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じぶん許しの時間をつくる

はぁーーだめだ、ちゃんとできなかった……

今日はこれをしなきゃいけなかったのに……


常日頃からそんな風に考えてしまい、じぶんを責めてしまうという人も多いのではないだろうか。まじめな人にならよくあることだと思う。


わたしもそんなうちの1人だ。

完璧主義で、何かにつけて完璧に仕上げたくなってしまう。あれもしなきゃ、これもしなきゃと考え、結局できなかったときはじぶんにがっかりする。

こういうnote記事やブログ記事も書き終えるまで時間を要し、書き終わったあとも見直し。つい時間をかけてしまうため、その日のうちに終わらないこともしばしば。掃除を始めると隅から隅まで片づけたくなってしまうし、本を読み始めたら、いまいち頭に入ってこなくても最後まで読みきろうとしてしまう。

まして不器用な方なのに、すべてのことを器用にこなそうとして、うまくできないじぶんに悔しさを募らせる。


完璧主義はよくない、仕事ができる人は80%の成果ですばやく提出するもんだ、っていうのはわかっている。完璧にしたところで大して変わらないこともあるんだってわかっている。

だから完璧主義を直したい、、と思ってはいるものの、なかなか変わらないじぶんに「これもわたしの性格なのか……はぁ……」と半ば諦めかけていた。


さらにわたしはわりと向上心がある方なので、何かしら目標を課し、じぶんに対して厳しく考えるような性格だ。

「こんなんじゃだめだ」「もっとがんばらなきゃ」とじぶんを追い込み、できないじぶんに罪悪感を感じることもよくあった。



そして最近それが自分の首を絞め、普段の生活や目標達成に悪い影響を与えていることに気づかされたのだ。


うまくできないじぶんが嫌いになっていく日々

ブログをもっとたくさんの人に読んでもらいたい!
noteやTwitterでじぶんのファンを増やしたい!


これらを達成するためには、まずブログやnoteを書いたり、ツイートをしたりといった基本的なことをしなければいけない。それができていないのであれば、いくら願ったって変わらないだろう。

目標を持っている一方で、何かにつけ「時間がない」「今日はもう疲れている」だのじぶんに言い訳をして、「また明日」と先送りにしてしまい、気づけば時間が経っている。

「何をやってるんだじぶんは……」と落ち込み、応援してくれている周りの人や記事を待ってくれている人に申し訳なさが募る。

そうすると次第にじぶんのことが嫌いになってくる。結果を出せないじぶん、チャレンジする土台にも立てていないじぶんに腹が立ってくる。

そしてこのままでわたしは大丈夫だろうかと、将来に対する漠然とした不安が包み込んでくる。最悪のループだ。


前向きなときはエネルギーがみなぎって、やってやるぞ精神で暑苦しくなるほどなのだが、落ち込むときはしっかりと落ち込むのがわたしだ。


できないじぶんを許してあげよう

そうやって下を向いていると、友人がこんな風に声をかけてくれた。


Mayu、「許す」ってことを学んでみたらどう?


そして彼はこう続けた。


「誰にだって失敗はあるし、できないことだってある。完璧な人なんていない。だから、できないじぶんも許してあげよう。」



彼は親が幼い頃に離婚していて、父親のやってきたことや考えにずっと理解できずにいた。でもあるとき友人に「許す」ということを教わり、周りの人はじぶんの思う通りにできる人ばかりではないし、完璧な人なんていないことに気づいた。

それからは父親のことも許せるようになって、心の中にあった霧のようなものがすっきりと晴れたという。


俺の人生を変えてくれたんだよ、と真剣な眼差しで話す彼の姿を見て、わたしは今までのじぶんから何か一掃しなければならないような気分にさせられた。

そこから「じぶんを許す」ということに向き合い始めた。さまざまな文章や音声に触れ、以前人生を変えてくれたお気に入りの本も読み返してみた。


ここでずっと昔、日本と海外の教育方針の違いについて耳にしたことを思い出した。


日本ではよく「人様に迷惑をかけちゃダメ」なんてことを言われることがある。昔ながら親が子どもにするしつけで、よく聞く言葉ではないだろうか。

しかし海外では「誰かに迷惑をかけられたとき、それを許してあげなさい」と教えられるそう。

みんな1人では生きていけないし、他の人に迷惑をかけてしまうことだっていくらでもある。だからそれを許してあげられる心をもちなさい、と。


両者の目的は問題やトラブルを生まないこと、平和に生きていくために必要な心がけではあるが、この捉え方の違いは、子どもの考え方に大きな影響を与える。

迷惑をかけちゃダメと言ってしまうと、行動や考えに無意識に縛りをもたせてしまう。しかしお互いを許してあげようと言うと、すっと心が軽くなり発想や行動が一気に多様化する。


決して海外の考え方が100%いい!と言いたいわけではない。「何しても許されるんだ〜」と極端に考えて、他者との間にトラブルを引き起こす可能性もある。

しかしこの他者を受け入れてあげる姿勢というのは、生きづらい社会とは対照的な、それぞれの個性を尊重してのびのびと生きる社会を実現する強い要素になりうるだろう。


話は戻るが、じぶんを許して受け入れるとなると、

「できないじぶんを許してしまったら、それは甘えになるんじゃないか?」「目標達成のためには、じぶんに厳しくいなきゃダメなんじゃないか?」

そんな風に思うかもしれない。わたし自身も、これでOKとじぶんを許すことに恐れさえも感じていた。


不安はブレーキ、悩んだって何も変わらない

できないじぶんに出会うと、少なからず暗い気持ちになる。「やったー!できないー!」と喜ぶ人はそうそういないだろう。

落ち込む気持ちや大丈夫かなと不安になる気持ち。それらはじぶんのブレーキになる。悲しいことに、「あーできなかった、なんでできないんだろう」とクヨクヨしても何も変わらないのだ。ただ時間ばかりが過ぎていくだけ。


きっとできないじぶんに悩む人は、何かに向かって必死に頑張っている人だと思う。できることなら全速力でその何かに向かって走りぬきたいはずだ。でもそんな道中で、不安や失望によるブレーキを無意識に踏んでしまう。

アクセルを踏んでいたはずが、気づけばブレーキも一緒に踏んでいた。そうなると、隣でアクセル全開で走る車には追いつけっこない。ゴールに向かって走っているはずが、じぶん自身でじぶんを止めてしまっているのだ。


しかしじぶんを許すことで、そのブレーキはパッと外れる。

「できないじぶんも、まあいいじゃない」
「これはダメだったけど、そんなわたしもいいよね」

そんな風に受け入れて、心を軽くする。

じぶんを温かく包み込んであげる。

それだけでふっと力は緩み、のびのびとした状態でまた次に向かって進んでいける。


じぶんを責めてしまったり、じぶんに厳しく接しすぎたりすると、身体はりきんで固まってしまう。心も苦しくなり、首を絞められて息苦しいような感覚になってしまう。

そうすると新しく学ぶものもすっと入ってこず、自らのスキルアップは遠のいてしまう。身体を縛られた状態で、習い事に通っても身につかないのは明らかだ。


前向きな言葉で埋めつくしてみよう

じぶんを許して、じぶんが持つ可能性に目を向けてみる。

「これはできなかったけど、ひょっとしてこれなら……」と前向きに考えて取り組んでみる。

そんな風にいつだって前を向いて、走ることをやめない姿勢を貫けば、きっと何かが見えてくる。

それはゴールかもしれないし、お水やお菓子でいっぱいの休憩所かもしれない。

前を向いて走り続けていたら、もっと楽に走れるオリジナルな方法が見つかるかもしれない。

沿道で手を差し伸べてくれる、応援の人たちが見えてくるかもしれない。


大事なのはじぶんに厳しくあたり責め立てるのではなく、ときにはじぶんを許してあげて心も身体も軽くしてあげること。

もしじぶんを許すことができないなら、そんな許してあげられないじぶんも許してあげること。

そうすると、きっとあなたの周りにいる人たちのことも自然と許せるようになるだろう。大きな心で許せるようになるだろう。

類は友を呼ぶと言われているが、じぶんも他人も許せるようになると、あなたの周りにもきっとあなたを許してくれるような人が集まってくるだろう。


そんな風に考えると、人生はもっと楽にゆるやかに生きていいものなのかもしれない。


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ほぺまゆ@バルセロナ
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