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【試訳】独島イン・ザ・ハーグ【14】

山座円次郎は、日本の最盛期に目覚ましい活躍を遂げ、特に非凡な識見と果敢な実行力で韓国を日本の植民地にし、何よりも竹島の日本編入に最も主導的な役割を果たした伝説的な外交官だった。

山座円次郎は東京帝国大学法学部を首席で卒業し、1892年、釜山の日本総領事館で外交官としての勤務を始めた。 彼が釜山を志願したのは、日本の発展のためには朝鮮を清の影響から独立させる必要があると考えたためだ。

清は建国当初から李氏朝鮮と朝貢関係を構築して以来、大韓帝国末期までずっと朝鮮を支配してきていた。

清は、1882年に朝鮮の旧式軍人が暴動を起こした壬午軍乱を鎮圧するために、袁世凱を筆頭とする3000人の軍隊を朝鮮に派遣し、1884年には、開化派が起こした甲申政変(甲申事変)に対して、再び袁世凱と軍隊を出動させ、3日ほどで鎮圧した。

翌年からは、袁世凱は最初から朝鮮政府内部に総理交渉通商大臣という職責で留まるようになり、内政に深く関与し始めた。

このような情勢の中、日本は朝鮮を飲み込むためにはまず中国の手中から朝鮮を引き抜かねばならないと判断し、対朝政策の主眼を朝鮮の「独立」に置いたのだった。

釜山に赴任した山座円次郎は、日清戦争の準備のために京城(キョンソン)(※)から釜山までいわゆる京釜線鉄道を敷設しようとした。

京城(キョンソン)・・・今のソウル。厳密には「京城」と呼ばようになったのは植民地化以降のことで、当時は漢城(ハンソン)と呼ばれていた。

そのためには測量が必要だが、他国の地で鉄道敷設のために測量をすると言うと問題が起きるので、山座は機転を利かせたのだった。

日本の博物館に剥製を展示する目的で、日本総領事が釜山から京城まで猟銃を持って朝鮮に生息する鳥の狩りをするのだと朝鮮政府に対して嘘をつき、その周囲は危険な可能性があるため、他の人々が近づくことができないよう遮断幕を設置し、その中で密かに測量をする、というものだった。

山座円次郎は、このようにしてわずか40日で測量を完了し、秘密裏に朝鮮の地図を作ったが、このようにして作られた朝鮮地図は1894年の日清戦争の際に活用されたのだった。

この逸話だけ取っても、山座海人は、自身の祖父がいかに頭脳明晰で優れた実行力を備えた外交官であったかを推し量ることができた。

山座円次郎が釜山で勤務していた1892年からの3年間、朝鮮では激動の歴史が繰り広げられていた。

1894年には、東学党の乱が起きた。数十万の農民が蜂起するや否や、朝鮮政府はこれを制圧するために清軍を呼び入れたのだ。

すると日本軍も、朝鮮派兵の際には日本と中国が連絡して決定することと定めた天津条約を根拠に朝鮮に入ってきた。

この過程で東学党の乱は鎮圧されたが、残った清と日本は朝鮮の地で日清戦争を始めた。

清を相手に勝利した日本は1895年4月下関条約を締結したが、その内容は、中国が日本に遼東半島、台湾、澎湖島を割譲し、朝鮮に対する宗主権を放棄するというものだった。

これにより日本は清を追い払い、朝鮮に対する支配権を獲得することができたのだ。

しかし、ロシアが日本の勢いに冷や水を浴びせた。南下政策を推進していたロシアは、日本が遼東半島を占有するのを脅威に感じ、 1895年にドイツとフランスとともに日本に対して遼東半島を清に返還するように圧力をかけた、いわゆる三国干渉を起こした。

日清戦争の勝利で浮かれていた日本は大きな衝撃を受け、このとき抱いた日本の恨みがその後の日露戦争の原因となった。

ロシアの威力を目にした朝鮮の閔(ミン)氏一派は、親露内閣を形成した。

これに憤った日本の公使である三浦梧楼は1895年10月8日、日本の浪人に閔氏一般の中核だった閔妃(ミンビ)を殺害させた。

この事件以降、身の危険を感じた高宗(コジョン)はいわゆる「露館播遷」を断行し、1896年から1年間ロシア公使館で政務を執った。

このときから、朝鮮におけるロシアの影響力が拡大し、日本は押され始めた。

この頃、朝鮮での任務を終えた山座円次郎は渡英し、駐英公使館の書記官として勤務を始めた。そこで彼は1902年、他国が日本を攻撃すればイギリスが阻止するという内容の日英同盟を成就させた。

イギリスの後ろ盾を得た日本は1904年2月、つい に大韓帝国(韓国)と満州の支配権をめぐってロシアと戦争を起こした。

日露戦争が日本の勝利で終わった1905年7月に、日本は桂・タフト 密約を通じてアメリカから韓国の支配権を黙認された。

同様に同年8月には、イギリスと第2次日英同盟を締結し、イギリスからも韓国支配の承認を受けた。日露戦争勝利直後の同年9月には、ポーツマス条約を通じてロシアからも韓国に対する支配権を認められた。

山座円次郎が竹島を日本の領土に編入したのもまさにこの頃だった。

これは中井養三郎という、ロシアのウラジオストクと日本の隠岐島近海で潜水装備を使用した漁業を営んでいた事業家から始まった。

竹島にアシカが住んでいることを偶然知った中井は、1903年5月、竹島に漁夫十余名を連れていって穴蔵を作り、本格的なアシカ漁に着手した。

当時は日露戦争が間近に迫っているという噂で持ちきりで、皮革や油の値段が急騰していた。

アシカを捕まえれば皮革を手に入れられ、油を抽出することができるため、竹島の岩の上にアシカがひしめているのを見た中井は、思いがけない幸運を見つけたと喜んだ。

最初から竹島を独占的に借用したいと考えていた中井は、アシカ漁が終わった直後の1904年9月に、漁業を管轄する所管官庁である農商務省を訪れ牧朴真(まき なおまさ)水産局長と面会した。

竹島が朝鮮領であることを知っていた中井は、牧局長に朝鮮政府から竹島を賃借りする方法を尋ねた。

当時日本人が朝鮮の領土や施設を賃借りする場合には、朝鮮政府に直接要請することが出来ず、日本政府に要請しなければならなかったためだ。

しかし、牧朴真は、竹島が韓国領ではないかもしれないので、海軍の肝付兼行(きもつき かねゆき)水路部長に確認した方が良いと勧めた。

中井はすぐさま肝付水路部長を訪ねた。肝付は測量専門家として16年間海軍省水路部長を務め、海軍中将まで昇進した人物だった。

肝付は中井に対し、「竹島は主のいない土地であり、本土からの距離も日本の方が10海里近い」と説明した。

これを受けて中井は、1904年9月29日付で日本政府に対して、竹島を編入後に自分に賃貸することを請願する文書を内務省、外務省、農商務省大臣宛に提出し た。

中井の請願に対して、当時内務省の当局者だった井上事務官は、「この時局に、韓国領と見なされる草一つ生えない岩礁を得て、我々を注視するいくつもの国に対し、日本が韓国を併呑しようという野心を持っていると疑わせることは、得るものよりも失うものが多く、事が成るのは決して容易くない」と言い、中井の請願は却下されるだろうと述べた。

井上事務官が触れた「この時局」とは、 1つは日露戦争が起きている状況を言い、もう1つは日本が朝鮮半島を飲み込もうという意図を持っていると疑われているという国際状況を指すものだった。

そのため、この状況で韓国領と見られる竹島を編入すれば、韓国に対する侵略意図が国際的に露わになり得るという憂慮を述べたのだった。

請願は却下されるだろうという内務官僚の言葉に、牧水産局長も、外交上問題があるならば適切ではないと答えた。

しかし中井は諦めず、知人の紹介で当時外務省政務局長に昇進していた山座円次郎を訪ねたのだ。

中井の言葉を聞いた山座円次郎は、「小さな岩島の編入は、些細なことであるだけで、内務省のような外交的考慮は不要である。外交問題は、他人が関与するものではない」と釘を刺した。

外交問題は外務省が担当するものであり、内務省の官僚が外交的考慮を云々するのは気分が悪いだけでなく、日頃から日本がアジアの盟主たるべしという考えを抱いていた山座円次郎としては、むしろ一層積極的に日本の領土を拡大するべきだと考えていたからだ。

彼は、「物見やぐらを建てて無線あるいは海底電線を設置すれば、敵艦の監視に極めて便利だ。今の時局であるからこそ、竹島編入は急を要する」と述べ、むしろ中井に対して急いで請願書を外務省に送るよう促した。

中井が経済的利得のために竹島の編入と賃借を試みた一方、山座円次郎は日露戦争での用途という安全保障的観点から竹島編入を推し進めたのだった。

ついに日本の内閣は1905年1月28日、閣議で中井の請願を承認した。

これにより内務省は2月15日付訓令第87号で閣議決定を管内に告示するよう島根県知事に指令した。

島根県知事は1905年2月22日、「島根県告示第40号」で、

「北緯三十七度九分三十秒 東経百三十一度五十五分 隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト称シ 自今本県隠岐島司ノ所管ト定メラル」

という内容を告示した。

これにより日本は、竹島を自国の領土へ編入したのだ。

当初編入をした中井も竹島を韓国領だと考えており、彼に編入を助言した肝付水路部長も竹島を朝鮮領と見る書物を編纂しており、内務官僚も竹島を韓国領と見ていたにもかかわらず、山座円次郎は竹島を日本領に編入したのだ。

祖父の優れた判断と並外れた勇気がなければ、今日日本は竹島に対する領有権を主張する根拠をほとんど有していなかったことだろう。

偉大な外交官であった山座円次郎は、山座海人条約局長にとって従うべきモデルであると同時に、越えなければならない山でもあっ た。

これまで他の外交官が自分を山座円次郎の孫だとばかり言うのを誇りに思いながらも、自分の存在感が薄くなるようで、自尊心が傷つく時もあった。

しかし、今回の竹島訴訟で勝利し、竹島を法的・物理的に取り返すことで、山座海人は今後、自身が「山座円次郎の孫」と呼ばれる代わりに、山座円次郎が「山座海人の祖父」だと呼ばれるようになるだろう、という野心を抱いていたのだった。

【15】へつづく

【画像】
https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/takeshima/detail/t1905000000101.htm