【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【10】
週末に、ドハとウンソンは飛行機で金海(キメ)へ向かった。先週までは週末返上で出勤していたが、韓日関係が小康状態に入ったため、今週は時間をとることができたのだ。
国防部は独島派兵を進めており、日本はこれ以上反撃してこなかった。
今回の事態はこのラインで収束するだろうという見方が、いわゆる専門家たちの発言を引用したメディアで流れていた。
金海空港に降り立ち、タクシーで30分ほど走ると、金海文化院という2階建ての白い建物が現れた。
建物の前の広々とした階段 の上に、画家のようにベレー帽をかぶり、紐にぶら下げたペンを首に掛けた老紳士が、優しく笑って立っていた。
「あ、電話くれはった学生さんやね? ようこそおいでなさいました」
ウンソンはイ・ヒョジェ先生に2人が博士課程の学生だと言ったようだ。
「お忙しいところにもかかわらず、時間を割いていただきありがとうございます」
「ええんです。家におってもただ新聞でも読んどるだけですから」
イ先生は、自分の車にドハとウンソンを乗せた。
車齢20年以上の古い車だったが、車体にキラキラと艶が出るほど手入れがよく行き届いていた。
「金海に来はったら、まずは一番の年寄りに挨拶せんとね」
イ先生が二人を連れていった場所は、首露(スロ)王陵だった。入口に崇化門(スンファムン)という扁額がかかった大きな瓦屋根の建物が立っており、頭をもたげた2匹の亀がその前を守っていた。
その横には、普通の観光地のように、首露王陵の案内図と説明文がハングルと英語で書かれていた。
首露王陵 史跡第73号
西暦42年亀旨峰(クジボン)で生まれ、駕洛国を建国した首露王の墓域であり、納陵とも呼ばれる。
直径22メートル、高さ6メートルの円形封墳として、陵碑、三石、文武人石、崇安殿、安香閣、神道碑閣等が配置されている。(中略)「三国遺事」の「駕洛国記」には、113年、首露王が158歳で崩御すると、宮城の東北側の平地に殯宮(ひんきゅう)を建てて葬儀を行った後に、周囲300歩の土地を首露王墓と定めたと記録されている。
太極模様が描かれた門を過ぎ、「駕洛楼」という扁額がついた二階建ての瓦屋根の楼閣の中に入ると、左右に瓦屋根の建物が列をなして立っていた。
イ先生はドハとウンソンをその中のこぢんまりとして上品な建物の中へと連れて行った。
「ここに首露王と首露王妃の肖像画があります」
肖像画の首露王は、赤いトポ(※)を着て白い髭を垂らし、玉座に座っていた。瞳が一際大きく鮮やかで、魂がこもっているだった。
その右側に座っている許王妃は、空色のトポを身にまとい、落ち着いた様子で両手を合わせていた。首露王よりも顔が小さくおぼろげで、より神秘的な印象を与えた。
「ここは『崇善殿』(スンソンジョン)というところです。外にここよりももっと大きな建物がありますが、そこは伽耶の第2代から第9代までの王と王妃の位牌を祀ったところで『崇安殿』(スンアンジョン)と呼ばれとります」
王たちの位牌という言葉に、ドハは父の暗号の中の「ハチダイの上宮」という単語を思い出した。
「上宮」は王が住む宮城を意味するため、「ハチダイの上宮」は、伽耶の8代目の王の宮城のことかも知れなかった。
ドハは崇安殿へ行き、伽耶の8代目の王の位牌を探してみた。位牌には「銍知(チルジ)王」という名前がついており、その下に簡単な説明が付されていた。
銍知(チルジ)王または金銍(キムジル)王は、金官伽耶の第8代王である。452年、始祖・首露王と許黄玉の冥福を祈るため、首露王と許黄玉が初めて会った場所に王后(ワンフ)寺という寺を建て、畑10結(※)を捧げた。王妃は邦媛(パンウォン)であり、王子・鉗知(キョムジ)王を生んだ。
ドハはイ先生に尋ねた。
「銍知王の宮城がどこで、どこで亡くなって、どこに葬られたかについての記録は何もないのですか?」
「そないなもんはありまへんな。私は『三国遺事』を熟読しておりますが、その記述が全てですわ」
ドハは、「ハチダイの上宮」の「ハチダイ」は、8代目の王を意味するのではないと悟った。
一行は、首露王陵の入り口の瓦屋根の建物の前に立った。
「あの装飾をちょっと見てくれはりますか」
装飾には、四重の塔を間に置き、2匹の魚が向かい合い対称を成している絵が描かれていた。
「あの模様がずばり『双魚紋』ですわ。あの模様は私が郷土研究会でインドへ調査に行ったとき、かつてのアユタ国があったアヨーディヤー地方でも見たんです。
太陽王朝であるアユタ国の王室を象徴する模様なんですが、恐らく許黄玉が伽耶に嫁ぎに来たときに持って来たんや思います。インドでは魚がえらい神聖なものとして扱われとるんです。
アヨーディヤーっちゅう国自体が1匹の魚の形やったようで。2匹の魚が向き合っているあの塔もインド式の塔に見えます。『三国遺事』は、許黄玉がインドから伽耶に嫁ぎに来た時に、あんな風な石の塔を船に載せて来たと伝えとります。横の許黄玉陵へ行けば、その石の塔がまだありますよ」
直ぐには信じられないほど不思議な話なので、ドハは感嘆した。
「実は、許黄玉の話は説話だとばかり思っていたんです。でも、ここへ来て先生のお話を伺ってみると、許黄玉の話が歴史的事実かもしれないと思うようになりました」
「歴史的事実ですよ。私はインドに何回も行ってきて、海洋科学庁へ行って資料も収集して、このように確信を持ったんです。許黄玉が伽耶に来たときには、その兄さんも一緒に来たそうです。
その兄さんは宝玉(ポオク)禅師っちゅう坊さんなんですが、私はこの兄さんを通じて我が国にインドの南方仏教が伝来したと考えとります」
彼らはついに首露王陵と対面した。手入れの行き届いた芝生の上に、小さな山のようにそびえ立っていた。王陵に従って一周歩いた後に、ウンソンがイ先生に尋ねた。
「さっき、案内板に『周囲300歩の土地を首露王墓と定めた』と書いてありましたよね? さっき私が歩きながら数えてみたところ、 200歩程でした。私の背丈がおよそ185センチなので、昔の人の歩幅が私より短かったと考えれば、ほぼ正確ですね」
「その通りです。昔の記録は、私らが考えているよりもずっと正確なんですよ」
ウンソンが尋ねた。
「案内板に『宮城の東北側の平地に殯宮(ひんきゅう)を建てて葬儀を行った』とありましたが、逆に言えばここから南西側に宮城があったということですか?」
「ええ推理ですな。首露王陵の南西側にある鳳凰台(ポンファンデ)へ行けば、『伽耶の王宮跡』という碑石が立っとります。ところで学生はん、腹は減りまへんか?」
ドハが時計を見ると、昼時をとっくに過ぎていた。
「ああ、すみません。先生のお話を聞いていたら時間が経つのを忘れてしまって。食事に行きましょうか」
キムチの寄せ鍋が煮えるのを待っている間、ウンソンが尋ねた。
「先生、首露王に挨拶をしましたし、首露王の子供たちについてお話頂いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、そのために来はったんでしたね。年を取るとついついうっかりしてしまいますな。『三国遺事』の『駕洛国記』には、居登(コドゥン)王だけしか出てきまへんが、他の記録や言い伝えでは、首露王には息子が計10人、娘が2人いはったそうです。
2番目の息子は名前 を『居漆』(コチル)と言わはったんですが、居漆王子は王にならんと、金海の近くの城主にならはったそうです。
許黄玉はこの2番目の居漆王子が一番のお気に入りで、首露王に居漆王子が自分の姓を継ぐようにして欲しいと言わはったそうです。ここから金海許(ホ)氏がまれたんですわ」
ウンソンは、なるほどと膝を叩いた。
「ああ、金海金氏と金海許氏が姓も本貫(※)も同じだから結婚しない理由はそこにあったんですね。ドハ、お前の苗字がホじゃなくて本当に良かったよ」
ドハが少しぎこちない微笑みを浮かべている間に、先生は説明を続けた。
「残りの七人の王子は、智異(チリ)山に入って修行を積み成仏したのですが、そこが蟾津江(ソムジンガン)上流にある『七仏岩』(チルプラム)というところです。七人の王子がその後日本に渡ったという話もあります。
今でも九州南端の鹿児島に行けば、七人の王子を称える『七社(ななやしろ)神社』とい うところがあり、七人の王子が築城した『シチジョウ』、すなわち『七城』があります」
ウンソンが尋ね始めた。
「七という数字がよく出てきますね。七人の王子もそうですし、七仏岩もそうですし、七点(チルチョム)山(※)もそうですよね。七という数字が伽耶と関係があるのですか?」
「伽耶の人らは北斗七星に仕える七星信仰が強かったんです。『三国遺事』にも、こんなくだりがあります。『一から三を成し、三から七が成り立つゆえに、七星が止まる処としては、本来ここが適当である』と」
「首露王の娘たちはどうなったんですか?」
「首露王には王女が2人おったんですが、そのうちの1人は新羅の第9代王伐休(ポリュ)王の王妃にならはりました。残りの1人の娘と1人の息子については、正確な記録があらへんのです。
その代わり、『金海金氏王世界』という記録に、『仙見(ソンギョン)という名の王子と神女(シンニョ)が共に雲に乗って旅立ったため、居登王が川にある石の島の岩に上り、仙見王子を呼ぶ絵を刻んだ。故にこの岩を招仙台(チョソンデ)という』という記録があるんですが、ここの仙見王子と神女がまさにその残りの息子と娘やっちゅう説があります」
ドハはウンソンを顔を見合わせ、視線を交わした。まさにその仙見王子と神女という行方不明の男女が、父の暗号に出てくる「太陽の姉弟」だという確信を得たのだ。
ドハが尋ねた。
「神女とはどんな人なのですか?」
「神女は、神に対して行う大きな祭事を主宰し、神と意思疎通をして国家の大小の事柄を決定するのに影響力を及ぼした女性のことですわ。古代には洋の東西を問わず祭事を主宰する人物の政治的、宗教的地位がえらく強かったんです」
「あの、先生。お時間がよろしければ、その招仙台というところに行くことはできますか?」
「大丈夫です」
イ先生の古い車が平坦な地域を15分ほど走ったかと思うと、いつの間にか丘へと上って行っていた。暖かい風に眠気が差す頃、イ先生が窓の外を指さした。
「あそこが七点山です。七つの山が点を打っているようやっちゅうて付けられた名前です。2033年頃、慶南考古学研究所が七点山の上で5世紀ごろに作られたものと見られる伽耶の城壁を発見したんです。
『崇善殿誌』という文献を見れば、伽耶が城壁を『蒸土』で積み上げたと記録されとるんですが、七点山で発見された城壁がまさにその蒸土で作られていたそうなんですわ。その近くに王室があったのかもしれまへんな」
ドハが尋ねた。
「蒸土とは何ですか?」
「水分を蒸発させた土やいう意味です。七点山の向こうに見えるのが、先ほど話した招仙台です。昔居登王がそこに神仙たちを招待して、コムンゴ(※)や碁を楽しんだっちゅう伝説があるんです。一時は金海の金陵八景の1つに選ばれたほどで、眺めがええんですよ」
車は金仙(クムソン)寺という小さな寺の前の駐車場に止まった。裏庭に入ると、山の上へとそびえる招仙台が一目で飛び込んできた。
人の背丈の5倍はあるように見える大きな岩に、居登王が、その頭の後ろに後光が差し、あたかも磨崖仏のような姿で描かれていた。剃髪した頭に平たい鼻、唇は分厚く幅広く、袖の中で両手を合わせて座っていた。
「居登王が日本海を見下ろしているのは、仙見王子と神女が日本海を渡っていったという意味ですか?」
「そう推論できますな。『金海金氏王世界』には、仙見王子と神女が雲に乗り遠くへ旅立ったと記録されているんですが、在野の人物が書いた歴史書では、雲ではのうて亀の背中に乗って旅立ったという記述もあります。海を渡ったということでしょうな」
それは、父の暗号に出てくる「太陽の姉弟が眠りし処」が、日本海を渡って日本の地にあるということを意味した。
ドハは言葉もなく、大きくうねる日本海を眺めた。
韓国にあるとしても探すのが難しいのに、日本にあるとは。
波のうねる日本海が、いつもに増して果てしなく見えた。
【11】へつづく
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