【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【31】
第9章
ハチダイの上宮
팔대의 상궁
実務チームはICJへの提出書類の作成作業に没頭した。
独島がなぜ韓国領なのかを説明するメモリアル(申述書)と、独島が日本領土だという日本の主張に反論するカウンター・メモリアル(答弁書)をまず作成した。
続いて、裁判所が必要と判断すれば追加で既存の書面に対する反論文である リプライ(抗弁書)とリジョインダー(再抗弁書)を作成しなければならなかった。
パート別に草案作成者を分担し、完成した草案を回し読みしながらコメントを付した後、最終草案を確定する、という方法で作業が進められた。
顧問という肩書きを持つ人の大半は、自ら草案を作成するのではなく、他の職員が一生懸命作り上げたものに多少のコメントをつける程度の関与しかしなかったのだが、そのコメントが適切でないことがままあった。
これに対してウンソンは、一番積極的に関与しながらも、斬新な意見を数多く出していき、次第にチーム・メンバーたちの信任を得ていった。
訴訟それ自体がストレスフルである上に、時間にも追われ、チーム・メンバーたちは更に神経を尖らせていった。
ソン・チーム長が怒鳴り散らす回数が増え、言い争いで傷つけ合うことも頻繁に起こるようになり、体調を崩す人も続出した。
締め切りが近づくほど、チーム・メンバーたちはますます時間不足を実感していった。
書類に脚注、添付資料、写真、地図を作成して添付する作業にも多くの時間や労力を要した。
出退勤の時間を除けば、外の空気に触れる余裕がなく、室内にいても窓の外を見やる時間さえもなかった。
締切を10日後に控えて以降は、3度の食事も全て配達に変え、オフィスで済まさなければならなかった。
こうして完成した申述書は千ページを超える膨大な分量だった。
これでも、量を減らすようにと厳しく要求するICJに応えて、減らしに減らした結果だった。
韓国側の主張の要旨は大きく次の3つの部分に要約できた。
第1に、新羅の智証(チジュン)王(※1)が異斯夫(イサブ)(※2)をして于山(ウサン)国を征服せしめて以降、高麗時代、朝鮮時代に至るまで独島は韓国の領土であり、これに関する記録が「三国史記」「三国遺事」「高麗史」「世宗実録記」「東国文献備考」「万機要覧」などに伝えられている。
これらの記録は、日本海に2つの島があることを認識しており、その2島全てが1つの圏域であることを確認している。
第2に、17世紀末、朝鮮と日本は鬱陵(ウルルン)島を巡り、いわゆる「鬱陵島争界」という領土紛争を繰り広げたが、日本が独島を含む鬱陵島が朝鮮の領土であることを認めたことで終結した。
日本はその後、1905年に至るまで、「朝鮮国交際始末内探書」「太政官指令文」等で見られるように、独島を朝鮮領と認めてきている。
第3に、日本は1905年の独島編入とサンフラシスコ講和条約等を根拠に独島が日本領として確認されたと主張しているが、こ のような歴史的過程からも韓国は独島に関する領有権を日本に譲渡したことはない。
書類原本が完成すると、ICJ裁判官と研究官、事務局職員、日本当局、ICJ図書館、ハーグ国際法図書館、国際プレスセンター、国連図書館、国連情報局、韓国の各図書館等に送付する副本を冊子の形で製作した。
これらの書類は外交パウチでオランダへ送られ、イ駐蘭大使が直接ICJ事務局を訪れ、申述書を提出した。
数日後、イ大使は、ICJ事務局を通じて受け取った日本側の申述書を直ちにソウルの訴訟実務チームへ送付した。
実務チーム・メンバーたちは日本側の申述書を入手すると直ぐに検討に入った。
日本側の主張内容は大きく4点だった。
第1に、1618年から日本は大谷(おおや)家、村川家に渡海免許を発給するなどの方法で竹島を利用及び管理してきた。
第2に、韓国が20世紀以前に竹島に対する領有権を取得したという証拠がない。
第3に、1905年に日本は竹島を島根県に編入することによって竹島の領有権を再確認した。
第4に、1951年のサンフランシスコ講話条約でも竹島を日本領と確認した。
日本側の主張自体は予想から大きく外れてはいなかったが、これを支える論理や根拠は既存の公開資料よりも精緻だった。
そのため、ドハは、「駕洛国記」を見つけなければと一層切実に思うようになったが、父の暗号の解読作業は、「ハチダイの上宮」という壁にぶつかり、これ以上前に進めずにいたのだった。
【32】へつづく
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