アフガン クイジン
世界三大料理という。
フランス料理に、中華料理ときて、さてもう一つはいったい何だろう? インド料理か? イタリア料理か? 日本料理、ひょっとするとトルコ料理か?
こんなとき一言もないのは、冷や飯好きの北欧人か、食事に関して遠慮深いイギリス人ぐらいではなかろうか。
ともかく世界中のありとあらゆるところに、どうしてもゆずれない自慢料理がある。
だから最後の一つは空けておく、そうして各人好みの一品を加え晴れて世界三大料理の完成というわけだ。
ぼくにとっては、アフガン料理がそれだった。
1978年の冬。アフガニスタンの首都は四月に起きるクーデーの前夜にあった。冬枯れた高原の都はふだんとかわりなく、 ぼくはカーブルホテルの食堂で旅の計画をたてていた。
「最近どうもロシア人が多いんだ」 ガランとしたホールの片隅に見かけない白人が目についた。
友人のネクママンが顎で指した。そういえば昨日も何組かみた。場ちがいな背広を着て、商売人でもなさそうだ。
ひとり、おし黙って食事をとっている。
「狼は共食せず、だな」しばらくその後ろ姿をみつめていた彼は舌打ちしてぼくに向きなおり、「そうだ。マザーリにうまい料理屋があるよ」と旅の話にもどってきた。
マザーリシャリフはアフガニスタン中部、ヒンズークッシュ山脈を越えた北側のトルキスタン平原にあるまちだ。
「遠いだろ。どのくらいかかる?」 「車なら三日もあれば充分だ。おれが案内して最高のカブリパラオをごちそうするよ」
このひとことで決った。
カブリパラオは人参入りの羊肉たきこみご飯のことだ。
ゴマ油とサフランで味つけされた米料理の傑作である。
北部には米の生産地もあり、また夏の放牧でまるまると肥 えた羊も手に入る。しかし麦を主食とするこの地ではもともと米の飯はぜいたく品であった。
「カブリパラオは特別の祝い事の時以外、我々庶民にはます ます縁遠い料理になっちまったよ」今では高根の花なのだ。 王制時代と何ら変わらない共和制の弊害ばかりが目立ちはじめた当時、富の格差のあまりの不公平は一介の観光客であるぼくの目にも確かに不愉快に映った。
1973年の夏。無血クーデターで王制が崩壊したアフガニスタンでは人々が一夜の夢に酔いしれた。
カーブルの街中、いたるところに花が飾られた。
「これからはよい時代がくるよ」と兵士たちでさえ花束を砲身につめた戦車の上からにこやかに手を振った。
人々はなけなしの金をはたいて菓子や肉飯をおごりあい、 誰彼となく握手した。「これからよい時代がくるんだから」 と。それから四年。共和制はよりよく機能しないばかりか、政治家と役人の利権争いは激しさを増し、農政改革の遅れは 気候条件に左右されるこの国の農業生産をいちじるしく低下 させ、農民の大部分を占める小作人は来年の種モミまで食いつくし、また借金を重ねていた。
ぼくたちは雪の晴れ間をぬって峠を越えた。
一面の銀世界は下るにしたがって春の気配をみせた。雪ど けの流れが凍りついた土手を洗い、気のはやい木々の芽がほんのり紫色に色づいている。霜柱のたった畑に朝の光がさす 霧が平原一面に濃く流れただよった。
刃物のような地面の上を素足の子ども達が小銭を握って走る。朝のパン屋はあたたかい。炭火のたっぷり入ったタンドリ(素焼きの大瓶)で焼き上げるホカホカのナン。 白い粉だらけになって生地をのばし、シャモジの親玉みたいな木ベラで炉の内壁にナンをはりつけている職人。
子どもたちはパン屋が大好きだ。いい匂いがするのだ。 寒さにかじかむ足をこすり合わせながら「ナンをおくれ!」 とうるさく催促する。
しばらくして、子どもの胴体ほどもあるキツネ色の焼きたてが店先につみ上がる。ヤッタ! とばかりに少年はあたたかい ナンを腹にまくと冷めないうちに家へとんで帰るのだ。
ナンを買った。口にふくむと香ばしい麦の味がひろがった。 弾力のある歯ごたえ、顎の筋肉がうれしがっている。
北の平原はもう春だ。ぼくたちはキリにかすむマザーリシャリフの青いモスクをめざしてすすんだ。
カブリ・パラオ
ネクママンは誇り高きパシュトウ人だった。
あるとき彼はこう言って胸をはった。
「おれを、ハジと呼んでくれ」
ハジとはメッカ巡礼をはたした者に与えられる尊称である。 ネクママンは苦労してメッカに巡礼したことを何より自慢にしていた。つまり彼は二重に誇り高い男だった。
アフガニスタンは典型的な多民族国家である。
各地域で生活・習慣・言語・宗教まで異なるうえに、長い部族間抗争の歴史が積み重なっている。
二人で向かったマザーリシャリフのある北部域はウズベク人、タジク人、ハザラ人らが主に居住する地域である。
彼の他民族に対する尊大な態度は道中各地で小さなトラブルを起こしつづけ、ことあるごとに「気をつけろよ、我が友。ウズベク人は粗暴な奴らだ。すぐに匕口(あいくち)を抜くぞ」と首をかっ切るまねをしてぼくをうんざりさせた。
めざす料理店は廃墟の盛り土の中にあった。
穴蔵におりていくかっこうで二、三段さがって入口があり、 厚くて重いキリムの布が扉のかわりにかかっている。
室内は薄暗く床は土のタタキだった。人の肩の高さに明か り取りの窓があいて格子の間から道行く人の足がみえる。
まるで中世の牢獄だ。
「遅れとる!」ネクママンはショックを受けてつぶやいた。
何人か先客もいて板張りの縁台にあぐらをかいて食事をして いるのだが下を向いたまま表情もくらくてわからない。
急にランプの光りが足もとをてらしだした。
素足の少年が時代物のランプをもって、はにかんだ表情でぼくの顔をみつめていた。
マッチ棒ほどの明かりがジ・ジとまたたいてネクママンの苦虫をかみつぶしたような顔がだいだい色に染った。
店じゅうの視線がぼくたちに集中している。
「日本からのお客さんだ」
ネクママンが言うと値踏みするようにみつめていた闇の中の目がかすかにうなずいたように見えた。
「サラーム・アレイクム(あなたに平和を)」
ぼくは胸に手をあてて挨拶をした。
一人が立ち上がってぼくに握手を求めてきた。
「日本人か? 日本人なら歓迎だ」そしてこうつづけた。
「日本はインドのどのあたりにあるのかね?」
答えようがない。すると別の一人が「日本は中国の近くにあるんだよ。そうだろ? 日本人」
そう。ほとんど正しい。
日本の位置は知らなくても日本の情報は驚くほど知ってい た。トヨタ・サンヨー・カワサキ・ソニー、男は日本の腕時計を振りまわし、高層ビルのこと、空中を走る高速道路やモ ノレール、動く歩道や地下街のこと、遊園地や新幹線、夜の新宿やその人混みを語った。
「行ってみたいなあ」少年が目を輝かせる。
「だけど、そこに神様はいないよ」つい口にでた。
「じゃあ、あんたは今のアフガンに神が居るっていうのか?」 男がつっかかってきたところで店の主人が大皿に山盛りのカブリ・パラオを持って入ってきた。これが絶品だった。
サフランで黄金色に輝く飯をすくう。指から油がしたたる。 キリリと引きしまった長粒米(インディカ)が口の中で踊った。天然の人参の甘み、若い羊のイキのいい肉塊、岩塩の骨太な深い味が、しぼりたてのゴマ油の香ばしいかおりに包み込まれていた。
茶がおごられ、煙草がさし出された。
「さあ、もっと話してくれ」
テレビがあってFAXでやりとりする現在でも旅人との雑談こそが情報を仕入れる最上の方法であることを知っている。
村の茶店に立ち寄った羊飼いが今年の草の状態を語り秋の羊の相場を予想すれば、長距離バスの乗り継ぎ客がカセットで最新流行の音曲を流す横で、新柄の布地を自慢し合う女たち。60年代、ロンドンで発生したミニスカートの流行をいちはやく取り入れたのは、この国の若い娘たちだった。
「今一番人気があるのは、ハイライトよりマイルドセブンだ ってね?」と訳知り顔に出された煙草に面くらうぼくに、「これがアフガン人だよ」と男は言った。
古代からその文化を受けつぐ交易中継都市国家の人々は、 世界の各地からやってくる旅人を「遠い国からやってきた美しい嘘つき」と呼んで歓迎する。
世界三大料理
ネクママンは濃紺の民族衣裳に身をつつみ遠くからぼくに手を振っている。彼は黒々とした濃いヒゲを生やしているの で遠くから見ると顔半分覆面したようにみえる。ツヤツヤと光沢をおびたヒゲは切れ目なく首までつづいているものだから、はじめは全身がヒゲだらけなのではないかと思ったほどだ。
家はまちはずれの小高い新興住宅地にある。
雪がのこるどろんこ道を彼の家へのぼっていった。
午後の陽をあびて、まばらに雪が凍りついたなだらかな丘に凧揚げをする子どもたちがむらがっていた。
車輪にこねくりまわされた泥の中から一本ずつ足を引きぬきながら歩く不格好な外国人をみて、子どもたちが大声では やしたてる。なかでも一番大きな声をあげていたのがネクママンの息子のハリルだった。
ハリルは手のかかる羊の世話をする牧童のようなしぐさで、 ぼくを乾いた道へ誘導し家までつれていってくれた。
まちかまえていたネクママンは上機嫌で彼の一家を紹介した。老父に、伯父に、大小の兄弟たち、全員立派なヒゲをたくわえた成人男性のみである。
ストーヴがたかれた居心地のよい居間のまん中に敷物をひく、そのまわりに全員が車坐になった。 水差しがまわされ手を清める。老父が両手をかかげて祈りをとなえる。皆が唱和する。ひょいと盗み見ると外では元気だったハリルが不機嫌そうに下を向いて給仕をしていた。
すばらしいごちそうだ。人参入り肉飯(カブリパラオ)、饅頭入りミートソースヨーグルトかけ(マントゥ)、トルコ風ちまき(ドルマ)、オクラとトマトのスープ(チョルバ)、ドライフルーツの盛り合わせにデザート。
これだけの料理を作った準備をおもう。
「感謝の表現はただひとつ腹一杯食べまくる!」とネクママンが左手でヒゲを持ち上げると右手で器用に飯をすくいとった。おいしい料理も悲しいかな満腹にはかなわなかった。
「もう入らない!」半分ほど残った皿をにらみつけながら、 食後のお茶をすすっていた。ハリルがいそいそと皿を下げて いく。その時気がついた。うかつだった。客と主人たちに供された料理の残りをまっている女性と子どもたちがいること を。もう少し残しておくべきだった。
食事を終えた子どもたちがやってきた。元気いっぱい、膝にとびのってきた。「やっぱりさっきは腹がへっていたんだ」
ハリルの紹介で近所の子どもたちとよく遊んだ。丘の斜面は格好の遊び場だった。手ごろな板きれに乗って坂をすべり下りる。土くれを投げ合ってころげまわる。ハリル以外はみんな定職を持っている子どもたちだった。
八百屋の手伝い、パン屋の助手、鍛冶屋の見習い、靴みが き、彼らの中には幼くしてもういっぱしの商売人さえいた。 ぼくはみんなに馬のりを教えた。勢いをつけて相手の背中に飛び乗るのだ。体重をかけておしつぶす、つぶされまいと歯をくいしばる。かん声がわき、どなり合う。最後には必ずけんかになったが、これにはみんな熱くなった。
しあわせなまちの景色には子どもたちの声がかかせない。 どれほどオツにすました清潔で美しい町並でさえ子どもの走 る姿や笑い声が聞こえない土地はどこか異常だ。幸いにぼく が旅したどんなまちかどからも、そんな声が聞こえていた。 たとえその地が紛争中であろうと、必ずどこかに子どもたち の風景がみえかくれしていたのだ。
90年当時、アフガンの人口の1/3が流民化していた。
友人たちの安否も不明だった。ぼくは機会を得てアフガン に入国した。まちはかわったろうか? 砲弾の音にびくつき ながら、ぼくはかわらない景色をさがしている自分に気がつ いた。人々が去り、板を打ちつけられた店やの角からハリル たちが走り出して来ないかと。
中庭つきのしゃれたレストランが営業していた。おしゃべ りを楽しみながら食事をした時代がうそのように、たまに入ってくる役人や軍人たちは黙りこくって食事をしている。
ぼくは久しぶりにカブリ・パラオを食べた。
かぐわしかった米は外米にかわっていた。味はやせ、香りもかわき、ボソボソと口の中で崩け散った。
ぼくは下を向いてガツガツ食べた。
食べおえてげっぷをしながらつぶやいた。
「狼は共食せず」
ぼくの三大料理のひとつが崩壊したのだ。
(完)