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プロ野球背番号の話8番


後継者を冷遇する監督

昨年までジャイアンツの監督を務めた原辰徳が現役時代に着けていた背番号が8でした。ドラフト会議で4球団競合の中、相思相愛でジャイアンツに引き当てられ鳴り物入りで入団した原は、長嶋茂雄の永久欠番「3」を本人から「譲る」という申し出があったものの、結局前年限りで引退した高田繁の「8」を引き継ぎます。「壁際の魔術師」の異名をとるほどの名外野手だった高田でしたが、晩年はサードにコンバートされ、原は背番号と共に守備位置も引き継いだことになります。
入団して間もなく、正三塁手だった中畑清がケガで離脱したことに伴いサードのレギュラーを奪取、中畑はファーストのレギュラーとして復帰したことから、レギュラーとして定着、新人王も獲得しました。
その後も「ジャイアンツの4番サード」として「長嶋原理主義者」に散々叩かれながらも及第点以上の成績を収め、実働15年通算1675安打382本塁打で引退しました。
引退後、評論家→コーチを経て2002年よりジャイアンツの監督に就任。いきなり「監督初年度での日本一」を達成するも、翌年3位に転落したことで「読売グループ内の人事異動」との名目で辞任させられました。
しかし後任の堀内恒夫監督が一度もリーグ優勝できず2年で解雇されると監督に復帰。復帰初年度の2006年こそBクラスの4位だったものの、その後2015年までの9年間で「2度の三連覇」で計6回のリーグ制覇(うち日本一2回)の成績を残し、三度目の就任となった2019年からさらに連覇を達成。監督通算17年で9回の優勝(うち日本一3回)勝利数1291はV9川上哲治を超えて球団一位です。まさに「名将」と呼んでいいですね。
そんな原の現役時代の背番号を継いだのが、仁志敏久でした。原引退直後の1995年ドラフトで巨人に入団、期待の大型内野手としてポスト原の期待を受け、その期待に応えてこれも原以来のセリーグ新人王に輝きます。もともと少年時代は「原ファン」だったという仁志ですが、歯車が狂うのは2002年の原監督就任時以降でした。原監督一年目に故障で初めて規定打席を逃すと、翌年も満足な成績が挙げられず、堀内監督時には故障も癒えてそれなりに活躍したものの、2006年に再度原監督が就任すると衰えもあって過去最低の成績をマーク、原監督の構想から外れ本人の希望でベイスターズにトレードされました。
「単なる巡り合わせ」と言ってしまえばそれまでですが、仁志のトレード以降、ジャイアンツの背番号8は「移籍、FA専用番号」になってしまい、後継者というものの存在をかたくなに拒んでいるかのようです。
そういえば、背番号こそ違いますが数年前に福岡のほうで「監督が現役時代に着けていた背番号のベテラン選手が引導を渡された」案件があったり、名古屋のほうでは現在進行形で「監督が現役時代に着けていた背番号の選手がレギュラーを剥奪され守備位置をたらいまわしにされている」案件があったりしますが、これも似たような話と言えるのでしょうか?
それもあってか(そうなのか?)、最近は監督が現役時代に着けていた背番号をそのまま着けるケースが増えてますね(現在4例/12球団中)。

ミスターカープとミスターオリオンズ

8は「末広がり」として縁起がいい良番ということもあってか(「漢字じゃなきゃ関係ないだろうよ」とも思いますが……)昔から名選手を多く輩出する番号です。
特に「ミスターカープ」と言われた山本浩二(浩司)は入団時こそ背番号「27」でしたが、その後の活躍もあって「8」に昇格すると走攻守三拍子揃った不動のレギュラーとして君臨し、自身の背番号を永久欠番にしました。通算本塁打536本は史上4位、右打者としては歴代最多です。守備も主にセンターを守り、302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立(のちに更新)、走力も晩年は衰えたものの11年連続二桁盗塁を達成するなどとにかく穴のない選手でした。現役選手で言うと「ケガをしない右のギータ」が一番イメージとしては近いでしょうか。監督としては、5年ずつ2回就任しましたがそれぞれチームの「過渡期」「暗黒期」だったこともあってか通算10年でリーグ優勝1回、Bクラス7回という成績でしたが、オールド野球ファンにとっては忘れられない名前です。

同時期に活躍し「ミスターオリオンズ」と呼ばれたのが有藤通世(道世)です。それまで「ミスターオリオンズ」と呼ばれていた山内一弘(和弘)が「世紀のトレード」でタイガースに移籍した後を継ぎ、背番号「8」を着けると一年目からサードのレギュラーに定着、そのまま15年間オリオンズのホットコーナーを守り続けました。その後、落合博満のサードコンバートにより外野手に転向。その後3年で現役引退しました。監督としては、3年間で5位、6位、6位の成績。監督最終年の「10.19」が悪目立ちしてしまった不幸な監督生活でした。
その後、背番号8は準永久欠番となりましたが、チームの千葉移転&マリーンズのニックネーム変更でなし崩しとなり外国人選手が着けたものの、結局今江敏晃、中村奨吾と「チームを代表しかつリーダーシップを取っている内野手」に受け継がれ、「ミスターマリーンズ」の背番号になっています。

「一番センター背番号8」

センターの守備番号が8なので、印象的な選手もそれなりに多いです。個人的にはやはり80年代パリーグが好きなので、島田誠(日本ハム)が真っ先に浮かびます。「一番センター背番号8」の代名詞のような選手でした。しかし故郷福岡にトレード移籍した後は、巧打の片岡篤史、堅守の金子誠とタイプの違う内野手に引き継がれ、「すわ復活か」と思わせる西川遥輝が一年で「7」に変更してしまうと、これまた「12球団最強巧打者」近藤健介が定着させました。近藤が移籍後、淺間大基が跡を継ぎましたが彼が一番「一番センター背番号8」に近いかな。ケガがちだったけどようやく一軍に上がってきたので活躍に期待します。

西川遥輝とは逆に一年で背番号を「7」から「8」に変更させられたのが辰己涼介(楽天)。鈴木大地のFA移籍によるものでしたが、結果的には「一番センター背番号8」を実現してくれて個人的には嬉しいところ。なかなかスタメンが定着しないチームにあって、ショートの村林と共に奮闘中です。

同じく現役でつけているのがベテランの大島洋平(中日)。大卒社会人からプロ入り14年目とあって、現在はセンターを守るのがちょっと厳しい印象ですが、かつては長く「一番センター背番号8」で不動のレギュラーでした。かつては90年代に彦野利勝が同じ立場で活躍していましたが、もともとは江藤慎一、島谷金二と強打の選手が着ける番号でした。またこのチームでは「背番号ジプシー」こと森野将彦が2回着けて2回剥奪されています。

同じく現役ではあるのですが、少々首筋が寒くなっているのが神里和毅(DeNA)。ルーキーイヤーから数年は「一番センター背番号8」でブレイクしたものの、その後ケガなどもあって不振を極め、現在三浦監督からの信頼を得られていない状態。「大卒社会人から入団六年目」という年齢的にも崖っぷちなので、何とか生き残ってほしいところですが……。
あとこのチームは古くから大橋勲→江藤慎一(元捕手)→辻恭彦→大野雄次(元捕手)→谷繁元信→相川亮二と外国人など一年限りの選手を挟んで約40年間捕手でつないできた伝統があるんですよね。だからどちらかといえば、こちらの流れが本流かも。

あと余談にしては申し訳ないですが、現役だと丸佳浩(巨人)も今年は「一番センター背番号8」で活躍してますね。おそらく丸退団後にはまた別の移籍orFA選手に引き継がれると思うので、流れもなんもなくなるでしょうが。

大砲のはずが「便利屋」に?

どちらかといえば、「一番センター」よりもこちらの数のほうが多そうなのですが、実際そういうイメージでつなごうとしている球団もいくつかあります。しかし、どうやら結果が出ていない球団のほうが多いようで……。

その中で比較的うまく行ったほうなのがヤクルトで、大杉勝男→広沢克己とチームの四番打者の伝統を作りました。広沢FA後は辻発彦、佐藤真一と移籍者でつなぎましたが、夢よもう一度と武内晋一→中山翔太と大砲タイプでつないだものの結果が出ず、現在は空き番です。

大砲というよりは巧打者のイメージですが、オリックスもそういう意味ではうまくつないできた印象です。中日から移籍した島谷金二→松永浩美→藤井康雄で四半世紀繋いだラインは圧巻です。藤井引退後、外国人選手番(一年だけ中村紀洋が着けたが)になってしまったのが少々残念。このチームについては「背番号8の外国人選手」の項で後述します。

「セカンド仰木彬背番号5」「サード中西太背番号6」「ショート豊田泰光背番号7」とくれば西鉄黄金時代の内野陣ですが、では背番号8は?
残念ながらファーストではなく、内野のユーティリティプレイヤー滝内弥瑞生(たきうちやすお)です。規定打席に到達したことは一度もありませんが、内野ならどこでも守れ、代走もOKという貴重なバックアッパーでした。西鉄黄金時代で10年現役生活を送り、その後ライオンズ→バファローズ(近鉄時代)でコーチ、スカウトを歴任しました。その後も茅野智行→船田和英→日野茂→ほぼ一年ずつ数人挟んで行沢久隆と似たタイプの内野手でつないできましたが、時も場所も巡り福岡から埼玉の西武ライオンズになって、新しい流れを作ろうとします。地元の大スター、浦和学院出身の鈴木健です。入団した1988年はいわゆる「西武黄金時代」の真っただ中。いくら注目の逸材とはいえ不動のレギュラーに割って入るのは並大抵ではなく、初めて100試合以上出場したのは6年目の1993年でした。その後はレギュラーに定着するも、監督が変わった2002年に大不振に陥り、そのまま戦力外通告を受けヤクルトに移籍しました。その後、大砲の流れが続くかと思いきや、埼玉出身つながりで「チャラ尾」こと平尾博嗣が背番号変更して引き継ぎ、平尾引退後はオーティズを挟み、横浜から移籍してきた渡辺直人と、先祖返りのような流れになります。現在、渡部健人の背中にあり、「大砲8番」のイメージを作れるか期待はしていますが、残念ながら現状はファンの期待を大幅に裏切っており、奮起を望みます。

ライオンズよりも悲惨なのがホークス。球団初期にはあの「史上初日米通算先発だけで200勝達成した」黒田博樹の父、黒田一博も着けていた背番号で、60年代のホークス外野陣を支えた堀込基明以降は柳田利夫→島本講平と代々外野手が着けていました。もっとも島本については投手として入団し、二刀流を試みたもののオープン戦のみで断念した形の外野手登録でしたが。
鳴り物入りで入団した島本が期待に応えられず近鉄に移籍すると、内野のユーティリティとしてブレイク寸前だった「河埜弟」こと河埜敬幸が変更して着けます。河埜はキャリアのほとんどを内野手として過ごしますが、晩年外国人選手との兼ね合いで外野にコンバートされます。
南海の暗黒時代を背番号8で支えた河埜がダイエー初年度で引退すると、「未来の大砲」としてこれまたブレイク寸前だった岸川勝也が後を引き継ぎます。ホークスで初めて「背番号8の大砲」が生まれた瞬間です。南海末期に入団、新球団での活躍が期待されていたものの、結局ダイエー暗黒時代に三年連続20本塁打を達成したのをピークにケガによって出場機会を失うと、そのまま福岡ドーム完成とほぼ同じタイミングでジャイアンツに移籍します。
岸川移籍後に8を着けたのが、ルーキーイヤーからショートのレギュラーに定着していた浜名千広です。暗黒時代から常勝球団に這い上がる道程をレギュラーとして見続けた浜名ですが、ダイエー球団初のリーグ優勝、日本一を達成した1999年を最後に鳥越裕介にレギュラーを奪われ、ヤクルトに移籍しました。
浜名移籍後、しばらく空き番になりましたが岸川の再来かという期待の大砲、江川智晃が着けました。2005年に入団した江川は、当時の厚いレギュラー陣に割って入ることができず、ひたすら伸び悩んだ結果5年で李浩に奪われる形で背番号を剥奪されます。
李が一年で退団すると、しばらく空き番と外国人、移籍用番号となり、2017年に内野のユーティリティ明石健志が36番から変更して着けます。明石の引退後、同じく内野のユーティリティ牧原大成が奇しくも同じ36番から変更して跡を継ぎました。牧原は「セカンドに専念して脱便利屋」と意気込んでいましたが、現状は三森大貴や新人の廣瀬隆太との併用となっており、「脱便利屋」とまではいっていないのが現状です。

ここまで書いて、「あれ?実は8番って便利屋の背番号じゃね?」と思ったのは内緒。

なぜか左にこだわる阪神

右の名打者が多い6番で左にこだわり、左の名打者が多い7番で右にこだわる阪神タイガース。しかし8番の左打者へのこだわりは6番の比ではありません。1981年にスイッチヒッターの加藤博一が背番号8を着けると、それ以降吉竹春樹→田尾安志→久慈照嘉→佐々木誠→片岡篤史と、一年限りの選手を除くと錚々たる左打者が並びます。ここで何を思ったのか捕手で右打者の浅井良が「12番」から変更して着けますが、その後外野手に転向して6年で「5番」に再変更。MLB帰りの福留孝介→現役の佐藤輝明と再び左打者のラインがつながれました。確実性のない打撃と安定性のない守備でとかくやり玉に挙げられることの多いサトテルですが、潜在能力は球界の宝レベルですので、特に地元メディアとファンにはとにかく温かく見守ってほしいと他チームファンながら願わずにはいられません。ただ、関東出身のタイガースの選手は結構そういう地元メディアやファンに嫌気がさしやすいと言われますが、サトテルはガチ地元の西宮出身なのでそういう心配はなかろうと思いますが……。

背番号8の外国人選手

日本人にとって良番なので、わざわざ外国人選手に着けさせることもないだろうと、やはり背番号7同様背番号8を着けた外国人選手もあまり多くありません。セリーグでは1年で解雇された1985年ジェリー・ホワイト(横浜大洋)と1年半で「7番」に変更した李鍾範(中日)の二例のみです。
パリーグはセリーグよりは多いものの、西武とソフトバンクはすべて一年限りでそれぞれ三例と二例、ロッテは有藤の準永久欠番を解除したマックス・ベナブルの一例のみ。日本ハムは四例あるものの最長二年。楽天はゼロ、ちなみに消滅した近鉄もゼロでした。
そんな中、比較的外国人の印象が強いのがオリックスで、阪急時代に7年間バルボンが着けたのが最長で、21世紀に入ってからもオリックス時代のオーティズ、近鉄と巨人では「20番」を着けていたタフィ・ローズがそれぞれ8番を着けており、現在も「マーゴ」ことマーウィン・ゴンザレスの背中にあります。

背番号8の投手

この項といえばやはり阪神。2リーグ制施行から干場一夫→大崎三男という二人の投手で8年間繋いでいます。
中日は「どうしても江藤慎一を追い出したかったが故の格差トレード」で交換相手だった川畑和人が1年だけつけたのみ。
他チームもまったくゼロかほぼノーカンレベル。活躍選手もなく特筆事項はありません。ちょっと残念。

背番号8の捕手

上の項で触れたDeNAの流れですが、実はもう一つ大きな流れがあります。オリックスに吸収されて消滅した近鉄です。
2リーグ制になってから創設された近鉄の最初の背番号8は芳村嵓夫という捕手でした。実働5年3球団渡り歩いて引退と特筆事項はありません。近鉄も2年で退団しています。
その後を継いだのが、芳村の大学の後輩にあたる根本陸夫です。プロ野球ファンにとっては現役時代よりも引退後のほうが印象が強い方だと思いますが、この人も現役時代捕手でした。引退後は広島、クラウン・西武、ダイエーで監督を務めていますが、現役時代は近鉄一筋です。といっても、わずか6年で引退しており、後半3年は事実上コーチ専任状態だったらしいですが。
根本引退後一時的に移籍選手番になりますが、中日のレギュラー捕手だった吉沢岳男が移籍して着けるも、同じく捕手だった山本八郎が東映から移籍したため一年で変更、山本が8を着けました。もっとも山本は近鉄時代は外野手登録でしたが。
山本が移籍した後は、阪神から鎌田実が一時的に移籍したものの出戻り、それと引き換えに田淵幸一にポジションを奪われた「ヒゲ辻」こと辻佳紀が移籍して着けました。
在籍3年で辻が移籍すると、その後15年間近鉄のホームベースを守り続けることになる「アリナシコンビ」の一人、梨田昌孝(昌崇)が着けます。
梨田引退後は米崎薫臣→吉田剛と内野手が続きますが、梨田監督就任二年目の2001年に捕手の礒部公一が変更して「捕手の背番号8」が甦り、この年は近鉄最後のリーグ優勝をしています。翌年から礒部は外野手登録に変更していますが、近鉄最後の背番号8が捕手出身の礒部だったというのは、最後の救いだった気がしますね。ちなみに、礒部は合併球団のオリックス入団を良しとせず、新球団の楽天に入団、引き続き背番号8を着けています。

まとめ

なんか、時間がかかった割にすごく記事のバランスが悪くなってしまった気がするんだけど(特に大洋~横浜の捕手のあたり)、とりあえずこれで完成とします。
でも次の背番号9はもっと偏りが出そうだなぁ……。
更新がいつになるかはまだわからないので、もし待ってくださっている方がいるようなら、気長にお待ちください(汗)

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