覚えているかい? とある日の9月の朝を
モーニングコーヒー
なんだろう、このどうしようもない非日常的な風景の中にいる心地よさは。自分でもその理由を明確に説明するのは難しい。けれど、確かに感じていることだ。
京都の街を歩くときとは違う、どこか自由な気持ちがここにはある。京都では、街の人々を眺めながら、ほんの少しだけ、いや、もしかしたらもっと深く、いつも何かに怯えている自分がいることに気づく。日本語という美しくも洗練された言語が、頭の中に張り巡らされた蜘蛛の巣のように、思考を絡め取ってしまう。それとも、周囲との関係性に喜びながらも、かえって縛られてしまう。
異国の地ではどうだろう。見知らぬ顔、見慣れない風景、そして、まだよく理解できない言語が、妙に心地よい。一つの大きな波に乗っているかのような感覚。旅人、ノマドワーカー、異邦人。肩書きなんて何だっていい。ここでは何も気にせずにただ「いる」ということが、何よりも心地よい。
なんでもよいと言いながら実は良くない
夜のパーティや騒ぎから一転、ロビーには朝の静けさが訪れる。一人、また一人と起き出して、静かにコーヒーを飲む。話すとしても「グッドモーニング、ディージュースリップウェル?」ぐらい。その一瞬が、何とも言えないほど落ち着く。
私はコーヒーの味には少々うるさい、みたいだ。前職でコーヒーを焙煎していたから、豆とか、淹れ方がどうかとか、そんなことが気になってしまう。でも、そんな長い人生を生きる中では余興にすぎないどうでも良いことを考えながらも、朝の静寂に溶け込む一杯には、どんな味でも少し許せてしまうのが不思議だ。
基本的には加点方式。減点はない。モーニングコーヒーで、不味いコーヒーはないと思う。だが、雑味が出る前に、飲み干してしまいたいコーヒーもあれば、カップの半分だけで満足するコーヒーもある。
しかし、美味しいコーヒーを求めて、わざわざショップを探しに行くような人間でもない。ホステルの近くにあれば、その街で過ごす機嫌が良くなるぐらい。結局は、コーヒーにうるさいタイプの人間だ。デートのときに「なんでもいいよ」と言いながらも、実はこだわっているような、そんな感じだろう。
なんでもよいと話す女性に対して、焼肉を誘うと「うーん、今日はイタリアンかな」と言われる。でも、そのめんどくさいネゴシエーションが、自分を思わぬ方向に導くのだ。そうやってイタリア料理にハマり、パスタを主食にしていた時期もある。それはそれで悪くない。
旅というのは、予定外の出来事や、自分でも気づかないうちに育ててきたこだわりが、じわじわと顔を出すことがある。だからこそ、旅は面白い。
バーバリアン朝食
今日は雨が降っている。目の前には昨晩、一緒にビールを飲んだドイツ人が二人。僕がこれからドイツに行くという話をすると、一人が「バーバリアン朝食を試してみろよ」と勧めてきた。朝からホワイトソーセージとドラフトビール、プレッツェルを食べるんだ、と言う。「朝からビールとソーセージ?それじゃ、一日が始まる前に終わっちゃうじゃないか」と。
クールベとエルンスト
スモールトークは続く。
私のパソコンに貼っている美術館のステッカーが気になったのか、アートの話に流れる。「好きな画家は誰?」と聞かれたとき、一瞬、ゴッホの名前を口に出そうとした。でも、その代わりに「クールベが好きだ」と言ってみた。少し背伸びをしてみたかったのかもしれない。案の定、相手は「クールベって誰?」と聞き返す。「知らないのか」と思ったが、よく考えてみると、それはあたりまえのことだった。僕だって、たとえば中国や韓国の画家をどれだけ知っているだろう。
その後、彼は「マックス・エルンストが好きだ」と教えてくれた。エルンスト?僕は知らなかった。本当にごめんなさい。
引き伸ばされた時間感覚
京都での会社員時代、毎週があっという間に過ぎ去っていった。でも、旅をしていると、たった数日の滞在がまるで一ヶ月も続いているかのように感じる。時間の流れは早いが、記憶している情報が濃い。旅が変数の連続だからだと思う。その予測不可能さが、時間の感覚を引き伸ばしているのかもしれない。
日常では、あまりにも多くのことが自動的に進んでいる。オートマチックすぎる。
非日常の中のルーティン
旅は変数が多いが、ルーティンは生まれる。生み出せる。たとえば、朝に走ること。どんな街にいても、朝の風を感じながら、街の音を聴きながら走ることほど気持ちの良いものはない。そして、ホステルではいつもモーニングコーヒーが待っている。そのコーヒーを飲みながら、こうして文章を乱雑に書き下ろすというのも、ある種のルーティンだ。
結局、人間の力よりも、環境が与える影響の方がずっと大きいんじゃないかと思う。旅先で人間が力を発揮することなんて、朝に走ったりこうして文章を書き下ろすぐらいだ。僕たちは環境に従って生きている。それでいいはずだ。