70th_未来に生きるため、ではなく、今を生きるために。
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このブログは、
"200~500kmを走るジャーニーラン"というクレイジーなレースにおいて、
その最高峰を目指すとある男の実録である。
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■ おはようございます。
ゼロフジゼロを終え、また還ってきました。
生きてます。
右の小指に豆ができたくらいで、大きな外傷はなく、
まぁ、疲労感があるので、睡眠欲と食欲は旺盛ですが、
他は至って普通です。
■ でも、また旅に出ます。
どこへ?そんなことわかりませんが、
日常に染まってしまってはダメな気がします。僕は。
感度や鮮度、活きを失います。
なので、今日は奈良に来ています。
なぜ?って、そんな気がしたからです。
■ ゼロフジゼロから帰ってきてからも、
日常が否応なしに迫ってきています。
ジムの仕事や家の洗濯、片付け。
何であれ、しないといけないことです。
もしくは、したほうがいいことも同じです。
既にそこに待ち構えています。
そうやって、しないといけないことで日常が埋め尽くされ、
気づけば時間だけが過ぎていきます。
日はまた登り、あるいは沈み、を繰り返す。
正直、僕はそう言った生活に辟易しています。
■ わかっています。これが「日常」だということも。
当たり前に息をし、当たり前のように食べ、当たり前のように起きて、
仕事をして、笑い、泣き、寝る。
これが日常。
急転直下の、まるでジェットコースターのような出来事は、
小説やドラマの中での話で、
日常生活をしている中では、そんなことは起こりません。
日常生活は、ただの生命維持装置で、
それを成り立たせるがために、決まりやルール、タスクがあります。
そのルールやタスクに従って、今を生きないと、
数日後、数ヶ月後、数年後も生きていられない。
つまり、生命維持ができなくなるから、
それらのルールに従い、タスクをこなしていくのです。
ご察しの通り、"数日後も"、"そのまた数日後"も、
数ヶ月後、数年後に生きるためにHave toをこなします。
そうやって連綿と続く、生活の営みを成り立たせるがために、
時間を使っていきます。
■ ジャーニーランは、それとは違った時間軸で時間が進みます。
今この時をいかに過ごすか、その一点だけです。
立ちすくんでいようが嘆いていようが、時は進むのです。
今この瞬間を精一杯前に進むために、手足を動かし続けるのです。
先々のこと、なんて考える必要はありません。
1秒でも早く、1分でも早く、ゴールに着いて、
お風呂に入るなり、横になるなり、飯を食うなり、をしたいのです。
そこには、"必死さ"があります。
日常生活だと、必死に生きることなんてありません。
毎日が必死だと、どんだけ生活が大変やねん!ってなりますからね笑
ただ、一生懸命生きる、と言う点においては、完全にジャーニーランの方が分があるのです。
■ 今回はまだ、ゼロフジゼロのレポートをまとめきれていません。
ただ、
「3日と17時間33分、
ただただ必死にゴール目指して走っていた時間は幸福だった」
ということは確かです。
今はただ、ゼロフジゼロの消失感(ゼロフジゼロロス?)が、
僕を旅へと誘っているのかもしれません。
どちらにしても、
あの長かった灼熱の旅を少しづつ思い返していきます。
今日もお読みいただき、ありがとうございました!