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どうにもならないこと

どうやってもどう頑張っても周囲の雰囲気をぶち壊す発言をしてしまう。
いつもだいぶ後になってからやっと気づく。

本音をいうと「なんでそんなこというの?」と悲しそうな失望したような表情で言われたことが2回ある。

そのに言った本音はとてもネガティブな内容。でもそれが本音で、私は嘘をうまくつけないし、要領が悪い。

本音を言ったら雰囲気をぶち壊すし、かといって黙っているだけだと、今後その人たちとの関係が長くなるほどそのキャラが浸透してきまづいし、きっと私はいないほうがみんな幸せなんだろうなと思う。

でも、私を知ってしまった人たちは存在する。
私が自殺したらその人たちの空気をまたぶち壊す。
でも私にもそれしか解決策が見つからない。みんな不幸になる。

でも一つ救いのありそうな解決策を思いついた。
人を助けたとか、ポジティブな理由をこじつけて死ねばいいんだと。
そしたら、私は前向きに生きてましたっせと言えるし、みんなもあいつは前向きに生きていたと、積極的に生きていたと思ってもらえるのではないかと。

そしたら捨て駒になるような仕事や活動をしないといけない。
もう生まれた時から地獄は始まっていたんだと、みんなが手に入れている幸せは私には手に入らないものだってもう腹をくくらないといけない。

なるべく私を知ってしまった人たちに迷惑が掛からないように被害を最小限に抑えて死にたい。
私はいるだけで不幸を起こしてしまうんだから。
空気をぶち壊してしまう罪悪感に耐えられないし、みんなができているのに自分だけできないのも耐えられないし、もう耐えられない。

頭脳は才能ないけど、フィジカルならまだ可能性はあるし、鍛えて使えるようにしないといけない。
綺麗に死ぬのもなかなか難しい。
首吊りうまくいかないし、もう恥をかきたくない。これ以上私を否定したくない。永遠に意識をなくしたい。消えたい。

死にたい。
でもいざ死のうと冷静な時に考えたら、先述した私を知ってしまった人(友達や同じ大学のゼミ生や先生や親や兄弟や親族等)にまた失望されてきっと今度は「なんでそんなことしたの」って悲しそうな顔をすると思う。
私だって生きやすいのなら死にたくないさ。でも大きな流れが私を生きることをいつも遠回しに否定する。
みんなはその大きな流れに身を任せて上手く回避しているけど、私は下手だからボロボロになってしまう。
なんでこうなってしまったんだろう。これ以上誰にも、自分自身にも失望されたくない。呆れられたくない。嫌われたくない。
だったらいっそ自分から手放すほうがいい。

私は「なんでそんなこと言うの?」っていう言葉がトラウマ。それも真剣そうな、悲しそうな表情で言われるとなお良い。

自分は頭が悪いから賢い判断はできない。要領が悪くて回りくどくて無駄の多い思考や作業をする傾向にあると自負している。

わかりやすく例えるならrpgゲームをしていてゲームの操作の仕方がわからなくてスライムが倒せなくて困っているとしたら、
私は「そのゲームのソフトのプログラミング言語を抽出して読んで理解すればいいんだ」ってひらめいて(すでに要領が悪い)、でもプログラミングについて全く知らないから「youtubeで基本から学ぼう!」ってなって3時間とか見て「うーん、わからん」ってなって時にはチャットgptに聞いたりしてそしたらそのうち「あれ?なにやってんだろ」ってなって終わる。

もし仮にプログラミングを習得してゲームのプログラミングへの応用ができるくらいになって一番最初の問題を解決できたとしても時間がかかりすぎる。
普通ならゲームの操作方法をググれば済む話だよねってこと。
この例は極端すぎてさすがにリアルな私はやらないけど私はこのような傾向がある。偏りがある。
詰んでいる。助けも呼べない。回りくどい。
苦しいならその感覚がマヒするまで苦しめばいいと考えているのが私。
それを思いついてなるほどってなったけどさすがに自傷的すぎる。
わかりやすく極端に言うと、指をやけどして痛ってー!ってなってるのに指の痛覚がなくなるまで指を炙ろう。と言ってるようなもの。さすがにまずい。
この思考の癖もなにもかも助けの呼び方も信頼できる人もわからない。何もわからない。
こういう悩みを抱えているときは精神科にいくより哲学の本を読むほうが私的には解決に近い気がしている。
この感覚自体も間違いかもしれない。死に向かっているかもしれない。
でも精神科は信用できない。人も信用できない。
本のほうが人をダイレクトに感じさせないし、その本が嫌ならすぐに読むのをやめても問題は起きない。
それに哲学の本は自分に新たな発見を教えてくれる。
もちろん、対人関係でも学びは多いけど私には代償が大きすぎる。
だったら本でいい。死に向かうしかないのか。
これは人は誰しも死に向かっているということを言いたいんじゃなくて、明らかに寿命より早い死を迎えてしまう懸念について言っている。

もう幸せになれないのはわかった。でも、これ以上むごい思いはしたくない。笑いながら泣くとか正気の沙汰ではない。悲しいと笑ってしまうのもおかしい。でも人を信用できない。だから効率悪い。死に向かっている。そんなのは表面的にはわかってる。でももうこれ以上完全に自分が納得していないままただ黙って従うのは無理がきている。
表情管理が困難になり始めている。

嫌だったことや恥をかいた過去を思い出したとき、周囲に人がいるときは無表情でいられたけど、今日は久しぶりに外に出たのだけど、電車で嫌なことを思い出したときに笑ってしまった。
幸いにも口元が隠れる服装をしていたので大丈夫だった(多分)。

もう辛い。首吊りだってもう何回練習したか数えてない。
でも要領が悪いからうまくいかない。
やっぱり私は馬鹿なんだって、すべてのものに蔑まれている感じがする。
何かしらの精神疾患に該当しそう。

一体何が私をこうしてしまったのか。
私はただみんなに幸せになってほしい。それだけだったのに。
笑っていればみんなに心配をかけないだろうと頑張るけどその笑顔はどんどんぎこちなくて気持ちの悪い変顔に変わっていって気味悪がられる。
誰も悪くない。
みんなの幸せを願って笑顔を維持した私も、ただ単純に気持ちの悪い顔を怖がるみんなも。

人は誰しもが正義を持っている。
だから犯罪者には犯罪者の正義がある。ただそれは非合理的で、マイノリティな思想ばかりで、賛成者が少なくて反対者が多い。
その反対者にも色んな正義を持った人がいて私のような自分の失敗を許せない人やその逆バージョンの人やとにかく色んな人がいて、許せないってなって犯罪者は永遠に非難され続ける。
その犯罪者の正義の成分は?その犯罪者は何でできているのか?何がその人をそうさせたのか?色々深く掘り下げるとその人なりの正義や理由や別の正義にねじ伏せられた痕とかでてきてその人一人を延々と非難する気になれなくなっていく。悲しみ・呆れ・絶望・失望・自分の無力感がでてくる。
とにかく知れば知るほど胸糞で、どうにもできなくて、事実は残酷でただただ救いようがなくて、哀れで愚か。
最初はみんな幸せになりたかっただけなのになんでそうなった?って。
歴史とか、野性の動物のことを考えるとそう思う。

生きる意味が「幸せになるため」なら間違いだと思う。
合理的に考えてみても子孫を残すためとか、

疲れた。今回はこの辺で。

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