「厚黒学」 中国史に見る成功の秘訣(記事71)
西暦2000年頃、重慶留学中に中国人学生の間で「厚黒学」というものが少し流行りました。
最近、中国のネット販売(淘宝)で『厚黒学全集』という本を見つけたので、懐かしい思いにかられて買ってみました。
厚黑学(hòu hēi xué)
作者は中華民国時代の李宗吾(lǐ zōng wú)です。
清代末期に生まれて1943年(日中戦争中)に亡くなりました。
李宗吾は元々儒学を学んでいました。当時においては当然なことです。
しかし、李宗吾は史書を読んでいて疑問に思うことがありました。歴史上の成功や失敗、盛衰の帰趨というものが、儒学の聖賢(孔子・孟子など)の説く道理と符合しないのです。
李宗吾は具体的な例を挙げていませんが、どういうことかは容易に想像がつきます。孔子が説く「仁」や孟子が説く「義」を実践したからといって成功者になれるとは限らず(そもそも現実社会において「仁」や「義」を押し通すのは非現実的)、逆に「仁」も「義」もないのではないか、という人が帝王として君臨してきた、という事実があります。
そこで李宗吾が打ち立てたのが「厚黒学」です。
李宗吾は「古人の成功の秘訣とは、『脸厚心黑』に過ぎない」と言っています。
脸厚心黑(liǎn hòu xīn hēi)
「脸厚」は「面の皮が厚い」、「心黑」は「腹黒い」です。
李宗吾は『三国志』から例を挙げています。
まずは曹操です。
曹操は呂伯奢を殺し、孔融を殺し、楊修を殺し、董承・伏完を殺し、皇后・皇子を殺し、その態度は強暴傲慢で反省することもなく、「私が人を裏切ることがあっても、人が私を裏切ってはならない(寧我負人,毋人負我)」と言い放つほどでした。
このような曹操は「心黑(腹黒い)」を極めていたので、一世の雄となったのも当然のことです。
次は劉備です。
劉備は曹操を頼り、呂布を頼り、劉表を頼り、孫権を頼り、袁紹を頼り、東西を駆け巡って他人の厄介になり続けながらまったく恥じ入ることなく、しかも難題に遭遇すると泣いて解決してきました。「劉備の江山は泣いて創り出したものだ(刘备的江山是哭出来的)」と言われているほどです。
このような劉備は「脸厚(面の皮が厚い)」の代表で、「心黑(腹黒い)」の代表である曹操と双璧を成しました。
最後は孫権です。
孫権は劉備と同盟して親戚にもなりましたが、突然荊州を奪取し、関羽を殺しました。その「心黑(腹黒い)」は曹操に似ていますが、すぐに蜀(劉備)と仲直りしたので、黒さが曹操に及びません。また、曹操と対立していたのに、曹操に対して突如臣下と称したところは劉備の「脸厚(面の皮の厚さ)」に似ていますが、すぐに魏(曹操)との関係を絶ったので、厚さが劉備に及びません。
こうしてみると、三国時代は「心黑」が突出した曹操、「脸厚」が突出した劉備、どちらも兼ね備えながら曹操や劉備の域には達していない孫権の三者が対立していたことになります。
曹操、劉備、孫権の死後に台頭するのは司馬氏の親子(司馬懿、司馬師、司馬昭)です。
司馬氏は曹操の子孫に当たる寡婦や孤児を欺いて政権を握りました。その「心黑(腹黒さ)」は曹操と同じです。諸葛亮が司馬懿を挑発した時、司馬懿は「巾帼(女装)」の侮辱を受け入れました。その「脸厚(面の皮の厚さ)」は劉備と同じです。
『三国志』の最後は「心黑」と「脸厚」を兼ねそなえていて、しかもどちらも極めていた司馬氏が天下を統一することになります。
諸葛亮は天下の奇才でしたが、司馬懿を相手にしたら手も足も出ず、結局中原の地を尺寸も得ることができないまま、血を吐いて死にました。王佐の才(帝王を補佐する賢才)も「厚黒名家」には敵わなかったということです。
以上が『三国志』を例にした「厚黒学」の概要です。
李宗吾は諧謔を交えて当時の中国を論じたので、発表当時から批判や反論も多かったようです(「厚黒学」に関する書籍は繰り返し出版されていますが、一番最初に出版されたのは辛亥革命の頃です)。たしかに「こじつけ」と思える部分はありますが、冗談半分、軽い気持ちで読んでみると意外と「なるほどねえ」と思えることもあって面白いです。
あと、20年以上前の留学中は『厚黒学』一冊を読むのがとても大変でした。でも今は普通に読んでいます。今さらながら、中国語が上達したなあ、と実感もできました。
ちなみに本のお値段は、定価29.8元、ネット販売で12.8元(300円弱)でした。