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【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【6】

「今のCNNのインタビュー、見たか? 騒がしくなるだろうな」  

待ち焦がれた父ではなく、ウンソンの声だった。

「うん、さっきから電話が火を噴いているわ」

既に領土海洋課の職員全員が電話を受けていた。メディアの問い合わせの電話や、市民からの抗議の電話だった。外交部ホー ムページが麻痺しているとぺ次席が叫んでいた。

「まさかこんなことのために、俺たちの結婚がこじれることはないよな? だとしたら、日本の総理を拘束してやる」

ドハは、机の隅に置いた、ウンソンが2週間前レストランでくれた人形に暫しの間視線をやった。

人形の頭を開くと、その中に また小さな起き上がりこぼしの人形が続けて出てくる、マトリョーシカというロシアの木製の人形だった。

最後に一番小さな人形の 頭を開けると、その中にきらきらと輝くダイアモンドの指輪が入っていた。

その指輪を受け取っても、ドハは、ウンソンに、結婚するという答えをしないまま、今に至るまで時間を過ごしていた。

「結納は、来月初めでも良いか? 店を予約しとかないといけないからさ」

「ウンソン、今ちょっと忙しくて。その話、後にしちゃダメ?」

「どうしたんだその声は? 何かあったのか?」

「ううん、別に何も」

「何かあったんだろう?」

ウンソンは鋭かった。論理的に緻密であるだけでなく、女に劣らず直感がずば抜けていた。

検事になる前からそうだったから、仕事柄というわけではなかった。周りの人がどんな気分なのか、何を望んでいるのかを、X線で透視するかのように見抜いた。

そんな ウンソンは、ドハが望むものを言わなくてもぴったりと当てて持ってきてくれるのだったが、ドハはウンソンのそんな一面をむしろ負担で窮屈に感じていた。

常に人を監視し観察する一方で、自分に愛情を与えてくれとひたすら求めているような感じだったのだ。

「違うってば」

ドハは少し苛立ちの籠った声でウンソンを突っぱねた。

ドハはその日、夜遅くまでイ・スンチョル国際法律局長、アン課長、ペ次席と一緒に、松岡総理のインタビューに対する外交部長官の声明文の内容を作成した。

イ局長が言った。

「松岡総理が記者会見や首脳会談のような公式の場でした発言ではなく、インタビューの中でいきなり言った発言だから、対応のレベルをどの程度にするべきか、曖昧だな」

アン課長が意見を述べた。

「予め準備してきた原稿を読むわけでもなく、インタビューの質問の過程で出てきた発言なので、なおさらですね。何と言えば良いか曖昧なときは、言葉を短くされてはいかがでしょうか?」

だが、ペ次席は意見が違った。

「今回の日本の総理の発言のレベルが歴代最高ですので、我々も最高の強さで打ち返さなければならないのではないでしょうか?  国民は我々政府が臆病者になるのを願っていません」  

アン課長が反論した。

「必要以上に日本人の感情を刺激する必要があるでしょうか? 我々が強く切り返して、本当に日本が軍事訓練でもすることになれば、問題が更に大きくなるのは火を見るよりも明らかです」

会議中に、ドハのポケットで携帯が振動した。見知らぬ電話番号であったので、業務電話かもしれないと思い、ドハは扉の外で電 話を取った。

「もしもし、イ・ヒョンジュン様のお嬢様ですか?」

「はい、そうですが」

「こちらは警察です。このようなことをお伝えすることとなり残念ですが、お父様が東京で亡くなられました」

※※※

成田空港に降り立ったドハは、バスで都内に入ると、タクシーに乗り換えて病院へ向かった。

父の訃報に触れたとはいえ、外交部の報道官が午前中に松岡総理のCNN発言に対する声明を発表するのを見届けてから、ようやく日本へ出国することができた。

前の晩、眠るこ とができず、顔はやつれていたが、未だに父の死が信じられないからか、表情はさっぱりとしていた。

病院の霊安室に到着すると、日本の警察がドハの身元を確認し、父の遺体へと案内した。

遺体保管室から出てくる冷気が、ドハの上気したうなじを剥ぐように触れた。

引き出しのような筒から出された父の遺体を見て、ドハは片手で口を覆った。

父の遺体は予想以上に残酷だった。鼻と唇の周りに血痕がこびりつき、車のタイヤにつぶされた首はぶらりと垂れ下がっていた。

「お父さん、お父さん、どうして何も喋ってくれないの?」

母を事故で早くに亡くしたドハにとって、学校へ行く支度をしてくれたり、遠足のときには海苔巻きを作ってくれたり、服を買ってくれたり、誕生日の料理を準備してくれたりしたのは父だった。

ドハは突然気を失い、床に落ちるように席にばたりと倒れた。

すると、後ろで黙って見守っていたソジュンが走って入ってきて、ドハを背負い上の階の応急室へと運んだ。

「ショックで暫く気を失ったようです。少し休めば意識が戻りますよ」

ドハに応急処置を施した女医が、ソジュンにそう伝えた。

ソジュンは腕組みをして立ったまま、眠りについたドハの顔を黙って見下ろした。

厚めで、聡明さに光輝く頬、誰とけんかをしたとしても、相手の方が悪くなってしまうほどに善良な顔つきは、昔のままだった。

女を見て胸騒ぎがする歳は既に過ぎたとばかり思っていたが、意外にも初恋に対する純情が残っていたかのように、身体が強張った。

命がけの作戦をしたときにも落ち着いていた心臓が、ドハを背負って走ったとき、彼女の軽い身体と匂いを感じて、大きく高鳴った。

一方、ソジュンの心は、イ・ヒョンジュンの死に対する罪悪感と責任感で、水を含んだ綿のように重くなっていた。

ソジュンの父親は、鬱陵島で干物を作る仕事をしていた。

春から初秋までは、独島沖でニシンや秋刀魚を捕り、晩秋から冬までは、そうして捕まえた魚を庭に掛けて出し、冷凍と解凍を繰り返した。

秋の間中、干物と一緒に凍って解けたソジュンの身体からは、干物の臭いがとれなかった。

父親は一度海に出ると、3日目になってようやく帰ってくるときも あり、5日目に帰ってくるときもあった。

父の船が港に入ってくると、ソジュンは風のように波止場のほとりへ走っていき、父の身体にしがみついた。

父は生臭いにおいがつくからと離れてきまり悪そうにしながらも、嬉しい気持ちを隠すことができなかった。

5日くらいかかるだろうと言って海に出た父が、10日が過ぎても帰ってこなかったある日、母は小学生だったソジュンの手を引いて 港へ向かった。

「もう、父さんは帰ってこないのよ」

「父さん、どこに行ったの?」

「おじいちゃんの後をついて独島に行ったのよ。名前のとおり、独りぼっちで寂しいあの島に。

押し寄せる波も飲み込めず、さらわれていく波を捕まえることもできないで、ただ独りで待っているだけのあの独島に行ったのよ」

そう話した母も、ソジュンが高校生のとき病を患い独島へと旅立った。

夫を失った後、生活苦で健康に気をつける余裕がなくなった母は、頻繁に吐き下し、食事をできなくなるほどになって、ようやく自分の病を知ったのだった。

ソジュンは母の遺灰を独島沖に撒いた。そうして、ソジュンは独り残った自分こそが独島に閉じ込められたのだということを悟った。

※※※

ドハは夢の中で大学時代に戻っていた。

いつも貧血で気を失っていたドハは、その日も図書館の前で突然倒れてしまった。

目を開けてみると、自分は保健室のベッドの上に寝ていて、その横で顔が真っ黒に焼けた男子生徒が座っていた。

「お、目が覚めた。先生、こっちの子、目が覚めましたよ。見てください、大丈夫ですか?」

その口調は、ぶっきらぼうだったが温かみがあった。ドハは横になったまま尋ねた。

「私・・・どうしたんですか?」

「いきなり倒れたから、俺がおぶって来たんだよ。先生が大丈夫だってさ。心配しなくて良いらしい」

男子生徒が挙げた手を振り回して笑うと、真っ黒な顔に、白くきれいに生えそろった歯が見えた。

「飯、ちゃんと食えよ。痩せてるからバタバタ倒れるんだろ」

不愛想なその一言に、血の気のなかったドハの顔に生気が戻った。

「たくさん食べていますよ」

「うーん、そうは見えないけどな」

「じゃあ今度、一緒に食べに行きますか?」

その言葉に、男子生徒は顔が赤くなって、そっぽを向いた。

ドハはヒソクに向かって腕を伸ばした。

だが、ヒソクはだん だんと後ろへ下がっていき、ドハが身体を起こすと、ヒソクは跡形もなく消えてしまっていた。

「ヒソク!」  

ドハはかすかな声でヒソクを呼び、ゆっくりと目を開いた。

「気を取り戻しましたか?」

「今、何時ごろですか?」

「午後1時です。3時間ほど横になっていらっしゃいました」

「どうなったんですか、私?」

「突然倒れられたところに、ある男性の方がここに運んできてくれたんですよ」

「その方は、今どこに?」

「ついさっきまでいたんですが、どこへ行ったかは存じ上げません」

ドハは身体を起こし、気を落ち着かせてから尋ねた。

「父の死因は何だったんですか?」

「ひき逃げ事故です。夜にさびれた道路脇で発見されました。現在目撃者を捜してはいるのですが、残念ながら今のところ は・・・」

「父はどうして、そこへ行ったのですか?」

「それは、私たちにも分かりません。国際ペンクラブ側にも尋ねてみたのですが、会の最中に突然停電があった後に、お1人でどこかへ行かれたというほかには、聞くことができませんでした」

「父の葬式の手はずを整えてください。それから、事故現場の場所を教えてください。今、行ってみたいんです」

事故現場は、都心から離れた住宅街の閑散とした往復二車線道路だった。夜になると車や人通りが少なくなるようだった。

現場には、父の遺体が横たわっていた輪郭に従って白線が引かれていた。その他に特別な手がかりと見られるものはなかった。

ドハとしては、これから先は、日本の警察の目撃者の聞き込み捜査を待つほかなかった。

病院に戻ると、病院の職員の助けで父の棺を霊安室から救急車へ運んだ。

無情なほどうららかな天気だった。

ドハが乗り込 むと、救急車がゆっくりと出発した。

そのときドハは、救急車のバックミラーの中に、こちらを見ている一人の男を発見した。

短髪にサングラスをかけ、ジーパンにジャンパーという身なり。

ドハは直感的に、その男が失神した自分を病院へ運んでくれた人物だと悟った。

あの男は誰なのだろうか。なぜ自分を助けてくれたのか。

もしかすると、父の死について何かを知っているのではないか。

ドハ は運転手に止めてくれるよう言うと、救急車から降り、男が立っていた場所へ行ってみた。

しかし、男は既に跡形もなく姿を消していた。

【7】へつづく

【画像】jacqueline macouさま【Pixabay】