読むことについて
読むって行為は、とても不思議な行為だと思います。
ここに一冊の本があって、文字が書いてあって、ぼくはそれを読むことができる。
ただそれだけの行為ですが、ぼくの内面で何が起こっているのか、ぼく以外の誰も知りようがありません。
本当に読んだのかどうかすら、分かりません。
長編小説を読み終わって、感想を言ったりあらすじを説明したりすれば、他人は「ああ、この人はこの本を読んだんだな」と勘違いしますが、実はネットで事前に内容を調べておいただけかもしれない。
速読について調べたときに、そのことを強く感じました。
ぼくの知り合いに、本当に速読ができる人がいて、一冊の小説をぱらぱらっとめくっただけで、内容を理解できちゃうんですよ。
文庫本をぱらぱらぱらって、5分程度めくって、「うん。おもしろかった」って。
「本当に読んだの?」
「うん。主人公があれこれして、こうなるところが新鮮でおもしろかった」
「前に読んだことがある?」
「ううん。今、この場で初めて手に取った本だよ」
ぼくは信じられませんでした。
しかし、その人がぼくに嘘を吐く理由はないし、本当のことなんだろうなあ、とは思いましたが、それじゃぼくが速読をやりたいかっていうと、そうは思いませんでした。
いや、本当はむちゃくちゃできるようになりたいです。速読。
それで、速読の学校の資料を取り寄せたり、本を読んだりしてさんざん調べたんですが、結論として、速読の練習をするのが、ぼくには無理でした。
速読の教科書には「読むのではなく、ただ見るだけに切り替えましょう」と書いてあります。
これだと、最初のうちは内容がまったく頭に入らず、本当に紙面をぼーっと眺めているだけになってしまう。
練習が進めば、内容が記憶に残ると言いますが、それまで待てない。ぼくは今すぐその本の内容を知りたい。それで、つい黙読しちゃうので、練習になりません。結果、ぼくに速読は無理、と悟りました。
それなら、まったく興味のない本で練習すればいい、と言うかもしれませんが、世の中に存在する本の中で、まったく興味のない本というものは、ぼくにはありません。
たいていの本は、触ってめくっているうちに、なんとなく「どんなことが書いてあるのかなあ」と興味が湧いてしまいます。そうなると読んでしまいます。単に見る、のは無理です。
ぼくに速読は無理、ということはまあ仕方ないとして、速読をできる人の頭の中では何が起こっているのでしょう。
文庫本を一冊読み切るのに、ぼくだったら半日はかかります。
時間にして4~5時間くらいでしょうか。
難しい本ならもっとかかります。
一日のうちに、読書の時間をまとめて取れる日はそうないので、たいていは移動の電車の中だとか、昼休みにちょこっととか、寝る前にちょこっととかいう感じで読みます。
だから最低でも三日、ふつうは一週間くらい、その本を持ち歩くことになります。
それだけの内容を、彼は5分で理解するのでしょうか。
そんなはずはないと思うんですよねえ。
ぼくが一週間かけて、その本から得た知識、感想、共感と同質同量のものは、5分では得られないと信じたい。
でももしそれが可能なのだとしたら、ものすごい能力だと思います。
読書という行為は、識字率の高い日本なら、ほぼ誰でもができます。
しかしそのとき、読書する人の頭の中で何が起こっているかは計り知れないものがあります。
昔、ある友人に話したら、まったく理解されなかったエピソードがあるのですが、皆さんはいかがでしょうか。
ぼくは、日本の作家が書いた小説と、海外の作家が書いた小説を日本語に翻訳した小説を読んだ時では、そこから喚起されるイメージに明確な差があります。
日本人が直接日本語で書いた小説だと、書いてある状況が、くっきりと思い浮かべられます。
そんなの当然だと思っていました。
外国の小説の場合、そこで描かれる情景は、実際には見たことがない情景です。だいたいは映画でしか見たことがない。
だから、アメリカやフランスなどの映画でおなじみの国なら良いのですが、アフリカとかラトビアとか言われると、容易に想像がつきません。
いや、アメリカやフランスだって、映画で見たとは言っても、映像の風景は作品向けにアレンジして切り取られた風景なので、現実とは違います。
そういういろんなフィルターを通した上での想像しかできない。
それに対して、日本の小説で、特に自分が住んでいる地域に近い都市を舞台にしていれば、鮮明に想像することができます。
その差について言ったのですが、友人は
「そんなことないよ。日本の作品でも海外の作品でも、等しく読めるよ」
と言います。
まあ、ぼくが言いたいことが伝わっていなかっただけかもしれませんが。
それから、一冊の本を読むエネルギーについても、友人に話しても理解されないことが多い。
ぼくの場合、一冊読むのに、本当に大きなエネルギーを必要とする。
ぼくは本を読むのが苦手なのです。
伊丹十三さんが、映画について語った言葉で、こういうものがあります。
「映画というものは、お客さんがその映画を観に、映画館に向かう動機を作ってあげることが重要だ。どういうタイプのお客さんが、どういう理由でその映画を観るか。もっと言えば、わざわざ映画館に足を運んで観なければならぬと思えるのか。そこに成否のカギがある」
ぼくが本を一冊読み切るにも、これと同じくらいの動機が必要で、世の中にはそれほど「読まなければならない」本は少ない。
今まで読むのに全然辛くなかった小説は、10冊に満たないと思います。
それ以外の小説は、なんらかの理由で、途中で読む動機が失せ、半ば義務感で頑張って読み切った、というものが多いのです。
他の人はどうなのかなあ。
読書は愉しみだから、そんなに頑張って読むものではないと思います。
でも読みたいという気持ちもまた本当なのです。
読みの深さ、という問題も、読書の神秘性を表しています。
書いてないけど、分かる、という表現があります。
そういう手法を駆使した小説を、通り一遍にストーリーだけ追い掛けたって意味がないです。
俳句みたいなものです。言外に本当に表現したいことが隠されている。
最近『鬼平犯科帳』を読み始めましたが、池波正太郎はそういう書き方の名手なんじゃないかと睨んでいます。
なんだか、とりとめのない話になってしまいましたが、本を読む、と一口に言っても、その内実は人それぞれで、本当のところ、読むっていったい何なんだろう、と分からなくなります。
そういえば、ぼくが長年読みあぐねている本に『薔薇の名前』があります。
記号論の大学者が初めて書いた小説で、世界的なベストセラーとなり、映画化もされました。
映画は見ましたが、小説を読んでみたいと思って購入しましたが、何度トライしても、最初の数ページで挫折します。
難しいのです。
冒頭のプロローグ辺りの記述が小難しい文体で書いてある。
作品の雰囲気を高めるために、わざとやっているのですが、ここを読んでいるうちに、見事な催眠効果で眠気がきて、読み進めることができない。なんか、そういう種類の魔法の本みたい。冒頭を読むと眠ってしまう、決して読み通すことのできない魔法の本。
しかし、『薔薇の名前』を読了した友人にその話をしたところ、明解な解決方法が返ってきました。
「そんなの、適当に読み飛ばせばいいじゃん。あの作品は、『犬神家の一族』みたいで面白いよ」
頭を殴られたみたいなショックを受けました。
飛ばして読んでもいいのか……。
気がつきませんでした。
たしかに、冒頭にこだわって何年も読みあぐねているなら、いっそそこは飛ばして読める範囲で楽しめばいい。
そして、もっと深く理解したくなったら、もう一度読めばいいのです。
こんな具合に、読書は個人個人の内面で秘密裏に行われているので、その神秘的なベールが剝がされることはあまりありません。
これからも、いろいろな読み方について、知れたらいいな、と思います。
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