻腔の出入り口などがある。また、目の間あたりを通過し、脳の中央である脳下垂体あたりを通過していく。
中鼻道はその中間をとおる。
注目すべきは上鼻道だ。上鼻道の医学的知見はまだ驚くほど少なく、鼻炎の手術などでも下鼻道だけ広げておけばいい、というような感じである。
しかし私の研究ではここが様々な重要な意味を担っているように感じる。
端的に、物質的な意味以上の「気」の交換がうまくいかない環境だと、上鼻道はつまり、詰まったまま成長すると鼻が低くなる。
例えば、家庭で最も「厄」を引き受ける優しい子供の鼻は兄弟で最も低くなる。臭い環境で気を交換するよりは閉ざすほうがましに生きられるからだ。逆に最も伸び伸びした子供、もしくは空気の読めないしたたかな子供の鼻は高くなる。
鼻の根が高いことと、五歳頃からの上顎の前方成長もセットである。上顎骨の成長方向はその後の下顎の成長方向を規定する。つまり、鼻は最初に顔面の成長方向を決める要素である。
上鼻道の閉塞のほか、安心できない環境できょろきょろと空気を読むために目は、草食動物のように視野を広げる必要があり、本来鼻がドカッといすわるべきスペースにまで浸食し、鼻を引っ込める方向に働く。
鼻が低いのと、頭蓋骨における目の位置がどこかきっちり定まらない感じがするのはセットであることが多いのはそういう理由だ。逆に鼻が高くなりすぎると目が十分に動かないことが多い。 優性遺伝の法則に反して家族の中でなぜか一重だったり奥二重の子供が生まれたりするのは、だいたい鼻が高くなりすぎる子供である。このように鼻と目は牽制しあう関係にある。
また、鼻先は視覚的な照準を調整する意味と、下鼻道の通気割合を示しているように思われる。上鼻道が十分に機能していると鼻先はあまり大きくならず美しい印象を与える。
鼻先が大きく団子だと、愛嬌的・ブサイク的な評価を与える。鼻が高い+鼻先が小さい と 鼻が低い+鼻先が大きい の対応関係は大きい。
これにより、視覚自体も大きく影響を受け、視覚的な距離感の異常は外界との距離感や他人への距離感とも相似形となる。
また、鼻が低い人は、何かを見ているときに呼吸がおかしくなるのも特徴だ。呼吸を止めずに集中するということが難しい。
健常な成長、または鼻が高めの人であればまず生きるための呼吸があり、その安定の上に視覚が働く。呼吸>視覚という絶対優位関係がくずれることがない。
ところが、呼吸が阻害されて育った者は、基本的に呼吸<視覚であり、本来の生き物の優先順位に反しているため、呼吸をまず整えたがる身体を無理やり抑え込む形で視覚を優先している。
これは鼻炎・副鼻腔炎・頭痛・目の疲労・呼吸障害・ろうと胸・集中力の障害・歯列咬合異常など様々な症状を生むほか、挙動としても常に視覚を張り巡らしている印象があり、他人に脆弱な生き物として認識される。
太古から人相学的に鼻が自己認識とか自信といわれる深い理由はそういうことである。
このことは本人の病状のほかに対人関係での困難や損失をもたらし、運命をも左右することになる。
人類学的にいえば、社会が豊かで安定していくと、個人主義が成熟していくと、空気を読まなくていいほど、抑圧が少なくなるほど、鼻が高くなっていく。
しかしながら、鼻が高くなると弊害で「かわいいものの見方」や他人を感じるHSP/エンパス的/空気を読む能力はどうしても落ちる方向に働く。そして社会の感受性自体が落ちることで本質から離れていき、衰退へと至る。
これはひとつの家系の単位でも起こる。
人は強くなると鼻が高くなっていくが、鼻が高くなりすぎると空気を読めなくなって没落する、ということだ。これが鼻という器官を中心にみたときのサイクルである。
鼻が高い人間は鼻が低い人間の空気読みに支えられて得な立場で強い人間を演じられているが、そういう仕組みで成り立っていることをどこかで覚えておかなくてはならない。
このように人が有史以来見た目にこれほどまでにこだわってきたのには深い意味があるのであって、そこから逃避していても、優劣の言い合いをしていても、進まないのだ。
また、子を持つ親は子の見た目を雲の上から評して好き放題言っている暇があったら、家庭での自らのふるまいとつなげ、無限の反省の材料とすべきである。正しい心があれば子の造形が示すその意味が読み取れるようになる。
正しい心と直感と経験があれば、もっと多くの者がこれくらいには容易く気づけたはずだ。こういったレベルでの知見がほとんど聞かれないのは、ひとえに個々人が貧しい心と、鈍い感性にて、抜け出せないコンプレックスの沼の中におり、偽物の道徳観でごまかしたり、気分によって他人の見た目をなじるなど、圧倒的にクズな生き方をしていることによる。
二流医学者、特に耳鼻科の医者は素人の意見だと鼻で笑う者も多いだろうがその鼻がクソだと俺は書いているwつまらんプライドを捨てることが、冗談じゃなく詰まらない鼻を獲得することになるのだから、これを参考に臨床に向き合い知見を深めていくように。