ひろゆき―現代が生んだ最凶の相対主義者/相対主義者がひた隠しにする欠落点
彼は人生のよりどころを決して見せない
彼は美学を作らない
彼は強いこだわりを作らない
彼は一般人的な欲を見せない
彼は「偏っていない」ことをバレないようにこっそりと自負にしている
彼の明晰さは、何かにのめり込まないことからきている
のめり込まないから、冷静にどの立場にでもなれるし、
どの立場からも語れるし、どちらの立場を頭において演算できる
そのかわり常に彼は無責任である
法的にとか、約束とか、そういうことで無責任であるという意味ではない。彼はそこは「キチンと」している。そういう無責任さではなくて、
彼は俯瞰して語るけど、誰の何の未来に対しても、「こういう風にしていこうよ」という言質を極力とられないように振る舞うのである。
誰の何の未来に対しても責任を取らないからこそ、どの立場からでも面白おかしくそれらしい演算をして、それらしい気休めを言え、それらしい解決策っぽいものも瞬時に導きだせるわけだ。
なので、矛盾して衝突している両者の仲裁のようなことになると、彼はとたんに片方だけの時にアドバイスしていたことをすべて引っ込め、
語る内容や自分のポジション取り等の、優先順位を瞬時に切り替えるのである。
どちらかに明確な矛盾やおかしさや古さや、時世柄の優勢さがあった場合には、誰よりも目ざとく計算して、切り込むが、一般的な意味での自分自身の欲ではない(変なものを茶化したい欲だけ)ので、踏み込みすぎることもなく、茶化しを楽しみながら巧みに場の求めていることをこなす。
それは、そもそも彼には「美しさ・儚さ・熱さ・素晴らしさ」というものが見えないから、それができないし、興味も持てないからだ。
彼が唯一、何かを生み出すとすれば、世の中のおかしいものとおかしいものをぶつけ、「こうすればマシなものになるんじゃない?笑」と面白おかしく語ることによって、だ。
過去の大きな成功とされる、2chもニコニコも、彼の創造力で作ったものというよりは、アイディア自体は結構誰でも思い浮かぶものであって、
「社会のせめぎ合うものを面白おかしくぶつけさせる」
「リスクをどうにかやりくりして適当にすっ飛ばす」
ことによって、社会の隙間に割って入ってできたものである。
そういう意味で彼の在り方は一貫している。
場や社会に既にあるものから論理的に導き出された主張であれば、彼自身の主張や好みや立場といったものは薄まり、面倒な「縛り」は発生しないからだ。
これは一見、論理的な成果物として導き出された、極めて理知的な発想のように思えるし実際そうなのだが、(全員が手本にしたほうがいいくらい)
彼の場合は言質や縛りや面倒くさいものが嫌で、それを利用しているという理由が大きいから、手放しでほめる気になれない。そして彼自身も別に褒められたいとも思っていないだろう。
彼の原点にあるものは何か?
彼は世の主義主張や美学やこだわりや風潮や癖や流行り等の 脆さ怪しさ滑稽さを心の底からあざ笑っている
おそらく彼の気質・性質と、幼少期の体験からきているのだろう。
彼の性質を浮き彫りにする幼少期の印象的なエピソードがある。
ソースが見つけたれなかったので、とりあえず記憶を元に。ソースが見つかったらリンクに置き換えます。
「小学校のときによく殴ってくる奴がいたんだよね。そいつがいつも殴ってくるもんだから、校舎の入り口に先生が立ってる前でさ、最後に一発殴り返してすぐに先生の前に行ったんだよね。そしたら、そいつ殴り返せないじゃん。笑 それでそいつ多分めっちゃむかついたと思うんだよね。笑笑」
彼の歪みがこのエピソードに凝縮されているなと自分は感じた。
傷つくでも、悩むでも、彼は何で殴るんだろうと不思議に思うでも、彼に負けたくないと思うでも、誰かに相談するでも、彼と仲直りしようでも、仲良くなるには?どうして彼のような人がいるんだろう、と考えるでもなく、
全部すっ飛ばして、そいつとの関係なんてどうなってもいいから、一番ムカつかせることをしてあざ笑い返すという選択をいきなり選ぶ、彼の行動原理に。
この世はそうして生きるのが最適なんだよ、笑
という小学生にしてそこにいきついた彼の洞察力の異常性と、
自分が苦しむ方向でなされる報われない試行錯誤をすべてすっとばそうという、感情的に少しだって損してたまるかよという、究極のエゴイスト性、精神堅牢性に、底なしの歪みを感じるのだ。
彼や、彼を筆頭にした相対主義者というのは、このようにして処世の最適解としてそういう生き方になっていき、それが人として賢いのだと信じて疑わないという共通点がある。
彼は世の主義主張や美学やこだわりや風潮や癖や流行り等の 脆さ怪しさ滑稽さを心の底からあざ笑っている
と先ほど書いたが、
一方で、それらは負を生み出すと同時に人間の生きる源泉でもある。
何かに熱くなったりハマったり、夢中になったり、憧れたり、究極のものを目指したり、恋に落ちたり
そういったもの自体は生の衝動、性の衝動、正の衝動であって、
だけれども、いつも指摘しているように、それがエゴや未熟さや保身や弱さやずるさと結びついて変なことになっているわけだ
問題なのは、「エゴや未熟さや保身や弱さやずるさと結びつく」ことなのであって、人間の「生の衝動」そのものではない。
「生の衝動」自体のありようを否定してしまう人、そこをあざ笑ってしまう人というのは、
自覚のあるなしに関わらず、「創造する」ことができず、「生みだす」こともできない。
そして、自分がそれを表現することに人一倍「恐れ」を抱えている人でもある。
例えばそうだな、すごーく身近な例でいえば、「どんな服を着るか」とか「カラオケでどんな選曲をしてどう歌うか?」とか。
若い頃は誰だって一度は気になることでしょ?
そういったどうしても美的感覚や表現が必然と問われてしまう場面で、そういった人間は人一倍の不安を抱える。
どうやっても相対化で逃げ込めないからだ。
一当事者としての表現が露わになってしまうからだ。
そして評価されあざ笑われるリスクに晒されるからだ。
そこに確実な安全圏・優位点はないのである。
客観的な観察者・評価者から引きずり出された彼らは、こういった何気ない日常の場面でさえ、たちまち無力になるのである。
自分という存在を丸ごと使い「何かを表現してみよ。」と問われたそのときの彼らは、人一倍小さく見える。
誰しもが幼い頃に味わった、表現と評価という答えのない、あの緊張感、ばつの悪さ、不安、自信のなさ、の感覚
自分という存在と切り離した、安易な思考装置で処理することで、逃げ続けてしまった人間の末路がそれである。
そういうときの彼らは、興味がないふりをして人一倍恥を気にしており、趣味趣向を隠し、ノラリクラリと、なんとか「無難」な様相に逃げ込もうとする
身の程とか、かっこつけないとか、年相応とか、無難とか、気にしてません風とか、そういったことをしばしば口にするが、
彼らを観察していると不自然かつ異常に表現を避けているのが分かる。
真に自然体の人間というのは、表現にある程度の幅があるものだ。
彼らは実態としては、そんなことにさえ、何歳になっても不安でおびえているのである。
安易な相対主義者たちは、人間として生まれた以上、美や創造力といったものと、誰もが向き合う必要性と必然性があることに気づかねばならない。
そこに向き合ったとき、はじめて、恥をかく人間を安易にあざ笑うことがなぜ罪であるかを知る。
そして、おのずと相対主義の限界を知る。
人には生の衝動があり、そこから必然と恥も生まれるのだと。
そこと向き合うことなしに、美や創造力と向き合うこともできない。
それができて初めて、相対化も意味を持つのだと。
相対化とは恥から逃げて、他を見下して、自身を安全にする装置ではない。
相対主義者とは、「美と創造力と表現」に向き合った瞬間に崩壊する、砂上の楼閣であり、向き合う覚悟をした瞬間に、己に表現できるものがないことに気づき、己の無力さと醜さを晒す、最もあざ笑われる立場に落ちるまぬけな人種である。
常々言っている、「全ての人間よ、己の醜さと向き合うべし」と同じこと。
ひろゆきさんよ。
「何かに熱くなったりハマったり、夢中になったり、憧れたり、究極のものを目指したり、恋に落ちたり」 等が根本から分からなかったり、抑圧していたり、距離を置いて、見下して、チョコマカ生きようとすればね。
世の 主義主張 美学 こだわり 風潮 癖 流行り等の
脆さ 怪しさ 滑稽さ を、あざ笑ったり、常に冷静でいたり、
論理性を維持するのが簡単になるのは、「当たり前」の話なんだよ。
それすらできてる人が希少種だから、あなたのような人に価値が生まれているわけだけどね。
「何かに熱くなったりハマったり、夢中になったり、憧れたり、究極のものを目指したり、恋に落ちたり」といったエネルギーをもった人間が、
間違ったり、迷ったり、リスクを負ったり、のめり込みそうになったり、裏切られたり、社会の矛盾に苦しんだり、自分を責めたり、居場所のなさに苦しんだり、しながら自分の存在を高めて、
それと同時に手にした、論理性とか相対化して考える力というのに、真の創造的な力、つまり価値が生まれるのではないかい?
そうして説明した価値さえ、相対化で貶める姿が想像できるけどね。
あなた自身が 美しさ儚さ熱さ素晴らしさが、根本から分からない欠落した人間であることも薄々気づいていると思うし、もうそれで生きるしかないとどこかで決めてしまってるのかもしれないけど、
あなた自身がその調子で、欠落をうまいこと封じ込めて
仮に社会的に人生逃げ切りに成功したとしても、
その歪みは多分、全て子供に行くと思うよ?
ひろゆきの子供が成人して、言うことを聞かなくなったときに、
自分の言葉でそれを語りだせるようになったときに、
きっと何らかの清算が起こるんじゃないかなー
まあでもひろゆきさんは「嘘」はつかないし、自分と切り離した範囲での論理的な言葉では「矛盾」も抱えないし、自分の性質に「正直」ではあるから、そこまでひどいことにならない気もするけどね。 ただ生き方が巧妙で指摘する人がいないだけで。
ただ、今のところはまだ、どこまで行っても、欠落を抱えた相対主義者という見立てになるかな
僕としては彼という存在を通して見てみたいものがあるとすれば、2つかな
1.何かの拍子に過去のムチャの清算として捕まったり負債を抱えて、世間の風向きが変わったとして、それでも同じ調子でニヤニヤしていられるか?
2.彼の子供が成人して彼の家庭で見てきたものや親をどう表現するのか?
この2つのごまかしの利かない状況で見事なものが見れれば、
僕は彼の存在を、小手先の相対主義者の延長じゃなく、新種の完成された何かとみることができるようになる気がするね。
勝手なことを書いてごめんね。
最後に誤解のないように最後に書くけど、俺は人としては好きなんだよね。
人に何年も前から、ひろゆきのこと誰かにいち早く勧めてきたしさ。
好きなのは「嘘」つかないし、「矛盾」抱えないし自分の性質に「正直」だし「素直」だし「面白い」から。
ただ、巧妙に見せないようにしてる欠落を確認したいだけなのよw
彼はよく言ってるじゃんwプライドは無駄ですとか、自分のよく見せようとして嘘をつく人は損ですとか。
見せないようにってのは、自己卑下してるような「ただの飲んで喋ってるおっさんです」とかそういうのじゃなくて、もっとエグイ欠落の部分ねw
落ち込んだり、思い悩んだり、迷ったり、口下手になったり、感極まったり、感動したり、どうしても苦手な人がいたり、
人とのかかわり方もさ、もっとパターンがたくさんあるはずじゃない?
いつもどこか余裕と見下しを保ったまま全ての状況を捌いてる感じでしょ?
それ以外のパターンがないって、何かがおかしいと感じない?
その不自然さを紐解きたいのさ。
あらゆる知識と知恵を集めて、機転とキャラでやりくりしてきて、余裕ぶっこいてる相対主義者がその2つの状況で機能すんのか?
俺の見立てでは、見たことない動転したひろゆきが見れそうだなってw
さっきまで長々書いたのはアレだよ。君がいつもまわりにしてるのと同じノリで僕も言ってるだけだからさw 君もよくやるでしょ?余裕そうに見せようとする立場のある人の粗をついてアタフタさせるやつwそれを君自身にやったらどうなるのかなーって君が感じさせたのさ。君以外にならこんなこと面倒でわざわざ書こうとも思わない。
多分、動転してヤツれて喋りがボロボロになったひろゆきを見て、本当の意味で、俺はもっとあなたを好きになれるだろう予感がするよ
まとまりがイマイチなので疲れたから後で見返して推敲しよ
11/10 うちの母から「ねえみて~。【ひろゆきさんの美人妻初公開】」みたいな動画がいきなり送られてきて、
あ~なんかそろそろ時が来たかな~ って感じたので公開することにする
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