Que será será
Que será será
正直に言って、私はこの言葉が嫌いだ。
いや、正確にいうと嫌い”だった”。
Que será será「ケ・セラ・セラ」
日本語ではよく「なるようになる」と訳されている。
いかにもスペイン人やラテン系な ”のほほん” とした表現ではあるが、実はこの慣用句は実際のスペイン語表現に存在しない。
※(元々曲のタイトルからきたもので、例えるならばNewsの「チャンカパーナ」的な一種の造語表現なのだ。)
私は少しだけスペイン語には詳しいが、この言葉に初めて出会ったときはこれがスペイン語かさえもわからず、ただ英語ではないなという印象のみ受けた記憶がある。
それが今ではこの慣用句の文法さえしっかり分かるなんて、当時の私は想像もしていなかっただろう、、、本当に人生はどう進むかわからないなと改めて思った。
そんな起源や郷愁はさておき、
私はこの言葉が嫌いだった。
それはなぜか。
それはどこか、自身の行いに対して「受動的かつ放任的」な印象を受けたからだった。
というのも、この言葉には2通りの解釈があると私は思っている。
①なるようになる(受動的)
→マイペース、楽観的
②なるようになる(能動的)
→人事尽くして天命を待つ
私が嫌いなタイプのケセラセラは①。
本当に、偏見の塊ではあるがケセラセラを口にする人のほとんどが、私にとってはこの①のようなイメージなのだ。
一見、何も物事に対して深く考えてなさそうにしている彼らのことを、言葉をあえてきつくすると(あえてきつくする必要は全くないが)私はどこか心の奥底で軽蔑していたような気がする。
軽蔑というよりも、自分とは正反対の人間として全くもって理解できないと言った方が正しいのかもしれない。
ただ、その理由も大人になるにつれ少しずつ浮き彫りになる。
そう、私はただ彼らに嫉妬していたのだ。
彼らの、そのケセラセラな ”なるようになる” 思考に。。。
もちろん、彼らも人前ではそう振る舞っているだけなのかもしれない。
人間、誰しも傷つき、苦しみ、なるようになるなんて到底思えないことがしばしば起きるのが人生だ。そんなことは自分でもわかっている。
彼らと話すと、今ではどこか肩の荷が降りる感覚を覚える。
どこか自分が、シンプルな存在になる気がする。
何か自分の行いが認められ、赦された気持ちになる。
教会に通い、祈りを知る人はこうした感覚なのだろうかなんて考える。
自分には到底なり得ないだろうな、、、
とはいえ、嫉妬を認め、理想像として再認識できただけでも私にとって
大きな糧になるのではないだろうか。