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この星に暮らす人のための現代アートを探して|豊島美術館

2024年12月28日、朝の9:00。小豆島から豊島に渡る船を待つ。冬風は寒いが、冬の空気は澄んでいて空は淡い青色をしており、海は優しい光に砂浜のガラスのように輝いている。視界が研ぎ澄まされ、スローモーションのビデオのように景色がゆっくりと写り込む。そして、時間が穏やかに流れる気がする。この感覚、あれ。既視感がある。ふと、今年の秋、ビエンナーレを鑑賞しにヴェネツィアを訪れた日のことを思い出した。水上バスに乗って、ひと気の少ないシャルディーニに降り立った瞬間に流れた時間と似たような雰囲気が漂う。少し渋い例えをするならば、アジェのパリの写真的な時間的な流れが感じられ、その瞬間にはアウラらしきものを感じた。


渡り鳥の記憶、羽についた種が育んだ世界

水の都、海辺の街に流れる何かは万国共通のものでもあるのだろうか。

それぞれの土地には、テロワールらしきもの、言葉には表しきれない空気が漂っているからこそ、土地を他の土地に例えることは乱雑な気がして避けたいと考えているものの、渡り鳥のように生きる旅人には、不思議と土地での記憶が他の土地と交差する瞬間がある。その点が交わる場所にある共通性が、きっと別の土と土の上で生きる人々をつなぐ糸となるのだろう。そして、風に乗って土を渡り歩く「ワタシ」のような渡り鳥たちは、川を越える舟のように、人と人、文化と文化の種、DNAを羽につけて、不意に違う土地へ種をまいてしまう。

それを「外来種」ではなく「交配種」として、繁殖させ土地の歴史に自然と重なるように、レイヤーを、グラデーションを彩ることが、「ワタシ」という儚い命を持つ「個」の宿命なのではないかと考える。そのために、今日も道を歩き続け、生活しつつ旅を続ける。旅を続けるための仕組みを考える。

さて、水の都とも呼ばれるヴェネツィアだが、ヴェネト人が湿地の上に築いた都市がまさか千年続く共和国となり、商人街として栄えることを誰が予想しただろうか。そして、海を渡る商人たちは常に目新しいもの、種、DNAを島々に運んできた。そして今、アートの祭典として知られるヴェネツィア・ビエンナーレが開催されている。瀬戸内海もまたそうである。海上交通の中心地として、朝鮮から天皇の都、京都へと物資を運ぶ拠点として栄えていたことを考えると、唐突に現れた「現代アート」が「外来種」として登場し、瀬戸内芸術祭を通じて「交配種」へと進化するのも、偶然と必然が交差した結果だと言えるのではないかと思う。偶然であり、必然でもあった。そう考えると、土地のアウラやテロワールは大切にしたいと感じる一方で、何か他の土地に例えたくなる気持ちも、人間の鋭い第六感に基づくものとして理解できるのではないかと思う。

さて、ようやく本題に入るが、今日は小豆島から豊島へ渡った。12月から3月にかけて、この時期は海苔の収穫が盛んな時期のようで、港には海苔収穫の求人が掲示されている。このあたりの流速や流向は激しく、そもそも「瀬戸」という地名が「セ(急)・ト(処)」で「急潮」を意味するか、「瀬の開ける場所」、つまり「狭くて流れが急な場所から開けたところに出る場所」という意味を持つらしい。そのため、魚は脂がのっており、海苔生産にも最適な場所だとか。

釣り船が並ぶ港を抜け、豊島の唐櫃港に着くと、簡単にアクセスできる美術館が二つある。一つはクリスチャン・ボルタンスキーの「心臓音のアーカイブ」で、そこでは生きた人々の証を残している。もう一つは「豊島美術館」で、建築家・西沢立衛が設計し、内藤礼さんの作品が展示されている。

「心臓音のアーカイブ」の感想note

この豊島美術館に来るのは2回目で、実は2023年のことだ。親友であり、尊敬している先輩でもある写真家・平末健人さんと茶人・森繁麗加さんと一緒に訪れたことがある。一度訪れた後、帰ろうとした瞬間に雨が降り出し、美術館は一言で例えるなら自然の中の人工的な洞窟のようなもので、季節の移り変わりによって作品の感じ方も変わる。だから、雨の中の豊島美術館を再び見たくて、再入場した記憶がある。その頃の記憶は私の中でとても印象深く残っている。

自然を観察するための人工洞窟

今回は一人で島の冬風に吹かれながら訪れた。美術館という名の人工的な洞窟に入ると、洞窟の天井には二つの大きな空洞があり、そこから風に吹かれて枯れ葉が落ちてくる。枯れ葉と目線を合わせて、地面に寝転がる。「冷たい」テクスチャー、目を閉じて風の音に耳を澄ませると、心も穏やかになり、何か浮遊しているような感覚になる。コンクリートの地面が硬くない、そう感じた。

雨の日に訪れたときは、すべての音が雨音に変わり、水の中に沈んでいくような、そう、ある種の空中への浮遊ではなく、水面下への浮遊の感覚になっていた。本当に、人工的な洞窟とは思えない、人間を自然に引き込むような設計された人工自然感覚観測所のようだった。

二つの大きな空洞から冬の光が差し込み、洞窟の影に大きな光の輪が二つ描かれる。そして、人々はその縁に集まり、ひなたぼっこをしている。何か原始的な呪術的な世界に戻ったような感覚。日の当たる場所に、人々は自然と集まっていく。

地面から湧き出る水玉は、一滴一滴と湧き出し、絶妙に設計された地面の傾斜を辿って流れていく。水玉と水玉が出会い、大きな水玉になり、その重さのまま流れ込み続け、大きな水溜まりを作る。(*水玉は「母型」という作品の一部)

豊島美術館の「母型」は、一日を通して、いたるところから水が湧き出す「泉」です。ふたつの開口部からの光や風、鳥の声、時には雨や雪や虫たちとも連なり、響き合い、たえず無限の表情を鑑賞者に伝えます。

Benesse Art Site Naoshima より引用

その水の流れを辿るうちに、ふと空を眺めると、雲が浮かんでいる。その雲たちもまた、風に乗ってそれぞれ流れていくが、小さな雲が重なり、大きな雲になったり、重くなると雨となって降り注ぐ。水は蒸発して空へ飛び、また地面へと降り注ぐ。

なんだか、気持ちが浄化される気がした。僕のジャケットについている埃さえも、冬の風に飛ばされ、その一部は水玉にそっと乗って、作品の一部となる。まさに「母の形、母型」である。包み込んでくれるのだ。大人たちは四つん這いで、館内を歩く。

美術館の中では写真撮影が禁止されており、私は鉛筆と手帳にそのとき感じたことを観察日記として書き留めた。雨の日の記憶をなんとか辿り、回想記を書いた。写真には残さなかったが、写真よりも鮮明に、僕はこの人工洞窟で観察したことを言葉で、限られた形ではあるものの、覚え続けていく気がする。

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Jong | 三浦宗民
この先も、最終着地点はラブとピースを目指し頑張ります。