【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【21】
コンプロミーが締結された日の夕暮れ時に、疲れて早く休もうとホテルの部屋へと上がって行くドハに、ウンソンが声をかけた。
「下のバーで一杯酒でも飲まないか?」
「チームにいるときは個人的に会わない約束じゃない」
「なら、ケビンを間に挟んで飲むか?」
「ごめん。身体の調子があまり良くなくて」
「おい、本当か? それなら、しっかり休めよ」
ドハが部屋に戻った後、ウンソンは独りで海辺をとぼとぼと歩いた。
ヤシの木の下ではピエロがパフォーマンスをし、海辺では老人が上手にハーモニカを奏で、恋人たちがあちこちでキスを交わしていた。
ドハが近くにいるにもかかわらず、彼らのように二人で楽しい時を過ごせないのかと思うと、この上なく名残惜しい気持ちになった。
ドハはシャワーを浴び終わると、テラスに出て海辺の日の入りを眺めていた。
海では半裸の男たちが、暮れゆく太陽を背にサーフィンに興じており、海辺では、鯨油を燃やすガスの炎が一つずつ燃え上がっていた。
アイスクリームのように冷たく甘美な風景のおかげで、父が亡くなり、独島を巡る事態が勃発して以降、休むことなく悩まされてきた心が、幾分落ち着きを取り戻したような気分になった。
その時、海辺で海の方を眺めている一人の男がドハノ目に止まった。
他でもないあの人だった。
ドハは慌てて服を引っ掛けて部屋を飛び出し、その男が立っている海辺へと走って行った。
男はサングラスを額の上に載せ、ドハに向かって力のない笑みを浮かべて見せた。
「さあて、私は誰でしょう」
ドハは言葉もなくソジュンをじっと見つめた。目、鼻、口をまじまじと観察した。
「あの・・・貴方は、一体誰ですか? 私を以前から知っていらっしゃるんでしょう?」
ドハが自分の正体を見破ったと思い顔が強張ったソジュンは、何も答えないまま、ドハを黙って見つめながら、十年前のあの日のことを思い出したのだった。
***
ある日、ドハの父であるイ・ヒョンジュンが、市内のある菓子屋にヒソクを呼び出した。
彼は、一人娘をどれほど愛しているか、どれほど真心を込めて育ててきたかをじっくりと話して聞かせた。
「私の娘はね、君がとても善良で頼もしい若者だと言っているんだよ。こうして会ってみると、私の娘の目に狂いはなかったようだ。
だが、残念だが、君が私の娘の相手になる人だとは思わない。今は私の言葉が薄情に聞こえるかもしれないが、君も将来娘を育ててみれば、私の言うことが分かる時が来るだろうさ」
ヒソクは盆に積まれたパンを見つめるだけだった。
映画やドラマで愛し合う男女が父母の反対をいとも簡単に乗り越えていくのを見てきたとはいえ、いざそのような状況に置かれると、抵抗する気が起こらなかった。
両親もなく、先行きも不透明な自分の境遇を考えてみれば、自分がドハの父親であっても、娘の相手としては不満だろうと感じた。
ソジュンが、おっしゃりたいことが分かりましたと言うと、イ・ヒョンジュンは、パンの代金を出して先に立ちあがった。
ろくに話もせず、うなだれるだけの自分のことを、ヒソクは返す返す恥ずかしく惨めに感じた。
暫くしてヒソクは、ドハに何も話すことなく軍隊に入隊したのだった。
それからしばらくして、国情院のリクルーターがヒソクを国情院要員に抜擢した。
頭脳明晰で運動神経が良く、愛国心が強い上に身寄りもないヒソクは、特殊工作要員に最適だったのだ。
国情院に入ってから、ヒソクは整形手術とともに、これまでの「ソン・ヒソ ク」の人生を消し去り、「チェ・ソジュン」としての人生を新たに始めた。
そして、十年の時が流れた。
十年という歳月はドハを忘れるのに十分だった。
未だに彼女の顔や過去の思い出がふと思い浮かぶこともあったが、以前のようにその追憶に感情が伴うことはなかった。
しかし、この前イ・ヒョンジュンの遺体の横で倒れたドハを背負い救急室に運んだあの短い時間の間、ソジュンは、命がけの作戦の遂行時にさえ感じなかった微かな震えが、心の中から広がってくるのを感じた。
その震えが何を意味するのか、これから自分をどこへと導いていくのか知る由もなかったが、漠然とした不安に駆られたのだった。
***
「そうでしょう? 前から私のことをご存知なんですよね?」
ドハは繰り返しソジュンを問い詰めた。
ソジュンは未だに決断を下すことができずにいた。
あくまで否認すべきか、ありのままに打ち明けるべきなのか。
そうしているうちに、既にその沈黙が肯定を意味することになった。
「東京の病院に来ていましたよね?」
ソジュンは心の中で安堵の息を漏らした。
ドハは東京で自分を見た記憶を思い出しただけで、自分がヒソクだということは知らずにいるのだ。
しかし、かえって妙なことに、それは寂しい気持ちを呼び起こしもした。
ソジュンはゆっくりと頷いた。
「どうして東京にいらしゃったんですか?」
低めの彼女の声は、大声で叫びながら追及してくる人より、ずっと強くソジュンに圧力をかけた。
「国情院本部で、お父様が亡くなられたという情報を入手した後、調査のために送られただけです。これといった理由は特にありません」
「国情院は、交通事故の死亡者の遺体までくまなく探して回るほど暇ではないでしょう?」
「イ事務官のお父様が著名人でいらっしゃったからです」
ドハの声が不安定に震え始めた。
「私にその言葉を信じろと言うのですか? チェ事務官、私は鈍感な馬鹿じゃありません。父の死について何かご存じなんでしょう? そうなんでしょう?」
ソジュンは辛くて困ったが、チョン・チーム長によって封印された秘密をむやみに漏らすことはできなかった。
「父は殺害されたそうです。誰が、なぜ私の父を殺したのか、私は知らねばならないんです! 何かご存知でしたら、 少しでも良いので、どうか教えてください。
チェ事務官のお父さまが亡くなったと考えてみてください。お願いです、何でも構いませんから、どうか教えてください!」
ドハの二つの目から、頬を伝わり流れ落ちる涙を見て、ソジュンの心は揺れた。そして、少し前のあの震えが一層強い力で胸から広がっていった。
「お父様は日本政府に以前から追跡されていたのです。ある古文書の行方をご存知だったためです」
「『駕洛国記』のことですか?」
「もうご存じなのですね」
「私こそ、チェ事務官が『駕洛国記』をご存じだということに驚きました。話してください。『駕洛国記』が一体どんな書物で、 私の父の命を奪っていったのか」
「私の知る限りでは、『駕洛国記』に独島が伽耶の領土だと言うことを立証することのできる文言があるとのことです。そのため、韓国と日本双方が『駕洛国記』を手に入れようとしたのです。
その争奪戦の中で、不幸にも『駕洛国記』の行方を知る唯一の方であるお父様が犠牲となったのです」
「それなら、国情院はどうして父に直接その本を渡すよう言わなかったのですか?」
「言いました。ですが、お父様は知らないとおっしゃったんです」
「父がどうしてそんなことを?」
「それは私にも分かりません。そのため、実は、国情院はお父様を信頼することができなかったのです」
「それなら、父が『駕洛国記』を日本に渡そうとしたということですか?」
「そうと考えていました」
「では、国情院では、父だけでなく私も信じていないんですね」
「私は、イ事務官を信じています」
「どうしてですか?」
ソジュンは少しの間言葉を探したが、結局こう答えた。
「イ事務官に直接会った人なら、誰であろうと信じると思います」
信じるという言葉に、ドハの目に涙があふれた。
「では、私もチェ事務官を信じても良いですか?」
驚いた目で暫くドハを凝視していたソジュンは、重々しく首を縦に振った。
「じゃあ、私と一緒に『駕洛国記』を探してください。日本の肩を持とうとしたという父の汚名をそそぎたいんです」
ソジュンが口をぎゅっと閉じて頷くと、ドハの涙の下に明るい元気がかすかに漂い始めた。
少し離れた場所で、ウンソンが二人を硬い表情で見下ろしていた。
***
翌日、帰国の飛行機の搭乗を待つ間、ドハはソジュンから聞いた話を静かにウンソンに伝えた。
「チェ事務官も私たちを助けて一緒に『駕洛国記』を探すことにしたの。良かったわ。『駕洛国記』を探せば、訴訟にとても役に立つし、お父さんの名誉回復にもなるわ」
「どうしてそんなヤツが信じられるんだよ? そいつの言う通りなら、お父さんは日本に内通したという誤解を受けてでも、国情院に『駕洛国記』を渡さなかったことになる。それは、お父さんが国情院を信じることのできない何らかの理由があったからってことだろう?
なのにお前はその理由が何なのか調べもせずに、むやみに国情院の職員を引き入れようとしているんだ。お前の言う通りなら、そいつは東京の病院までお前を尾行してきて、今回はこの訴訟本部までお前をつけてきたわけだ。
俺たちの会話をチェ事務官が国情院に逐一報告しないとでも言うのか? 俺たちの周りに盗聴器が仕掛けられているかも知れないし。もしかすると、あいつがお父さんを殺した犯人かも知れないんだぞ」
「それはちょっと言い過ぎじゃない?」
普段ほとんど怒らないドハがカッとなって言った。
「お前が話していることは合理的じゃないぞ。チェ事務官の言葉を鵜呑みにしているじゃないか」
ドハは口をつぐんでしまった。弱気になってウンソンが先に謝った。
「すまない。もしかすると良い考えなのかもしれないな。お前の言う通り、チェ事務官と一緒に暗号を解いてみようぜ。何か、助けを得られるかも知れないしな」
そのとき、ドハが言った。
「あの人のことを闇雲に信じているんじゃないの。あの人に直接会った人なら、誰であろうと信じる、そんな人だからよ」
今度はウンソンが口をつぐんでしまった。
【22】へつづく
【画像】David Markさま【Pixabay】