アフロアメリカンの民藝がよりリアリティある批評をできていないか? 「シアスター・ゲイツ展:アフロ民芸」
見えない歪み、表象された問題
「私たち」をどのように説明するかは、答えのない問いに立たされる。私たちは日本人なのか。それとも生物として黄色人種、モンゴロイドとしてアジア大陸に分布して生きている存在なのだろうか。この問いは人種や国籍の問題と結びついているが、日本列島に生きていると、その深さを実感することは少ない。
本当は、日本生まれの黄色人種、黒人、白人、ヒスパニックといった多様な顔立ちの人々がいるはずだ。しかし、みんなが「日本人」という枠組みで同等なアイデンティティを持ち、平等に帰属していると言えるのだろうか。そんなはずはない。しかし、日本国籍やハーフといったパワーフルな力が無理に個人を同一化させ、その歪みで痛むのは、個人の問題として片づけられてしまう。だから、問題が表象され難いのかもしれないし、差別が見えない形で陰湿に行われるイメージがある。
一方で、アメリカでは差別は表象化されているし、その問題に対して直接的な抵抗も行われているイメージがある。「ブラック・イズ・ビューティフル(Black is beautiful)」や「Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)」運動はその代表例かもしれないし、社会的に問題が表象されているからこそ、問題に対する連帯も生まれやすいのではないだろうか。
抵抗が個人のレベルを超えて、一つの社会的なムーブメントとなったとき、その抵抗は言説化したり、批評性を浴びる対象となり、問題の解決に近づく。4月24日から9月1日まで、六本木の森美術館を会場にシアスター・ゲイツの日本初となる大規模個展『シアスター・ゲイツ展「アフロ民芸」』では、彼がアートを通して促した変化を感じた気がした。
リアリティのある美的・社会運動としての「アフロ民藝」
実際の展示を見ると、「アフロ民藝」という言葉が示すのは、民藝の美学にとどまらない、ゲイツが黒人であるという背景から染み出る連帯感、または、長く滞在して暮らしていた日本に対する親近感や友情らしき感情を含んでいるように思える。
しかし、実際に「民藝」という言葉の裏には、美的側面を超えた複雑な問題が潜んでいる。民藝が帝国主義の道具として利用されてきた歴史。
ゲイツは韓国や中国にも足を運び、黒人としての視点からアジアを批評している。これは、アジア人や日本人自身による批評よりも、「よそ者」の目を通じて見える、より鋭く、リアリティのある批評ではないでしょうか。日本人は日本史を客観的に見れない、その一方で、被害者による主張もまた暴力的になりやすいという二項対立の難しさが一定、存在する。しかし、よそ者の批評は新しい未来への糸口を与えてくれる可能性があると感じた。
陶芸家であり、デベロッパーでもある
さらに、ゲイツは、陶芸における「無」から「有」を創造する信念を、空き家からシカゴのコミュニティを発展させる街づくりにも結びつけている。彼がTEDの講義で述べた「I believe that beauty is a basic service(美は私たちにとって不可欠なサービスである)」という言葉からも、美術活動が広く街づくりや社会的な活動と結びついていることがわかり、彼の凄さを感じます。アーティストが狭い定義にとらわれず、わがままな印象とも関係なく、陶芸家である彼は「ブラック・イズ・ビューティフル(Black is beautiful)」を新たな形で提言する、美しいデベロッパーでもあるとも感じる。これこそが、エッジが効いているとか、センスがあるということなのでしょう。
ディスコの流れるクラブで感じるアフロ民藝
実際に、展示の最後まで進むと、そこにはまさかのディスコが流れる。ディスコの空間は、シアスター・ゲイツの独創的な「アフロ民藝」という世界観を象徴している。
民藝は、日常の中にある道具。ハレの日もケの日も、そのどちらでもない日も、日常の中に溶け込んでいるものたち。
展示では、貧乏徳利が洋酒のボトルのようにバーの棚に並び、バーカウンターとDJブース、ミラーボールが回る空間が広がっている。軽快な音楽が流れ、踊りたくなるような雰囲気を醸し出している。
そういうクラブパーティを肌の色は問わず、溶け込んで楽しく酒を飲める世界観をゲイツは、実現させたいのではないかと想像してみたり。ホワイトキューブでレコードが販売されたり、踊れる美術館なんて最高すぎた。美術が単に絵を見ることではないということをもっと多くの人に伝えたい。