【ホラー小説】駅長
夜のО駅の売店にはいつものように見慣れたチェルシーがあった。街角のコンビニではもう久しく手に入れることができなくなってしまった。だからО駅に立ち寄る時があれば俺はいつも売店でチェルシーを買う。そして、きょうはしきりにのどが渇いていた。俺は弁護士。昼から裁判をこなした後も、事務所に戻って尋問事項の作成。クライアントとの打ち合わせ。今日もそれなりに働いたからだ。
――ポケットにちゃんとふたつの切符はあるな――
そう思われてポケットをまさぐると、かさっと切符と切符が二枚重なる手触りがした。
――よし、大丈夫だ――
そこで俺は財布に残った残り金全てで、マイブームの苺ミルクジュースをつけた。さっそく商品を貰い、そのままストローをねじ込み、一気に飲み干すと、疲れが一時的に消し飛び、少しマイルドな気分になった。あたりを見渡すと酔客たちが所々で、会社の悪口を言っている。ОLたちはスマートフォンでSNSを覗き観ては、画面に向かって微かに笑う。よく見慣れた光景だ。後はホームに入線する最終列車を待つだけだ。
乗ってしまえば……乗ってしまえば……あとは泥のように眠ろう。
トントントン。誰かが俺の肩をたたく。
「お客さん。終着駅ですよ」
約一時間半後、俺は目覚めた。あたりをみると声を掛けた駅員のほかは誰もいない。さきまでは満員だった八両の車両が、一筋の光のようにまっすぐ見える。
乗客はいない。すでに全員降りたようだ。故郷である終点のK駅についたのは明らかだった。
心地よい眠りから起こされてしばらく、少し苛々とはしたものの、俺は誰も見当たらないプラットホームを機嫌よく歩いた。誰もいないというのはいいものだ。俺は本来、人が苦手だ。人と輪をつくるのが苦手だ。オヤジがやれといったから、素直に言いつけに従って法曹の道に進んだものの、本来の俺は、なるべく人とは争いたくはない。野鳥と山歩きが好きなただの中年だ。今日のような原告との唾ぜりあいは不毛だな……。
そうたわいもないことを何とはなしに思っているうちに、俺は乗り越し精算機のまえで立ち止まった。
――どこにあったかなぁ?――
そうだ。改めて落とさぬように財布のなかに入れたんだった、と思い至ると、行方不明になった切符をなんとか探り当てようと次は財布を探す。見つからない。財布がなかった。仕方ない。俺は次に誰もいない広々としたK駅のホーム一階で、鞄をひっくり返す。大切な訟廷日誌。それから読みさしの文庫本。趣味で習っている語学のテキスト……。様々なものがでてくる。最後のすべてまでひっくり返すと、ようやく財布が落ちてきた。よかった。中身は確か、ほとんどなかったはずだ。俺はカードはもたない主義だから、現金がないといつも困ることになる。そうこうしているうちに切符が二枚ともみつかった。よかった。これで無事、実家に帰れる。持病の肺病でここのところ、体調の悪い母を見舞うことができる。実家に帰りさえすれば後はどうにでもなった。
――帰ろう。帰ろう。早く実家に帰ろう――
探していたものがちゃんとあったので、俺は少しご機嫌になって、竹内まりあの「マイスイートホーム」を口ずさみながら、荷物をまとめた。まったく我ながら荷物が多すぎる。こんな姿。今日対決した検察官に観られたら、つけ込まれてひとたまりもなく敗訴だな。そう思いながら、俺は改札に向けて歩いていく。
――コンビニはもう閉まっているな――
しばらくしたところで、駅の改札室のコーナーに駅係員がいるのを認めた。しかしいつもと何だか様子が違う。その男は腕にりっぱな紋章をつけ、制服はてかてかと色艶よく輝いている。顔はのっぺりと長方形で、妖怪ぬりかべのように表情がないが、よく観ると癇の強そうな目つきだ。視線がこわばっている。帽子がずいぶん上等なものを着用していてまるで昔のシベリア人のようだ。胸に何だろう? バッジが滑稽なほどにたくさん貼り付けってあって総じて見て、どうやらこの駅ではかなり偉い奴のようだ。しかも関わると少し厄介そうな……。つまりはこの駅の駅長だろう。間違いない。
職業柄、人の表情と仕草を見ることに慣れている俺はそう思った。そうしてゆっくりと足元まで目線を移していくと、寒いからか待ちきれないかなのか彼は身体を小刻みに震わしているではないか!
――いけない。人を待たせているな。素早く精算しよう――
特に俺は焦ってはいなかったが、この時、確かに彼に申し訳ないと思ったので、慌てて自動改札口の前に向かった。駅長は微動だにせずただ虚空の一点を見つめている。その視野に俺の姿はおそらく映っていない。なんだか何かの彫像のようで、角度といいたたづまいといい、観ようによってはモアイ像にもとても似ている。俺にはその姿がとても神々しく見えた。
俺は慌てて駅長のもとへと駆けより、切符を二枚差し出す。
「残り三百四十円になりまーすっ」
と、声変わりしていない少し変な発音とアクセントで駅長は精算金額を声に出した。こうして、今思えは少し。いや、かなり変わった駅長の第一声が俺に告げられた。たいして気にはならなかった。それよりも、金額があわないのが問題だった。
――あれっおかしいぞ。金額を請求されるなんて……これでちゃんと通れるはずだが――
俺は少し変に思い、そのことを問い合わそうとした時、駅長は二枚差し出した切符のうちの一枚を俺に返してきてこう告げた。
「これは昼間得割きっぷでありまーすっ。昼得きっぷは昼間限定使用切符。ただいまの時刻。二千十四年十二月二十二日午前零時三十二分。当切符はあと、九時間二八分後にならないと使用できないのでありまーすっ」
「あっ」
そう駅長から説明を受けて、俺は些細な勘違いをしていることに今、気づいた。
俺は今、二枚切符をもっている。一枚はさっきО駅に乗る時買ったもので、もう一枚は、既に回数券として買っていたもの。俺の住むA駅からオフでよくいくS駅まで途中結ばれるものだ。しかし、その二枚目がどうやら使えない。昼得きっぷだかららしい。
――なんだかわからないが、大変なことが起きているようだ――
「申し訳ない。すぐに足りない金を探すから」
俺は良心からそういったが、駅長は顔色を変えず、微動だにしなかった。
次の刹那、俺は今、尋常ならざる敵に面していることを、長年磨き上げられた弁護士としての職能本能から思った。こいつは何か一癖あるぞ、とその時、とっさに思われたのだ。しかし、この段階ではまだ、この瞬間から俺と駅長とのおよそ五時間半に及ぶ長い攻防が始まるとは、さすがの俺も夢にもついぞ思わなかったのである。
「少し待ってくれないか。小銭を今から探すから。どこかにあるはずだから」
「大丈夫でありまーっすっ」
こうして俺と駅長の長い長いやりとりが今、始まった。
しかし、それにしても、しょっぱなからいけない。相手のペースに既にあわせてしまっている。こんなこと。交渉術に長けた弁護士にとっては、イロハのイのはずではないか。すっかり気が緩んでいる。そう思って心ひそかに自身、反省した。
交渉は序盤まだまだ始まったばかり。形勢は少し不利である。
俺は駅長の変なイントネーションに少し調子が狂いながらも、人目をはばからず、鞄を地べた逆さにして、中にあるであろうお金を探すことにした。そうして俺は直ちに、鞄をふった。じゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃら。
色々何とはなしに出てくる。これでなんとか足りるだろうと思った。ふと、顔を見上げて駅長の表情を観ると、彼は先とはあまり変わらない。いかなる場合にも関知しないといったように見受けられる冷たい顔だ。いつから日本の鉄道はこんなに世知辛くなったのか。俺はこころのなかで独りぼやきながら、小銭を集めては、駅のコンクリートの床に積み上げていく。
「ちっ! なんてことだろう! こんな時に限って全くの小銭ばかりだなんて!」
俺は思わず声に出して言った。よく数えてみるときっかり五円足りなかった。わずかに届かなかった。ところで俺は今、様々な高級品を身に着けている。例えばだが、ロレックスの腕時計。ヴィトンの鞄。それからクリスチャンディオールのネクタイ。全てならばざっと三百万円はくだらない。歩く高級ブランド。それが俺だ。それぞれのものを質屋にばらばらで持っていっても、直ちにうん十万は借りれるはずだ。
俺はここで実家の母の執事に電話を掛ける。俺を育ててくれた父代わりの男だ。今日、遅く帰るから、深夜K駅に迎えに来てくれと頼んでおいた。しかし、どうしたのだろう。一向に電話がつながらない。酒飲みのあの男はどこかのバーにでも酔いつぶれているのだろうか。つながらない。かといって、こんな深夜に病気持ちの母をたたき起こすのはとても許されないことだ。
こうなれば仕方ない。現金がこれ以上、手持ちになく、どうしようにも助けを呼べない状況となった以上、他に方策がない旨を伝えて、この時計を駅長に預けよう。まさか盗まれることはないだろう。時は金なり。臨機応変。
それからの俺は金満ぶりをいやらしくない程度にさりげなくアピールしながら駅長と交渉した。改札を通る際に念のため、金には不自由してないということを強く印象づけるためだ。
「ちょっとすまない。駅長。さっきからそこで観ていてわかっていると思うが、おれはあと、どうしても五円たりない。このままではこの改札はくぐれない。そこでだ。今日はもう遅いし、この時計を預けていくことにして、ここは一時、この駅の改札を通してくれないだろうか。明日になれば朝さっそく使いの者を差し向けて、この時計を貰いに来るから。いいだろう?通してくれないだろうか?」
駅長はただちにこう言った。
「お客様。誠に遺憾ですが、ルールはルールでございますので、お通しできません。もし、どうしても通りたいというのであれば、お手持ちの代金で通行可能な二駅前のH駅まで戻ってもらうしかございません。本日上り方面最終列車は今から五分後でございます。申し遅れました。当駅駅長は私(わたくし)、山喜田次郎であります。この駅の管轄および管理は一切私ひとりにすべて委ねられておりますであります」
ぎょっとした。改めてよく観れば、彼の左胸には駅長ーEkichowーとワッペンがある。まるで小学生がつけるようなけばけばしいものだ。いや、今どきあんなもの子どもですらつけない。そのワッペンは見ようによっては威風堂々、立派なものだったが、どちらかというとやはり滑稽である。それどころか毒々しくもあった。
――あれ、おかしいぞ。あんなワッペン。ここの鉄道では観たことがない……。この男、本当に駅業務員。いや、駅長なのか?――
俺は一瞬、この駅は機構として果たしてまともなのか、と思ったが、そんなこと。じかに彼に言えるわけもなかった、いかに俺が名うての弁護士といえど、この状況下では、改札を通る。通さないの関係において、上下関係がすでに発生している。
守衛と囚人。あるいは医師と患者関係のようなものである。くつがえすのは並大抵のやり方では無理なはずだ。彼は〇×鉄道という絶大な権威に威を借りているが、俺はといえば、いかに有能とはいえ一介の弁護士にすぎない。いや、今はプライベートだから、弁護士ですらない。鉄道を利用するただの一乗客に過ぎない。
――個人と組織が闘えば、勝つのは必ず組織なのだ――
そのことを長年法廷で闘ってきた俺は痛いほどよくわかっていた。よしわかった。やりなおしだ。喧嘩のル―ルを変えよう。要はおれがただの一個人でない超法規的存在であろうところを強調してやれればいい。例外はいつでも存在する。駅長もなかなかどうして、立派なものだが、実は俺とて、ただものではないのだ。
――第一の方法(恫喝)――
しばらくして……
駅長との最初の交渉が失敗した俺はしばらく頭を冷やすようにゆっくりと駅構内をうろついた。背を向けて駅長にいってやるセリフをしかと、頭の中で悪い男の役柄になりきって、準備する。それから突然、くるりと彼に向って俺は振り返る。
「おいっ。駅長!」
俺は先とはまるで声色を変えた。昔懐かしい悪役商会のような一オクターブ低い声だ。
「突然、なんでありますか!」
駅長の声色も変わった。通販番組の社長のような一オクターブ高い声だ。
――いいぞいいぞ、びびってるな――
俺はその時、確かにそのように気配で感じた。
――よしこの調子だ――
うん。この際仕方がない。しょうがないではないか。どうやら奴はかなりの強情者みたいだから、初っ端から最後の切り札であるオヤジのことをほのめかすことにする。オヤジの名は早島正。衆議院議員当選七回。民自党議員。この地域一帯だけでなく、日本国において名だたる政治家だ。先年は衆議院議長を務めた。大臣もいろいろと歴任している。このオヤジの名前を出せば、大概の人間は、水戸黄門の印籠を出されたように静まりかえる。それはそれは、皆、退屈なくらいに同じ態度だ。それだけに俺はオヤジの名を告げるのが実に厭らしいと思われ、嫌いだったのだが、この期に及んでは仕方あるまい。
「駅長ーオッ。貴様ッH県×区。この街の与党衆議院議員の名前知ってるかァ? まさかK駅の駅長なのに知らないわけはないよなあ?」
「存じ上げておりますでーっありまっすっ。」
少し気色ばんで駅長はいった。
「よしお利口だ。じゃあ、さっそくその名を言ってみろォ!」
駅長はすかさず答えた。
「早島正議員でありますっ!」
「正解! ここまでは常識だなあーアッ。この街の小学生でも知っている。ではその息子の名は? つまりは長男の名は? 駅長なら知っているよなあーアッ!」
「早島道広氏と聞いているでありまーすっ!」
「よおしィ! 良く知っているな。さすが駅長だ。では彼は何をしている?」
「弁護士をされているとかと聞いたことがーァーありますっ」
「よく知っていたな。なかなかお利口さんな駅長だ」
「ありがとうございますであります!」
そういうと、駅長はふっと不安な面持ちになった。その様子がわずかに変わったのを俺は見逃さなかった。何をこの男はいい出したのだろうといわんばかりだった。効いている。確かに効いているぞ。
すかさず俺はにたっとしてポケットに入れてある弁護士バッジを駅長の前に示してみせた。俺はこのタイミングで、にたあっと笑った。
「悪いなあ。その早島道広が俺なんだよ。わかったろう。俺はこの街のうらおもて双方に通じる絶対的首領。早島正の息子なんだ。なあ、わかったろう。俺が誰かということが。なあ、もうこんな夜更けだ。今のこのやりとりなんて誰も観ていない。先までの俺に対する無礼な対応は忘れてやるから、今、ここを通してくれないか。貴様、駅長だろう。駅長ならばたった五円くらいなんとかなるだろう!」
そういって俺は少し凄み、ゆっくりと駅長を見やった。おそらくは彼なりに何か悪い想像が彼のなかで駆け巡っていたのだろう。見る見るうちに顔色が翳っていった。少なからず動揺しているようだ。
――悪いことしたな……――
俺は奴を少し可哀想に思った。数秒だけだが懺悔した。何度やってもこういうことは後味のよいものではない。
――頼む。通してくれ。通してくれたら一切のことを忘れよう――
少し権威を衣に着せてみっともないが、非常事態だ。昨今、母がこんこんとまた悪い咳をぶりかえしている。電話越しに聞いてもよい咳ではなかった。てこでも動かない団塊世代の頑固な母だ。明日にでも自ら説得して病院に運ばないと取り返しのきかないことになりかねない。
――少しいやらしいが効いたかな?……――
さてこの駅長どう出るだろうか?
「しばらくお待ちくださいでありますっ!」
駅長はそういうなり、改札を閉ざしたまま駅舎のなかへと入っていった。そしてしばらくして分厚い冊子を持ってきた。それはいかにも歴史のありそうなもので、よく見ると表紙に「K駅心得」山喜田荘六とある。特徴のある字に、一風変わった名前。駅長と同じ姓だ。見ずともわかる。おそらく彼の親父か祖父が著したものだろう。
なぜそのようなものがあるのかが解らないが、この駅長がどうやら世襲であるらしいことはおおよそわかった。それならば話ははやい。同じ世襲どうし気脈が通じることもあるかもしれない。いや、待てよ。……こいつに常識が通じるのか? 世襲というものを理解しているのか?
このK駅。そして、この駅長はどうも変だ。迂闊にも地元を長く離れていて知らなかった。高級なセレブ生活をして育った俺は鉄道とはあまり縁がなく、遠いところにいくにも、すべて執事つきの自家用車で移動していた。この駅にはいったい何か、俺たち上流階級の人間さえもわからない得体のしれぬ権益があるのだろうか? 案外、油断ならないかもしれないぞ……。
そう考えるうちにも、駅長は夢中になって「K駅心得」と向き合っていた。あいにく、先の威嚇もさほど効果はなく、俺のことはすっかり忘れているようだった。俺は駅長が冊子をぱらぱらめくり終わるのをじっと待った。それにしても変だ。例えばこの分厚い本だが、よくみれば少し、異常だ。すべてのページに三色マーカーがぺたぺたと塗られているだけでなく、同じくすべてのページに付箋がぎっしりと貼られている。どうやらよほど猛勉強した大切なアイテムらしい。
ご立派なことだ。しかし、俺は同時にこうも思う。
――すべてのページに付箋を貼る、というようなけったいな真似をしていたら、どこが大切でどこが大切でないかが全くわからないでないか?……――
他にもおかしいところはまだまだある。冊子のすべての文字が異様にでかく、しかもそのすべての漢字にルビがふってあること。傍から見ても、本文に明らかな文章の語法上での誤りがあること。例えば、第五条と書くべきところに、題五条と書いてあったりすること。加えて、ところどころ、文字がまったくないページが認められること。いったい枚挙にきりがない。
この心得。確かに言えるのは間違いなく突っ込みどころ満載である。一風変わったこの駅長所有のものらしく一筋縄ではいかないらしい。
――駅長! お、ま、え、は、あ、ほ、か!――
と、触れてはならぬそのことに思い切って、俺が告げようとしたその時、駅長はようやく口をひらいた。
「ご乗車ありがとうございます。当駅はわたくし山喜田次郎駅長の管轄になっておりまーーすっ。また、当駅は百年有余年もの間、存続している由緒正しい駅でございます。その当駅のルールをすべて網羅してあるこのルールブックによれば、まず、K駅心得題一条。いかなる場合においても汽車料金未収の場合は改札を通さず。とまず書いてあるであります! ついで、K駅大三条。例え、いかなるお客様であろうと、いかなる団体であろうとも、切符をなくされた場合は、その場で現金で払っていただく。で、台七条。加えて当駅はいかなる国家権力。圧力団体。そのような組織とは独立すべきであると記しておりますでーっありまっすっ!。以上、これらの記載事項から鑑みて、このたびの事態はめ・い・は・く! いかなることがありましても、ルールはルールでーございますからっ。貴方様をお通しはできません!」
衝撃の結果がもたらされた。駅長は胸を張ってきっぱりと俺にそう告げた。その顔はさっきよりも自信に溢れていた。俺は彼の気圧に押されて、しょぼんとしょげ返る。
「おい、駅長。たのむよ。俺にしたって何も悪意があるわけじゃないんだよ。別にこの駅に圧力をかけようとするわけでもない。この駅を支配下におこうとするのでもない。この駅と戦おうとするのでもない。それは君の考えすぎというものだ。ただ俺はこの駅を通り過ぎたいだけだ。そして、そうするにはわずかに五円足りないだけなんだ。それだけじゃないか!たったの五円だけのことじゃないか! 駄目か? 少しぐらい気をきかせておくれよ。駅の前の花壇、新しくできるようにオヤジに言っといてやるからさぁ!」
こういうと駅長は少し考えこんだ。しかしそれもどうやら、そう見えた、というだけで、どうやら徹底した反権威主義者なのだろうか。しばらくすると、彼はムッとした顔で語気を強めて、こういった。
「いかなることがありましても。一時が万事。ルールはルールでございますからお通しできません。それに私どもは知らなかったならともかく。運賃が足らないという厳然たる事実をご確認したうえでお客様をお通しするわけには参りません。どうか、諦めてホームで寝るか。H駅まで戻ってご下車してくださいであります!」
「本当なのか……」
俺は誰に言うこともなくそう呟いた。
「本当でありますっ」
俺は奇妙な敗北感に包まれた。元衆議院議長早島正の跡取り息子であり、一流セレブ弁護士。次期政界に立候補する俺がはっきりと誰にもわかる体で圧力をかけたのに言い争いで負けるなんて……」
もう一度言った。
「本当なのか。本当に俺はこの改札を通れないのか……」
「この駅で乗降して頂く以上。この駅長。私がルールです。私がルールブックなのです。いくら買収しようとおもっても無駄です。恫喝するのもむだです。私がルールブックなのですから」
そう勝ち誇ったように駅長は俺に告げた。
時刻は午前一時二十分。もう帰ろうにも戻る電車はない。まさか、と思われる事態が現出していた。しかし、慢心していた。このままではあわよくば母を見舞うことなしに早朝Uターンして現住居に戻るということになりかねない。こんなことが現実に起こるなんて。常日頃から慎重になって、こんな変人と突然、出くわす可能性も留意すべきだったのだ。
思えば綱渡りの人生をいつも渡っている。ここの所、日常があまりに順調であったので、いつしかそのことを忘れてしまっていた。いけない。俺はいつだって心のどこかでスリルとサスペンスを愉しむようなところがある。この世の中をどこか舐めてかかっているところがある。
思えば、幼稚園でママ達の送り迎えがあった時には、門をくぐるのはいつだって一番最後だった。ぎりぎりまで午睡を貪っていたからだ。俺の場合は出迎えはママの代わりに執事だったが、随分と彼をやきもきさせたものだ。
高校になってからは出迎えなどいらぬと、親に楯突いた俺はクラスメートの皆と同じ自転車通学を選んだ。学校のルールでは八時半がゲートをくぐる門限であり、それは三年間ずっと変わらなかったのだが、俺はといえば到着まで十二・三分かかるところ、いつも家を出るのは決まって八時十八分ちょうど。八時十七分では早すぎるし、八時十九分では遅すぎる。出発の時刻に妙なこだわりがあった。だから毎日、判で押したように八時十八分に家を出て、競輪選手みたく力いっぱいペダルを漕いでは、八時半ぎりぎりに爽やかにゴールを決めていた。
このことはもう、通学していた三年間おきまりのことだったので、いつしか俺は、見張り担当の教諭たちから「八時半の男」と異名をつけられるようになったぐらいだ。
俺は返す返すも力説したい! 「ぎりぎり」というのには強い快楽がある。それがひどく不具合な事態と隣り合わせになっているだけに俺にとっては強い耽溺がそこにあるのである。
今回の件だってそうだ。俺がО駅でチェルシーを買わずに、ただ電車のなかでしばらくの間うとうとしていれば、このようなことにはならなかったはずだ。買うときにもしかして、運賃が足らないのでは? という厭な予感が確かにあったはずなのだ……。
――ああ俺はなんたる駄目人間なのか。ひどい失敗と隣り合わせというスリル。現にその不注意から俺は度々失敗するのだ! しかし、これに勝るものはもはや俺の日常には久しくない……――
そう内心で独り言をいっては俺は甘美な気持ちに浸りきる。
一流セレブ弁護士。順風満帆な人生。そして俺はやがてそのうち父の地盤を受けつぎ代議士となるだろう。こうした何不自由ない生活を満喫している俺は、今のこのトラブルのような些細な躓きにこそ興奮する!
どこにいくつもりで、どこへ連れられようとしているのか。
とはいっても、しかし、現実に事態が今回のようにのっぴきならぬものとわかった場合は、俺はその時になって初めて、心底から後悔し、いつも涙目になるのである。全くもって倒錯だし、時には矛盾している!
しかし、どうだろう? こうした両価的なそれぞれに矛盾した感情が同時期に併存することは、人なら誰にでもあるはずだ。こころは当の本人が感じているよりも複雑。いつだってふたつ。もしくはふたつ以上あるのだから……。
「本当なのか。五円たらない。それだけだ! それでも駄目なのか!」
俺は駅長の肩をつかみ、ここぞとばかりに悲劇の主人公になりきって懇願する。すると駅長は俺に待っていましたとばかりにこう告げる。
「御縁(五円)がなかったーということでっありまあぁーっす」
そういうと。駅長はニイッっと笑った。
――しまった。罠か。罠だったのか。彼をしてこんなくだらない駄洒落をしてやられるとは……いや、待てよ。それにしてはこいつ余裕がありすぎる。時よりこちらが思った以上の賢いことを口に漏らしたりする。
――もしかしてこいつ、本当は何もかもわかってやっているのではないか――
彼は確信犯か? との疑念がこの瞬間、俺の胸にさあっと沸いた。
――いや、違う。地域一帯に隠然たる勢力を持つ早島家を敵に廻すなんて確信犯であろうはずがない。そんなことをしても踏みつぶされるだけだからだ。やはり十中八九、天然だろう。しかし、それにしてもあたま、大丈夫か? 一体全体、なんて向こうみずで命知らずな奴なんだ! わかってないな! 駅長! この野郎!――
思わず内心独りごちた。街宣車に乗って、今の心情を奴に拡声器でがんがん聴かせてやりたいぐらいだった。当の駅長はといえば、俺の思惑などつゆ知らず、なんでもないといった顔で済まして、平然と俺と向き合い続けている。
――実に偏屈な駅員にあたってしまったものだ! この男は機転を利かせる、あるいは空気を読むというところが全くない。そういえば今日家を出る時、テレビで『思いがけない人に出逢う運命の一日でしょう』と星占いであったな。そんな奴、全く法廷にいないぞと少し気を抜いていたら、そいつがコイツか! まったく一日の終わりに油断していた! 少しは占いを信じるものだな! 今日のツキの悪さを呪うしかない――
俺はあまりの不甲斐なさに沈んでいると、駅長は悩んでいる俺をさも珍しそうな眼で、しばらくじいっとこちらを見つめている。温度がない。まるで昆虫の眼だ。確かに俺はオヤジの威を借りて、人知れぬところでたくさん悪さをしたが、こいつとて別の意味で人の心がないのだろう。
――切符をなくしたと素直に言えばよかった。そんなこと、俺にとってはよくあることだ。この駅にとっても、日常茶飯事だろう。事をもっと慎重に運べば、ちゃんとこうした事態も確認して改札まで来ていれば、そうなればこの駅長といえど、違う結果を生んでいたかもしれない。なのに俺はうっかりどちらも一方にも引けない事態に持ち込んでしまった。
駅長は俺が切符を出したのを見ている。いや、正しくは、見てしまった。そうなれば、日本一といっていいほど四角定規なこの彼の性格からして、もうごまかしはきかない。言い逃れはできない。あまりの失態に、全く頭がくらくらとしてくるなあ!……――
ふと、唐突にバスのことを思い出す。ある街でのバスのことを……。あれは確か二十歳の夏だった。
Т県でのとある森林伐採のボランティアに二週間参加した俺は、すべての行事が終了して自由解散になった後、とどまる仲間をよそにしてひとり市街地へと出た。俺とて宿舎でみんなとゲームをしたり、もっともっと遊びたかったが、俺はその時、なにより旨いものが食べたかったのだ。日頃、食べ物には不自由したことのない育ちであったためか、毎日八時間続いた無償労働。朝夕の飯盒炊飯に代表されるような簡素な食事。坊ちゃん育ちの俺には確かに効いた。二週間で七キロ痩せた。
山麓のふもとにあるТ駅から県庁所在地のある別のТ駅へと乗りついで、ようやく俺はその市で一番有名なレストランを案内してもらった。中華料理のフルコースを頼んだ。いくらかかるか値段を確認した記憶がなく、ただただ、がつがつと食べた。二時間後、ひとり満腹中枢が満たされると今度は本だ。この二週間、砂漠の真っ只中にいる軍隊のようなストイックな暮らしをしていたので、本を読む自由も時間もなかった。そこで俺は街で一番大きい本屋へと行き、帰りのことはあまり考えず今読みたい本を買うだけ買った。
こういう時、俺は後先考えずにすべて金を使ってしまう習癖がある。これは買う物品の対象は異なれど、何でもそうだ。昔からそうだ。だから残りの交通費にかかる金は帰るには微妙な金額だった。タクシーは無理だろう。しかし少なくともバスには乗れる。二週間におよぶ山林生活で研ぎ澄まされた俺の勘はそう告げていた。
大丈夫だ。なんとかなる。いつだって最悪死んだりはしない。不幸にも死ぬとしても、死んでしまっては自分ではわからないだろうし、所詮、人間は、幸か不幸か、一度しか死ねないのだ。死んだ後のことはこの際、あまり考えなくていい。なぜなら死んだ後の生はまずはないのだから。このように俺は考えた。根拠のない楽観主義の持ち主。それが俺だ。
そうこう考えるうちに俺はもとにいたТ駅に戻ってくる。あとはバスに乗って、山間(やまあい)の宿舎に戻るだけだ。駅に着き、改札を出るとすぐに財布を開いた。試されるこの瞬間がたまらない。さあ、どうだろうか。しかし、事態は吉と出なかった。しめて百三十円しか入っていない。
とたん俺の背中に冷汗がどっと流れた。金が足らない。バスに乗る金がない。しかし、にもかかわらず俺の体力は限界であたりはもう、夕闇が迫る時刻となっている。バスもこの日の宿舎方向へのバスは十分後出発のものを逃せばまったくない。そうなれば、朝来た山道を二時間以上歩いて帰らないといけない。手には先ほどの本屋で買った法律雑誌が二冊。浩瀚な法社会学の専門書が一冊。あとは何のことはない。これらが一番重たかったのだが、長い共同生活ですっかり性欲が溜まっているであろう若き男友達ー彼らのうち何人かは不幸にも林のなかで実際にマスターベーションしているのが、幾人かの若い女性に目撃されたーにむけて買ったエロ本が七冊! しめて計十冊の本をずっしりと両手に持っている。
よくよく考えれば、エロ本など山を降りたらいつでも買える。実は俺はただ、山籠りのボランティアで新しくできた男友達をからかい、悶えさせ、そして、ほんの少し愉しませたいだけだったのだ。そのようなつまらないことーそれも彼らもそんなことをされても実際のところ、おそらくさして喜ばないーへの全き衝動に身を任せてしまったところが本当にあほだ。またしても後先考えない行動に出てしまったことについては、今回の事態とほとんど同じである。そして、俺はまた、さらにここで目先の欲に囚われて売店のハイチュウについつい手を出してしまう。
――ハイチュウ。それはどうしても、今、欲しいものか?――
そそくさと買ってしまった後に、初めて俺はどうやら残金がもういくらもないことに気がついた。金がない。金がない。どうにもこうにも金がない。しかも、他にすべがない。いまさらかっこ悪いので、「やはりハイチュウいりません」と買った売店に返しにいくのも甚だ面倒くさい。こうして俺は事態の成り行きがはっきりとわかっていながらも、つかの間の困窮者となった。
大変だ。大変だ。宿舎に駅の公衆電話から連絡しようにも俺は電話番号をすっかりメモし忘れている。今日がボランティアの最終日だからとはいえ、今、帰らず荷物を残したまま失踪したら、皆、さぞかし心配するだろう。
「ええいっままよ!」
非常事態だ。俺は金がないとわかった上で、迷惑なことにそのまま、バスに乗り込んだ。
そしてバスは定刻通り、ほとんど客も乗せずに発車した。乗っているうちにすっかりあたり一帯の陽は落ちて、こんな暗い山道をひとりでとぼとぼと帰ることは到底、できなかったと俺は改めて思い至った。バスの運賃の件だが、買ってしまった以上、ハイチュウはもう食べる他はない。まさか、ハイチュウを運転手の目の前で出して、代わりにバスを降りることなどかなわないのだから。
ところでこのハイチュウはとても美味しい。俺はその時の味覚をまだはっきりと覚えている。パインヨーグルト味でそれはそれはとてもマイルドであった。お口に広がるその味はバスをただ乗りするだけの価値は十分にあった。
俺はすぐにそれを食べるというのではなく、舌先で吸ったり転がしたりして、充分にその存在を愉しんだ。愛でるうちにハイチュウの魅力にすっかり取り憑かれて、罪をおかしてしまったことを忘れてしまった。
そうするうちにバスはやがて信号のほぼない山道を三十分ほど経て、ついに宿舎近くのバス停に到着する。俺は振り向きざまに後部座席にいる乗客たちの姿をはたと見る。このときになって初めて、俺は金もないのにハイチュウを何気なく買って食べたことを後悔する。運転手にあらためて説明しないといけないからだ。
――そこにハイチュウがあったから――
では責任能力のある大人としてはおそらく通用しない。俺は間違いなく逮捕される。そうなれば、いくら早く出所できても単位ぎりぎりの俺は必ず留年し、留年するということは、またもや、親を泣かしてしまうだろう。この年になっても親を泣かすのはいい加減、二十歳になった男子のすることじゃない。
かといって、うまい言い訳が全く脳裏に浮かばない。俺は頭をしぼりに振りしぼったが、結局、何らいい釈明のアイデアは浮かばず、何の手立てなくバスを降りることとなった。その際結果としてーあくまで結果としてだー無賃乗車したことを運転手に白状した。できるだけ誠意をと、足りない金を宿舎まで戻って誰かに借りてくることを心を籠めて説明した。そうすると運転手は俺の釈明を最後まで聞かずに俺にこう告げた。
「いいよ。次に乗った時に今回のぶん払ってね」
バス運転手はあっけに取られるくらいあっさりと、そう告げた。俺はたちまち安堵した。出来心とはいえ、罪を犯したのだ。よほど難しい顔を俺はしていたのだろう。人情を感じた。愁眉を開くとはまさにこのことだろうか。俺はすっかり寛いで、あたり一帯の光景が明るくなった。
「ありがとうございますっ」
と身体を反るようにして挨拶して降りようとすると、運転手は俺に向かって、さらりと優しく左手で会釈してくれた。
人情とはいいものだ……。初めての山のボランティア活動にあまり打ち解けなかった俺はその運転手の厚情が心底嬉しかった。彼がどんな人でどんな表情をしていたかは残念ながらもう覚えていない。礼もほどほどにして、飛び上がらんばかりにバスのステップを駆け下りたことだけは憶えている。それからドアが閉まり、バスが轟音をあげて俺から遠ざかってからしばらく、俺は嬉しさのあまり、運転手に大きく手を振った。彼は「ぷっぷっぷーっ」とクラクションを鋭く三度叩いて、遠く去っていった。
ゆえにここに銘記する。どうにもこうにも困っていたあの時の俺を乗せ、宿舎近くまで届けてくれたТ県Т交通バス。忘れない。
それから幾年月が経った。俺はすっかり大人の男となり、やがて弁護士になった。金回りはといえば、学生の頃と異なり、随分とよくなった。それに本当に金がない時は、父にいえば大抵のことはなんとかなったのだ……。
「すまなかった。すまん。だからこうして頭をさげる。お願いだ、通してくれ!」
「ルールはルールでありますっ!」
「何もキセルをしようというんじゃないじゃないか? こっちは自分の非を認めてるじゃないか。通してくれよ。何が悪い。」
「ル―ルはルールでありますっ!」
最初の寸止めにあってから、もう一時間は過ぎた。それからも俺は開き直ったり、恫喝してみせたが、この駅長には全く通じない。
――ルールはルールであります…か。最強のトートロジー(=言語学における同義語反復)だな。改めてそう、強弁されてみればこれには敵いようがない…――。
どうやらこの駅長。高圧的にでてもまったく効果はないらしい。いい加減疲れてきた。そこで俺はここで彼を調略するやり方を変えてみることにした。昔、俳優の豊川悦司が「青い鳥」という名作ドラマで親しみのもてるいい駅長をやっていたが、彼は全くそうではないらしい。少なくとも血が通っているようには全く思えない。
どうやらこの駅長は紛れもなく本物の駅長のようだ。ならば別のやり方がある。別の遇し方がある。通れぬなら通ってみせよう駅長君。こうなれば意地でもこの改札を突破してみせる。
――第二の方法(走り高跳び強行突破)――
しばらくにらみ合いが続いた。
「規則は規則ですので……」
駅長は俺が彼の言葉を待ち、しばらく喋っていない時も相変わらず、そのようなことをぶつぶつ呟いている。
見た感じの印象。声色。言っていることの中身……。俺の職種である法曹業界にはあまり見ないタイプのようだ。どうコミュニケーションを取っていいか、いまいち俺にはわからない。思うにはこの男はプライベートでは付き合えばとてもいい奴で、正義感も弁護士となった俺などより、よほど強いのではないか。純粋で悪いものは悪いときっちりと言う。一方で困っているものに対しては庇い、助けなければならないと社会に対して示す。
これらのことはもちろん良いことだ。
しかし、同時にまた、この男は傾向としてルール。とりわけ社会の表向きのルールを遵守しすぎるきらいがあると俺は想像している。ルールというものは案外、恣意的だ。あるようでない時もあるし、法とは時にはジャイアンみたく力を一方的に持った者が勝手に変更したりもするものである。あるいはもっと悪くてスマートな奴らとなると、ルールそのものの存在を認めて、その範囲内で悪いことをしたりする。
いずれにしてもルールにはルールであるだけの理由がその時々に一応あり、もっとはっきり言ってしまえば、ルールとは所詮解釈そのものでもあるものなのだが、この駅長は、ルールに設けられたそれぞれの意図などには注目せず、ただ盲目的にルールそのものを遵守しているのだ。車一台通らない田舎の真夜中の交差点で、ひたすら青信号になるまでその場で立ちつくしている歩行者のように。
法の良き遵法者たるこの男はおそらくルールがなんのためにあるのかという問いを自身のうちでなすということは決してない。彼らのような人たちにとっては、一度、できたルールはルールとして、彼らを永遠に縛るものであり、当のそれを設けた者たちの思惑を越えて自律し始め、ついにはそれを疑うことのない彼らを一方的に縛るのだ。
あまりにも純粋な駅長君……。彼らに似た人物を歴史上にわかりやすく求めれば、「法によって出世し、法によって死んだ」中国の法家の商鞅(紀元前三百九十年〜紀元前三百三十八年)などがまさしくそうだったといえるかもしれない。
何にしても融通が効かず、堅苦しく、物事の表面しか勘案していないと思われるのがこの両者の特徴である。もちろん、このふたりは元はと言えば、良き善良な市民なのだろうが、行き過ぎるとそれはそれで害悪なのだ。例えば煙草の吸い過ぎはよくない、と一義的に取り締まる保健所の所長のように。
――この駅長がまさしくそうなのではないか?……――
だとしたら、簡単だ。彼が本物の使命感を持った駅長であるからにはもうこれ以上話しても無駄なのだ。大元の、鉄道会社が予め定めたルールそのものが変わらないことには。
俺は相変わらず、超然としている駅長にしびれを切らして、改札のドアを静かに見つめる。
――越えられる――
話しても容易に通じない相手であることはもうわかったので、俺は思い切って、改札を飛び越えてやろうと思った。こうなれば強行突破だ。時刻は二時を過ぎている。駅周辺には人ひとりいなく犬や猫の気配すらしない。
先ほどまで駅前の噴水広場でたむろしていた若者たちは、もう、皆、家へと帰ってしまったようだ。物音といえば、ときおり、「ぷおーん。ぷおーん」と、自動改札機から無機質な電子音が聴こえてくるぐらいで、あとは、駅長室の薪ストーブの薪がメラメラときしむばかりである。
――よし、越えてやろう。越えてやる。言ってもわからないなら力づくだ。後のことはなんとかなる。なんとしても今日は実家にまで辿りついてみせるぞ。明日の朝、病状重い母に、顔を見せて安心させるのだ。泣き寝入りはしない。万が一訴えられても、俺は弁護士だ。その時は我が庭である法廷で俺自らが被告の弁護人となり、彼を打ち負かしてやろうではないか――
駅長に感化され、少し異常な状態の頭でそう思い至った俺は、改札口から少し一歩二歩と後ずさって、駅長と距離を置いた。駅長は何をするのかとじっと俺を見据えている。その眼は好奇心でらんらんと輝いており、俺の身体から片時も目を離さない。一方的に注視された俺からは彼はかなり意地悪な試験監督に見える。
――果たして越えられるだろうか……これじゃまるで男子走り高跳びだ。高跳びなんて中学以来二十五年ぶりだ。監視カメラはあるか。ないな。いや、それ以前にこんな荷物持ったままだと到底、改札をまたぐのは無理だぞ……――
そうこうして迷っているうちに、駅長は俺のすることを察したとでもいうのであろうか、ニヤッと笑った。実に不快な笑いだった。
この野郎! と瞬間、頭にきた俺は、ステップをその場で二、三歩踏んでは一か八か改札を越えてやろうといよいよ、駆け出し始めようとした。
と、その時だ。
駅長は自動改札機の上にある目立たぬ小さなボタンを押した。ウィーンという音がして、改札機そのものが高く上昇し始めた。あたりの床ごとあわせて気づくと腰のあたりまで、いきなり伸びて高くなった。こんなこと。一体可能なのだろうか? いったい何のためにそんなことをするのだろうか?
「当駅の自動改札機は難攻不落な要塞! 防犯。キセル防止も兼ねておりまーすっ。全くの改造機でありますっ」
駅長はさも自慢げにそう紹介した。
「そんな馬鹿な」
車を改造する奴ならいくらでもいるだろうが、自動改札機を改造するであろう駅長など聞いたことがない。いったいいくら費用を投じたのだろうか?
「私は決して馬鹿ではないのでありまーすっ。この自動改札機は当駅独自のもので総額約六千万円投入したでありまーすっ。おかげで不正乗車は随分と減りましたでありまーっす。今、床上八十㎝の高さに設定し終えましたでありますっ。これで貴方様は飛び越えることができないのでありますっ。さあっ。やるならどうぞっでありますっ」
「駅長! 貴様あたま大丈夫か?費用はどう工面したんだ。六千万円ってたいしたものじゃないか!丸々赤字なんじゃないのか?」
「平気なのでありまーすっ。工事で足りない分はそのまま〇×鉄道の運賃に転嫁されておりますのであります!」
そういうと駅長は口を結んだ。自分のしたことに全く疑問をもってないようだ。俺はすごぶる腹が立った。
「駅長! 貴様がなあ。このへんちくりんな改札機を設けなかったら、運賃が改定されることもなく、俺は足りないはずの五円も払うことはなく、今日、通れたかもしれないじゃないか。この駅はいったいどうなってるんだ!」
「間違ったことはしてないでありまーすっ」
「もういい! 駅長! 貴様と話していても埒があかない。いつまでも平行線だ。よし飛んでやるっ。飛べば勝ちだな。通ることを認めてくれるな! おまえんとこの改札は改造機でろくなものじゃないんだ。飛んだらすべてよしだ! こうみえてもな。俺は今でこそ少し太っているが、昔はどうして陸上部だったんだ。元K市中学生男子の部走り高跳び三位の俺の実力舐めるなよ!」
そういって、俺は駅長に向かって鞄を放り投げた。
「うわっ」
駅長は驚いて抱きかかえる。俺はそのまま五メートルほど下がり助走距離を少しとって改札を乗り越えようと駆けだす!
ウィーンウィーンウィーンウィーン。
厭な予感がしたが遅かった。駆けだした手前、もう止まれなかった。
駅長は俺が越えられると察知したのか、急遽、例のボタンをまた押して、改札板の高さをさらに四十センチほど高くした。小学四年生ぐらいの身長は優に超えただろうか。どうあっても越えられぬ壁が目の前にいきなり現出した。俺は勢い余ってそのまま前を塞ぐそれに激突した。どすんと柄にもなく大きな尻餅をついた。
「いてっっ! いでえっっ! いでーーっ」
「大丈夫でありますか!」
「いでーーっ いでーーよーっ!」
「大丈夫でありますか!」
「大丈夫も何も……うっ。高さ変えたの駅長おまえだろ!」
「はいでありますっ!」
「はいじゃないだろ!」
「はいでありますっ!」
「もういいっ。何そこでつっ立ってるんだ! 助けろ! 俺を抱きかかえろ」
「……」
「ほおらっ。助けろ!」
駅長はその時、改札を再び平常の高さに戻して、そのなかにと入り俺を抱きかかえた。しかし決して俺を改札の外には連れ出さなかった。
「畜生、ちゃっかりしてやがる!」
その時だった! こんな夜更けの時間にプルルルルッとスマートフォンが鳴った。俺は駅構内でへたりこんでいたので慌てて、床に投げ出されたままの携帯を駅長に取ってもらう。厭な予感がしたが、ディスプレイを観るとやはり妻の薫子(かおるこ)からだった。すでに五回着信音が鳴ってしまっている。俺たち夫婦のルールではあり得ないことだ。俺は迷わずにすぐに取る。
「――はい」
俺は恐る恐る薫子の言葉を待った。
「あなた、何しているのォ! どこほっつき歩いているわけー? またどこぞの泥棒子猫と浮気してるんじゃないでしょうね! まだ実家についたとの連絡がないから、私、やきもきしてたら、息子はまだ帰ってないと、この深夜に先ほどお義母(かあ)様からメールでご連絡があったわぁ! あさってからお義父(とう)様。最後の選挙でしょう。しばらく手伝うんでしょう! どこで油売ってるのよ!」
「薫子……。話せば長くなる……」
「長くなるとはどういうわけ!道広!ひと言でいいなさい!」
「越えられない壁を越えようとしているんだ。しかし、やはり越えられないでいる!」
「あなたっ。近頃夜遊びの言い訳が、だんだん支離滅裂になってきたわね! 遊ぶなら遊ぶなりにもっといい言い訳は用意できなかったの! 妻である私に対して誠意がないわ!」
「違うんだ。本当なんだ。待て! 話せばわかる!」
その時だった。
駅長が「ぷっ」と笑った。それまで無表情を保って様子を伺っていた駅長が「ぷぷぷっっ」と笑った。
違うんだ。これは違うんだ。スマートフォンを相変わらず耳に押し当てながら、駅長に向かって慌ててかぶりを振ったが、すでに遅かった。
笑った。駅長が笑った。
「ぶわあっはっはっはっはあぁ!」と彼は笑った。俺を明らかに嘲笑していた。
俺は何だかかなり惨めになった。エリートであるはずの自分のこの弱み。家庭の事情というアキレス腱を今、見知らぬ他人に決定的に晒してしまった。最重要機密だったのに……。 新聞記者はいないか? 報道記者はいないだろうか? 俺は今、人生で例えようのない醜態を晒している。締まりにならない。これは近い将来、選挙に打って出たときに致命傷となる。
一通り慌てふためいた後に俺は、この場にいるのが俺と駅長しかいないことを再度、認識した。よかった。こいつは大丈夫だ。こんなつまらないことで俺をゆするような奴ではない。それはいい。それはいいのだが、なぜ彼は笑ったのだろうか? それが気になる。彼に家族はいるのだろうか? やはり独り身だろうか?
というのも、もし駅長が、逆に既婚者で家庭の事情とやらを半ば理解したというのなら、たまらないなと思ったからだ。こんな時に駅長に、「今のことマスコミに売らないでくれ」と助けを願うなんてありえない。あってたまるか。
ある意味、浮気した現場を押さえられ、報道されるよりも、情けない状況である。だからといってこんな状況、妻に口頭で説明しようものなら、彼女からますます馬鹿にされ、俺は家庭に戻りづらくなる。
その時、はっと七人の愛娘たちの顔が浮かんだ。上から順番に徳子。麗子。御子(みこ)。冨(ふ)和(わ)子(こ)。空子。裸々子。志(し)津(つ)子(こ)。妻がずっとつれない以上、愛しいのは娘たちだけ。俺の心の空漠を埋めることのできるのは彼女たちしかいない。
しかし、昨今はその楽園も危機に瀕していた。まず長女の徳子の俺を見る目つきが明らかに変わった。それもそのはず彼女はついに中学生となったのだ。近頃、赤飯も焚いた。俺だけは食べさせてもらえなかった。それだけならまだしも、浴室から応接間までこれみよがしに、おちいんちんぷらぷら、ぶらつく楽しみも、妻の勧告で残念ながら今年夏限りとなった。初潮を迎えた徳子の手前、局所にはタオルを巻くように妻から言い渡されたのだ。恥ずかしいことでは決してないのに……。
徳子はついに娘となった。前からそういう兆しはあったが、彼女はこのところすっかり大人びてきている。気のせいだろうか。彼女に疎まれ始めた気がする。俺よりも妻の方にすっかりなついている。部屋は俺の知らないアイドルのポスター。寝具。筆記用具で埋め尽くされ、俺が写っている家族写真はといえば、パタンとすべて伏せられ、写真のなかの俺は息もできないかのようだ。
真夜中の死闘。ここは堪えどころだ。誰にも頼らずこの窮地を切り抜けるのだ。それが妻、薫子が夫である俺に何より求めていることであり、そうでなくては俺は妻に再び、愛され、尊敬されることが叶わなくなる。ここで妻の機嫌を損ねては、俺はもう、俺だけの“大奥”への立ち入りはより困難となる。何より我が愛娘。すっかり醒めきってしまった関係の徳子ー彼女は妻の若い頃に似て美少女だーの嘲笑をこれ以上受けたくない。
「薫子……何でもない。もうじきおふくろのもとに戻る。愛しているよ……。愛してるのは君だけだ……おやすみなさい……」
そうお決まりの言葉を言っては、俺は半ば一方的に電話を切ろうとする。
「もうっ」
受話器の向こうからは薫子の呪詛の声が相変わらず聞こえていた。何かあらぬ妄想を逞しくしているようで、この深夜、まるでリンナイのガス瞬間湯沸器となって最後まで俺を怒鳴り続ける。
――事実なのに――
――もう俺はこのままどこにもいかず、一生、このK駅で世捨て人としてのみ、生きようか……――
そう、しばらく叶いもしない夢想に浸っていたが、それはやはり自己満足である。「こんなに苦労したんだ。俺はやはり、実家に戻らなければならない」とふと我に戻る。
現実には顔をあげてすぐに駅長を観ると、彼はまたもや「ぶわあっはっは」と笑っていた。妻との電話を境に、明らかに違う人格が彼に宿ったみたいだった。
俺は彼のよそいきではない。すっかりリラックスした様子をみて、恥ずかしさのあまり顔がかあっと火照った。娘たちのことなんてなんのその、こんなことなら、後先考えずに、薫子を問答無用に怒鳴りつけてやるべきだった。こんな屈辱。ちょっとない……。
その時だった。駅長の表情が瞬く間に変わった。
――あっ いけないっ――
とでも彼はようやく思ったのだろうか。すぐにたちまち真顔になった。敬礼を一度大げさにして、元の立ち位置である改札口横のポジションに正しく戻った。
口は真一文字に結び、眼は何もない壁を凝視し、先までの彫像。つまりは再びモアイ像のような面持ちに戻った。この間。二十分経過。駅改札を通る、通さないの闘いは再びもとの零地点へと戻る。
――第三の方法(泣き落とし。あるいは情感に訴える)――
「見ていたな……」
「何も観ていないでーありますっっ」
「仕方ない」
俺は悔しさのあまり唇を噛んだ。格好つけても仕方がない。もう、すべてなりふり構わないことにする。
「無様だ。観てのとおりだよ……」
「そんなことはないと思われまーすっっ」
優しかった。それともこれが駅長本来の性格なのだろうか。しかし、その優しさが逆に今の俺には何よりも堪える。さらなるダメージとなる。駅長はなんだかますますパワーアップしたように俺には思われた。相変わらずこちらの神経を逆撫でし続ける。この期に及んではもはやエリートも何もへったくれもなかった。言い争いを始めてから二時間半が経とうとしていた。ストックホルム症候群に似た感覚と言えようか。俺もこの状況に不思議と慣れてきた。腹も立たなくなってきた。
実家に帰り、お気に入りのカスタムロイヤルベッドでゆっくりと眠りたかったが、そんなことはもうどうでもいい。さきほどの妻の連絡によると母は思ったよりも大丈夫そうだ。焦っても仕方がない。今は、目の前のこの駅長を説き伏せるだけだ。彼はといえば、ずっと俺が口を開くのを待っていてくれる。
「君、子どもはいるか?」
「いるであります」
「今、いくつだ?」
「上の子が前夫の連れ子で十三歳。男の子。下の子が少し離れて七歳であります」
「下の子は実子なのか?」
「はいでありますっ」
「よしっ。ならば今から大切なことを聴くぞ。子どもというのは、その……つまりは娘なのか?」
「その通り、娘でありますっ」
言うと駅長は少し眼を輝かせた。俺はその表情を逃さなかった。呼吸を深く吸い込み、思いっきり彼の前で嘆息した。いや、そうしてみせた。
「駅長! 君には娘がいたか。よかったなあ、娘がいたか」
「はいでありますっ」
「そうか。ん? では君は独り者じゃないんだな。家族がいるか。そうか君にも護るべき女たちがいるのか。ならばこそ今ここで問う! 君は妻を愛してないのか? 娘を愛してないのか?」
「もちろん愛しておりますでありますっ!」
駅長の顔はこころなしか少し、緩んだ。
「そうだろう! 僕には君が家庭を何より愛する男に見える。そうか。娘は七歳か。今が可愛い盛りだ。愛しいだろう。娘は可愛くないか?」
「『目にいれても可愛い』とはまさにこのことであります!」
「そうだろう! そうだろうよ! ところが君! 君は大切なことがわかってない。それは人生の智恵とでもいうべきものだ。赤の他人の君になんだが、ちょっと少しばかり人生の先輩として少し忠告しよう」
「なんでありまするか!」
「『人生の大切なルールは幼稚園の砂場で学んだ』。なっ。聞いたことはないか? 君も学ばなかったか?」
「学びましたでーありますっ!」
「そこでこんなことを教わらなかったか。親子関係は学童期に決まる。その時期に大切にしなかった子供は永遠に親に懐かないと」
「知らなかったでーありますっ。一人娘は七歳。一緒にいれば、何をしても、パパ。パパっとアヒルの子のようについてくるばかりで」
駅長は少し照れている。俺の手前、悪いとでも思っているらしい。
「だろう? しかし今だけだよ。やがて娘は成長する。悲しいことにな。全く俺みたいな不出来な男には娘たちの成長が恨めしい。やがて皆、俺から卒業していくのだから」
「そんなことないでありますっ。私の娘は、私に似て永遠に留年するはずでありまーすっ」
駅長は何ともないという感じでそう胸を張った。そうだったな、こいつはさっきから思考の認知がおかしい。こいつはレアケースだった……」
「駅長! いいかよぉーく聴け! お前のところはどうだかはしらない。だがな、ごく一般的なことを言えば、どこの家庭でも、娘はな。初めは『お父さんくちゃい』などかすかな兆候から始まって、俺の歳になってみろ! ついにはやがてすることされること、すべて無視するようになる。完璧にな。あと二年もすれば俺は坂から転げ落ちるように初老。娘たちは花も羨む中学生。次々に人生の黄金期を迎えることになる。『今が大切な時』なんだよ。これからも家族が家族であるためにはな。そして、俺が畏れている『時』。その『時』は。その『時』は……」
俺は少し感極まって口ごもった。
「その『時』とは?」
駅長も思わず、質問が口からついて出る。俺の迫力におされたのか。不思議そうに眼を丸くして俺を観ている。
「その『時』は……残念ながら必ずやってくる」
「ぐえええっ」
と駅長が怪鳥のような鋭い叫び声をあげる。そして、おそるおそるといったようにして俺に聴く。
「娘が父を厭がる日がやってくるのでありますか?」
「そうだ。よくわかったな! 駅長。だがそれは半分正しくて、半分間違っている。言葉の定義からして正確には、父を厭がる日、ではなくて、父を棄てる日(The day daughters leave their fathers)だ。
「えええええええっ!!」
と駅長は再び大きな奇声をあげた。
「なんだ。うわっ」
「はいであります!」
「おい、びっくりするじゃないか! 鼓膜が破れるじゃないか!」
ずっと平行線だった会話も何のその、俺たちはようやく話の共通項を見出した。男親達が心打ち解ける永遠の話題について熱く語り出した。
「わかりました。しかし、それは果たして本当なのでありますか? にわかに信じられないであります。ところで話は変わりますが、貴方様は実の娘の件。父を棄てる、とおっしゃいますが、それはあと、何年経てばやってくるのでありますか? 本当にそのようなことがありうるのでありますか?この駅長、甚だ疑問でありますっ」
「そうだな……」
俺は、思わず少しふっと笑った。
「今年は西暦何年だ。ちょっと疲れてしまって忘れてしまった。今日は何日だ?」
駅長はすぐさま振り返ってカレンダーをみた。
「ううーっ二千十四年。いや、正確には二千十四年十二月二十日でありますっっ!」
「そうか……ありがとう」
「お安い御用であります!」
見ると駅長は明らかに狼狽していた。俺を嘲り、時には同情して見せた先ほどの様子とは全く異なっている。変なかたちだが、彼は彼なりに娘を愛しているのに違いない。
――哀れだ。この男も父であるからには哀れなのだ……――
この先、娘との関係がどうなるともあらまし予想がつかぬとは……。俺には今の彼がまるで十字架を背負い、ゴルゴダの丘をのぼるキリストに重なって見えた。滑稽な受難者。滑稽なイエス・キリスト。しかし、それはこの俺、いや、人種を越えて地球上の全父親の姿でもある。皆、わかっていて、ーこの駅長は必ずしもそうではないがー望んで磔にされるのだ。そうであっても娘を全力で愛するのだ。決して彼を笑うことはできない。
何だかふたりの間に、この時、初めて奇妙な何かが通いあった気がする。同じ父という立場がそうさせたのかもしれない。俺は改めて彼に親身になってやることにする。
「二千二十四年。その時、君の娘は十七歳なんだな……。いや! 失礼。訂正する。君の家庭のことだ。娘さんもしっかり育っていることだろう。早ければ二千二十年にでも、娘はもういない。」
「いないのですか!」
「いないんだ。残念ながら断言する。君は東京オリンピックの開会式を娘と観ることはおそらくできない」
「できないのですか!」
駅長はぴょこんとその場で跳ねた。俺もびっくりして、いっしょに跳ねた。
「そのころはそうだな。外国だよ。君の妻は君との結婚を後悔している。よくは知らないが、きっぱり断定する。それはもう間違いがない。君のその鉄道しか愛さないといったような偏執的なこだわり。家をちっとも顧みないむちゃくちゃな働きぶり。俺は弁護士で民事もたくさん経験してきたからだいたいわかる。察するに、君の家は早暁、家庭崩壊。娘がひとしきり大きくなったところで妻と離婚。娘は?そうだな。それでも君の娘だから思春期以降はそれなりにひとりでしっかりした子に育つだろう。比較的物価地価の安いニュージーランドにホームスティ。まずは短期留学。そして、長期留学。いつの間にやら、向こうでステディな白人の彼氏ができて、それからは仕送りを断るようになり、スカイプも通じなくなる。向こうで金を自力で貯めては戻ってこない」
「戻ってこないのですか!」
駅長はふたたびぴょこんと、はねた。俺ももう一度びっくりしてぴょこんとはねた。
「断言する。娘は帰ってこない。だからやめろ。そのぴょこんとはねるのは」
「す、す、すみませんであります。でも、娘が海外に出るのはえへへ冗談ですよ……ね」
「娘は出る。パパに代わる新しい男をそこで見つける。二度と金輪際戻ってこない。だから開けろ」
「ふぎゃあああーっ」
「だから腹を決めろ。潔く」
「ど。ど、どうすれば……娘は確かにわ、わ、私なしには生きていけないはずなのに」
「全くの逆だ。実は貴様が娘なしには生きていけないんだよ」
「そ、そ、そうでありますかー。もう、何が何だかさっぱり……」
「だから開けるんだ。開けてどこかの店で君の家庭の今後について、家族会議しよう。心配するな! 今日から俺が君の家族になる。さしあたっては義兄だ。この改札を、今、くぐろうものなら、すぐにでも義兄弟の契りを結ぼう。そのこともあわせてこれから検討しよう! なぁ駅長。お前、兄は欲しくないか。お前のことを何でも理解し、包み込んでくれる兄を!」
「なんだかわからないであります。しかし、何でも相談でき、話ができる賢い兄を欲しいかといえば、ほしい……」
「貴様ぁーっはそれだけ個性的なんだ。生きづらいだろうな。貴様さては一人っ子だろう!」
「確かに一人っ子でありまーすっ。兄も欲しいでありまーすっ」
「よし言っていいぞ。言っていい。俺のことを、お兄ちゃんと言っていい。甘えてみろ」
「おにい……」
「何だ!」
「……」
「どうした?思い切って言ってみろ!」
「おにい……おにいつわぁん!」
そういうと、駅長はとたん、顔を赤らめた。
照れている……。ふっ、面白くも感動的だ。この駅長にも恥の感情があったようだった。まだ人間らしい気持ちがある。
彼はどうやら俺のことを「お兄ちゃん」とは恥ずかしくて呼べなかったようだ。しかし、本心では、「お兄ちゃん」と呼びたい。その迷いがおそらく『おにいつわぁん』との呼称になった。止めたバットにボールが当たって、最悪セカンドゴロゲッツーになる現役時代のあの名選手のように。とっさに俺はそう感じた。
「よく言った。よく言ったなあ。弟よ! お前が兄と言ったからには、俺もお前のことを弟と呼ぶことにする。そうともこれからの俺は兄。いや、『おにいつわぁん』だ。これで俺たちは義兄弟だな。弁護士の俺が言うのもなんだが、法だのなんだの面倒なことは後からだ。これで貴様と俺はすでに兄弟だ。」
「はいでありますっ」
そういうと、駅長はなんだかとても嬉しいといった顔で、俺をまっすぐに見つめた。俺も駅長の肩を軽く抱擁した。
「よしわかっているな。弟よ。では兄弟の契りとして、まず最初にこの改札を通してもらおうか。俺と貴様はすでに兄弟だ。先までの客と駅長の関係ではない。兄貴と弟の関係だ。兄の言うことは弟にとって、絶対だな。そのかわり、弟の言うことも兄は決して無視はできない。貴様のことは極力、身内として庇護するつもりだ」
「……」
「どうした? 黙っているが、俺は兄ではないのか! そして、貴様は弟ではないのか!」
「はいであります。あなたは確かに兄であり、私は確かに弟でありますっ」
「そうだろう。ならば通せ。通してさっそくどこかのバーで乾杯しよう。ツケがきく店で祝杯をあげよう。従業員が寝ているものなら叩き起こす! それでも起きないなら、遠慮はいらん。俺の実家に招待する。飲もう。今夜は寝るには遅すぎる。もうすぐ朝がやってくる。俺たちの朝だ! そうして、朝が白む頃まで一緒に痛飲しよう! 緊張することはない。貴様は『はいであります』だけ言っておればそれで万事、大丈夫だ。俺はそんなお前が大好きなのだからな! いずれにしても、今日、契りを正式に結ぼう。なぜなら今から俺と貴様は兄弟だからだ!」
「はいでありますっ。しかし……」
「しかし……なんだ?」
「やはり、できません! できないのでーありますっ。不足運賃を頂いていないのに改札を開けることはできないのでーありますっ。例え兄とてそれはできません。そんなことをすれば、K駅はつぶれてしまうでしょう。鉄道の神がそれを許さないのでありますっ。わかっていて、不正を見逃すことはできないのでーありますっ。いくら兄でも、いや、例え、義理の親が死ぬと脅されても、K駅のルールはルールだからでありまーすっ」
――これだけ言っても駄目か。この原理原則野郎!――
かなり頑張った方だが、このやり方でも、無理だったようだ。
そう思われて俺は疲れがどっと出た。
そうはいっても奴もまた同様だった。駅長は先ほどから俺の少し意表をついた法廷術に不意をつかれて、気がつけば全身がひきつるように痙攣していた。焦りで顔が蒼白になっていた。あまりにてんぱっていて、俺に対して気おくれする様子がありありと見えた。
こうなっては、俺も駅長のことが少し可哀想になってきた。幼げで、可愛く、この駅から追い出されては何ひとつできぬであろう弟よ……K駅とは、お前の幼き日の残影。永遠に成長しないお前の哺乳瓶なのかもしれない。これはもう、改札を出る出られないだけの話ではなくなってきた。不憫な男だ! こうなればやけだ! 駅長の相手を親身にしてやろうではないか……。
――第四の方法(音楽)――
夜は完全に更けた。あと三十分もすれば陽は昇る。それからふたりでまだまだ話した。
息子は成長してただむさいだけのこと。娘はただ可愛いだけのこと。妻はただただ相変わらず恐ろしいだけのこと。いくつかは同意し、いくつかは合意が保留された。駅長の変なーといっていいー「であります」口調はそのままだったが、話は思いもがけず弾んでいる……。
どうやらこの駅長。本来の彼の業務をすっかりと忘れているようだ。
時刻は五時を過ぎている。ふと気がついて周囲を見渡せば他の駅員の人影が全くしない。冬の北風がそっとふたりを包み込む。こんなところに長く立ちっぱなしでいたら、風邪をひいてしまう。他の駅員はこの駅長を残して、そそくさと帰ってしまったのだろう。俺もすっかり忘れるところだったが、実家に帰らなければなるまい。でないと、何の為にこの男とふたり、時間を潰したのかがわからない。
「駅長!」
「はいであります!」
「話が盛り上がってるところなんなのだが、君はその……まだ家に帰らなくてもいいのか」
「お気遣いありがとうございますでーありますっ! しかし私のことでいえば、案件が終わらぬうちには本日の業務は終了しないのであります……」
「案件とは何だ」
「貴方様にございまーすっ」
やれやれ、俺は溜息をついた。こいつも帰りたいというのでは同じなのか……。
「だったら、他の、誰か若い職員にまかせて、駅長はとりあえず家に帰るとか、帰って娘の寝顔を見るとかは」
「K駅の駅長は私でーっありまーすっ。駅長は当駅の最高責任者ゆえ当駅の全責任を負っているのでありまーすっ。誰の指図も受けないでーありますっ」
夜と朝が交代する時間。どうやら彼は再び元気を取り戻したようだ。
「駅長!貴様っ。さっきから俺の話聴いてなかったのか!貴様もいい加減にしないと、私見によるが2014年、アメリカ映画の最高傑作「インターステラー」の父娘ことクーパーとマーフみたいに、娘を愛していても、なかなか修復不能な関係になるぞ。それでもいいのか!」
「映画は今の私たちには関係ないでーっありますっ。わたくしは、娘の父である前に、K駅の最高権力者。駅長であります。本件の問題は、あくまで私(わたくし)、駅長とあなたの問題になっているでーありますっ」
「馬鹿!」
「ひえええっ」
俺は躊躇うことなく、火のような激しい怒りを彼に見せた。駅長は俺のあまりの大声に、頭を深くかがみ込んだ。
最高権力者か……聞いて呆れる。その座につく者がこんなに愚かだとは! まるで鉄道版族長の秋ではないか? こんな上司だと駅員は堪らないだろう。
まったくこの男の頭の回路はどうかしている。先まで、娘たちの話をしたのはなんだったのか。駅長とて同じ人間である以上、人情からして普通ならば早く家に帰りたいと思うところだが、他の駅員に邪魔されずに業務がしやすいとでもいうのだろうか? 見たところによると、この駅長は、かえって喜んでいるふしすらある。こんなはた迷惑な乗客にいらいらするといった様子が彼には微塵も見られないのだ。まったくあほも極めれば賢いというか。崇高ですらある。このK駅の駅長には誰も意見できなくなっているのかもしれない。駅員だけでなく〇×鉄道の幹部ですらも……。改造改札機の件はいったいどうしたのだろう?どうして鉄道上層部は申請を許可したのだろう。わからない……。
その一方で、わかっていることもある。それはこの男がやはり「鉄道員(ぽつぽや)」だと言うことだ。ふつう、「ぽっぽや」となると、つい最近亡くなった高倉健の映画でのイメージのように、なにか「美しい人」として偶像化されて受けとめられるのだが、俺の場合はどうだ!実際にこんな「美しい人」に遭遇したら、堪らないぞ!
まったく公私混同とはこのことだ。それとも駅長はひょっとしたら、人間ではなく、駅の精か何かなのだろうか。
こんなこと。もしかしてよくあるのだろうか。それともこの駅長は、駅員たち皆から見放されていて、少しおかしくなっているのか。
それはわからない。わからないが俺はなんだか少し哀しくなった。
――どうしても家に帰ることができない。改札をくぐることができない……――
――もうすっかり朝だ。あと三十分ほどで始発列車がくる頃だ。ここは実に悔しいがもう一切合切、諦めて、母の顔を見ずに帰ろうか……――
疲れがいい加減溜まってきた。眠気も限界になってきた。駅長の様子を改めて観察すると、駅長は少し冷静さを取り戻したのか、石ころのように我、関せずといったクールな表情をしている。彼本来の面持ちで、どことなく人間離れした高貴な外見を保っている。塵埃にまみれたところがなく、一切の妥協も許すことがなく、初等数学の公式のような「美しい」顔だ。そのことは細く見開かれたまんじりともしない眼と、薄くて広い真一文字の唇に現されている。
あの手の風貌をした男は高潔だが、悪くいえば頑固で融通がきかず、交渉するのはひどく困難だ。
――しまった。こんなこと最初からわかっていたことじゃないか! 事態を甘く観ず、ありのままに見つめれば、何か方策はあったかもしれないというのに!――
しかしそれにしても、娘たちの話題を出したくだり。あれは確かにチャンスだった……。堅牢にして籠絡困難な城。K駅駅長を責める唯一の搦め手はやはり、実の娘なのかもしれない。あの時こそがこの駅長から解放されて改札をくぐり、家へと帰り着く最後のチャンスだったのだ……諦めてはいけない。よしっ情に訴える作戦を引き続き続行しよう。案外、「落ちる」かもしれない。いや、どんな手段でもいい。別のやり方でいい。必ず落としてみせる!この際もう、五円足らないといった悔しさや、なんとかこの駅長を説き伏せてやろうという考えはどうでもいい。些末なことじゃないか……。改札をくぐること。そのことだけが少なからず肝心だ。そう、俺は思い定めた。
時刻は五時になる。もうすっかり朝だ。冬の朝の清らかな冷気にあてられ、俺はふっと寒気がする。
「で、だ」
俺は鞄からIpadをとりだした。そして、ついぞ知ったる歌手グループの名をユーチューブで検索するや、黙って駅長に見せて、聴くように促した。
一番身近な相手を 他人の目のなかでうぬぼれてた。
誰より 愛しい女性よ 君と歩いた夏
胸によみがえる。oh oh…
逢いたくなった時に君はここにいない、二度と帰らない。
《サザンオールスターズ 『逢いたくなった時に君はそこにいない』》
「これはなんでありますか!」
「わからないのか。サザンオールスターズ。アルバム名はSouthern All Stars。曲は『会いたくなった時に君はそこにいない』だ。一九九〇年一月。バブル経済ピークをつけし直後、九枚目のオリジナルアルバムだ。泣けるね。昔、聴かなかったか?」
「聴いておりますでありまぁーすっ!」
「で、どうだ。『会いたくなった時に君はここにいない』だ。ということはつまり、駅長。『会いたくなった時に君の娘ももういない』だ」
「そ、そ、そ、そんなわけないでーありますっ」
「どうしてそういえる。」
俺は駅長がどう答えるかを少し意地悪な気持ちになって待った。すると駅長は俺にこう告げた。
「ちょっと待ってであります」
「よし待ってやろう。こうなりゃ、いくらでも待ってやろうじゃないか」
「それではそのIpadを少し貸して頂けないでありますか!」
「うむ、いいだろう」
あははははははははは。苦闘始めてはや四時間半。俺はついに限界状況を越えた。何かが壊れてしまって、感情の制御がなかなか効かない。えへへへへへっ。こんな奴相手に怒ってもつまらぬ。何しろ、もともとが、常人、ではないのだから。そう、すっかり悟りの境地に達して、俺は釈迦かキリストかマホメッドか、ガンジーか。いづれにしても聖なる偉人を相手にしているような温かい気持ちになった。ずっとこの駅長とばかり話しているものだから、彼はどうだかわからないが、俺の方では、いつの間にか、ふたりの人格が溶けあって、お互いの魂がお互いに乗り移ったような気がした。
駅長よ。君は僕だ。僕は君だ。
それにしても、何て屈強な精神を持った男だろう。まるで珊瑚をも砕くようだ。彼があくまで“通さない”というのなら、不思議なことに、なんだか、それが正解だという気もしてくる。
――シーシュポスの岩。敗訴なのか――
そう、楽観主義者の俺らしくもなく、独り物思いに沈んだ。
しばらく待つと、彼がいつもよく観ている画面なのかもしれない。駅長は慣れた手つきでIpadのキーボードに「〇〇鉄道△△線C駅。発車メロディ」と打ち込んだ。しばらくして耳馴染みのあるメロディが流れてきた。それは同じサザンの十枚目のアルバム。希望の轍だった。
遠く遠くはなれゆくエボシライン
oh my love is you
舞い上がる蜃気楼
巡る巡る忘られぬメロディライン
oh my oh yeah!
gonna run for today oh…oh…
《サザンオールスターズ『希望の轍』》
駅長はしんみりとしてこういった。
「同じサザンならこっちの方がいいと思われまーすっ。K駅最高権力者。この駅長の権限において我がK駅の発車メロディもさっそく「希望の轍」にしようと思いまーすっ。「会いたくなった時に君はここにいない」では当駅長には耐えられないでーありますっ。「会いたくなった時に『娘』がここにいないなら、私は娘に駅長を継がせられないでーありますっ」
――そうか、そうくるか……でもなんだかよくわからないな……――
奇妙な応答だ。なんで娘の話をしているのに、いつの間にかK駅の発車メロディの話になっているんだ。話が飛躍し過ぎる。こいつ……ちゃんと論理立てて話すことができないのか。少なくとも俺のテリトリーである法曹界にはこんな奴いない……――
――何を言ったらこのプレイは終わるのだろう?……――
これまでのところ、娘たちの話題の件を除いて、俺と彼とはうまく、対話ができていない。会話の基礎ができていない。
――こうきて、ああきて、あ、こうきて、あ、こうくる――
こういった言葉の連なりが彼と共有できていない。なんというのだろう?実は俺は将棋アマ三段なのだが、こう表現すればぴったりと来るかもしれない。そう! 例えるならひどく実力の違う級位者と平手で将棋をしているような感じだ。戦い終わった後の棋譜を頭の中でうまく再現できないというか…。
将棋であれば、自分の手をただ指すだけではなく、相手の手の意味をも正しく理解しないといけない。理解し、共通の土台に立ったうえで、相手の予想を“少し”超える手をたゆまず指し続けないといけない。「棋は対話なり」とは概ね、そういう意味だ。奇をただ衒うというよりは、何よりまず、局面の「前提と意味」を理解しないといけないのだ。翻って、この男はなんだ。この男の場合は、俺の指し手など見ようともせず、ただひたすら、おのが玉将を9九の位置に囲むだけだ。言ってみれば「穴熊」だ。穴熊だから、あちらから最初から攻めるといったことはあまりしない。言うなれば、ときおり、角を切っては、金銀を玉将の周りにぺたぺたと張る。なんとも厭な将棋だ。こうして、時間だけが一方的に過ぎていく。実際の俺はといえば、朝が来たらもう投了、時間切れだ。何とか、この男との勝負に勝ちたい、いや引き分けであっても改札を通してくれさえすればいいのだが、この駅長ときたら、彼の指し手がまるで予測がつかないのだった。この男には定跡というものがない。あるとすれば、それはただ、無賃乗車を通さないというこの一点しかない。例え俺が、じきにこのK市地域一帯で立候補する国会議員候補だとしてもだ。
人とうまくやるという発想が鼻からこの男にはないのだ。世の中にはこういう奴もいる。掟の前では国会議員も何者もないのだ。その掟をあらためて後日創るのは他ならぬ俺であるのかもしれないというのに。
先ほどの駅長の話は少し強引すぎやしないかと思ったが、そこは俺の方が一回りも奴よりも年上だ。「よし」と俺はうなづいた。
「この駅の発車メロディなんて俺の知ったことじゃない。君の好きにしたらいいだろう。俺がいいたいのはな、弟よ! 君にせっかくの幸せを諦めてほしくないということなんだ。君に娘を諦めてほしくない。君には素晴らしい未来がある。家族がいる。」
「はい……」
「よしいい子だ。弟よ! わかったろう。さっき、K駅の発車メロディを「希望の轍」にするといったな」
「はいっ」
「君にもきっと「希望」はくる。やってくる」
「兄さん……」
駅長は子どものような顔になって、うんとうなづいた。
「じゃあ、通すんだ」
「ううう。運賃が足らない場合は駄目であります。例え兄の命令といえどルールはルールでありますから」
「そうか……駄目か……」議論はこうして最初に戻る。
――第五の方法(はだかでエクスキューズ)――
それからも俺たちは相変わらず唾を飛ばしあって、通すの。通さないだのを激しく議論した。そうこうしているうちにすっかり夜も更けた。俺はもうそろそろ「朝まで生テレビ」が終わる時間だろうな。今日は録画するのをどうやら忘れていたようだ、と頭のどこかで思った。こうなれば埒があかないので、「第×××回激論朝まで生テレビ。『○✕鉄道自動改札問題を考える』と題して、あの番組で決着をつけるよう今回の件を投書しようか、などと考えていた。と、そこへ我々のもとへ急ぎ足で駆けよってくる者が俺の視界に入った。
「おはようございます。新聞です!」
「毎度お疲れ様でーありますっ」
ついに、新聞配達の配達員が新聞を配る時間まで俺はここにいた。いったい何をしているのだろう。О駅で苺ジュースをはずみで注文したのが運の尽き。なんと昔のことに感じられるか。ここまで祟ったのだ。喉はもう久しくカラカラだった。腹も随分と減っていた。こうなれば是が非でもここを通らないといけない。もう親だのどうだのは一切合切関係ない。こうなれば、対○×電鉄との全面戦争だ。なんならこの鉄道の株を過半数買ってやる!やるからには最後までとことんやってやろうじゃないかと俺は腹を括る。
「おい、駅長。討論を再開しよう。大丈夫か? 貴様、家に帰らなくていいか?」
「カラダぴんぴん元気でーっありますっ」
「よしわかった。それを今聞いて俺もほっとした。ところで今、何時だ」
「午前五時十八分です」
「もうそんな時間か」
「はいであります」
「一応決めておこう。君にも仕事があるだろうからな。この勝負。朝の六時までだ。勝っても負けても六時までにけりをつける。わかったな」
「了解したでーありますっ」
俺はとくに興奮するようでなくつとめて冷静に言った。すっかり疲れていた。
「よし、では次のテーマに移るっ。次は夜の夫婦問題」
「はいであります」
「駅長。おまえな。もう一度改めて聴くが、俺が諦めないのなら、今日は家に帰らないのか」
「K駅こそ我が家。我が家こそK駅でありまーすっ」
「また滑稽なことを言っているなあ。ええっ。日本の勤労者よ。妻よりも仕事を愛する変態どもよ!こんなところで赤の他人相手におよそ五時間も油を売って無駄だとは思わないのか!」
「赤の他人ではありません。貴方様は兄でありますっ」
駅長はまっすぐ俺の顔を見据えてそう言う。その澄み切った眼は俺の先の言葉を信じきっているようだった。
「すまない。そうだ、俺は兄だったな。すっかり忘れていた。では弟よ。それでももう一度、俺はお前に言う。お前にとって一番大切なのは何なんだ。義兄である俺なのか? それは違うだろう」
「違いますであります」
「じゃあ、何なんだ。言ってみろ!」
「K駅。そして、この業務でありまーすっ」
そう言うだろうな、と思ってはいたら、珍しく駅長は俺の読み通りの応答をしてきた。意外性のない答えに俺はすっかりがっかりしてしまった。
「お前なあ。いくら残業代や特別手当が出るか知らんがな。いくら稼いでも子供は親の苦労なんか知ったこっちゃないんだぞ。こうして、今まさに改札でトラブっていることなどもな。仕事などしてる場合かあっ。帰れええ―っ。とっとと家に帰れっ。俺は君のことを心配しているんだ。何も俺が改札を通りたいから言っているわけじゃないんだ。
君は若くてまだわからないだろうが、人生のひとつの盛りを過ぎた俺からすればだな。今が君にとって一番素晴らしい時なんだよ。娘は可愛い盛りだろうよ。抱いてやれ。彼女はきっと待ってる。妻もだっ。抱いてやれ。ふたりともまだまだ若いだろう? 君の歳ならば二人目。三人目もいいだろう。愉しい夜。めくるめく夜が待ってる! 人間の生活の愉しみはな。夜にこそあるんだ。
なぜ、俺たちは成長して大人になったのだと思う? 一生、成長しないで子どものまま生きるというのがなぜいけない? 大人にならないのがなぜいけない?」
「わっ! わからないでありまぁーっすっ!」
「わからない? それは決まっているではないか? 大きな声では言えないがな。セックスするために我々は大人になったのだ。どうだ。違うか? 他にいい答えあるか?」
「私はあくまで鉄道が好きであります」
「あっ、貴様はそうだったな。俺ももちろん、電車は好きだ。だがな、大概の大人たちはな。違う。昼一生懸命働くかわりに、夜、いかがわしいことをして愉しんでるんだ。絶対にそうだ。だから報道ステーションは二十三時十四分に終わるし、アニメや子ども向けのバラエティなどは日付が変わる頃は全くないのだ。途中で起きてこられたら困るからな。絶対にそうだ。夫婦の営みがなされているからな。絶対にそうだ」
「そ、そ、そういえば、そういう気もするであります」
「なっ。そのようなことは、毎日、新聞に書かれることはないし、ニュースで報道されることもない。『今日、三丁目の谷崎さんが妻の美子さんとセックスしました。無事、営みを終えました』などと聴いても、我々は不愉快になることはあるにすれ、面白くもなんともないだろう」
「少し興奮するであります」
「それは貴様が変態だからだ」
「はいでありますっ」
駅長は眼を輝かせてこの件を認めた。俺は関係ないので流すことにした。
「いいか。とにかく、世の大人たちは愉しむ時は愉しんでるんだ。そうでないと、消費税がアップしたのに暴動がおこらないのはなぜかということになるし、世の奥様方が旦那の愚痴、不満をあれだけネットに書き散らしているのに、『行ってらっしゃい。あなた』と、形づくりとはいえ、なぜ毎朝言うのかということになる。ヒトは夜、繁殖する。俺だけの見解じゃ、心もとないか?このことに対する答えはな。俺がもう学生時代に同人誌で詩に書いてる。『はだかでエクスキューズ』なんだよ。知らないか?」
「知らないでありますっ」
「本は読まないか?」
「全く読まないでありますっ」
「まぁ、お世辞にも俺に詩才があったわけではないからな。よし。ならば教えてやろう。アルコールが少し欲しいところだが、もう朝だし我慢する。俺は自分にとって大好きな詩だから今でも暗唱できる。やがて大きくなった息子にもいずれ教えてやるつもりだ。よしっ。今から俺が朗読するぞ。さすがに全文声に出すのは恥ずかしくて堪らない。効果音でぼかしたところは勝手に想像するんだ」
「はいでありますっ」
はだかでエクスキューズ
早島道広
今日はありがとう。
ごめんね。薫子。
僕は君を抱きたくて抱きたくてたまらないよ。
どうしたら君を抱かせてくれるんだい。
薫子「ええ、わたしと結婚してからよ」
わかった。じゃあ、結婚しようしよう。
何でもかんでも君を信じよう信じよう。
どう?薫子。
覚悟は決まったかい?
僕は君の背中、腋、(※)ピーーー、おへそ、(※)ピーーー
両足、膝、踵、(※)ピーー
全身たゆまず愛撫するよ。
君がすっかり寝るまで僕は愛撫するよ。
そうして君が安らかな鼾をかいて
僕を置き去りにしてしまった後に
僕は少しだけ失礼するよ。
君が気づかないほどだけ、
ちょこっと探検。
失礼するよ。
《早島道広詩集『自費出版の孤独』》
十数年前、まだ童貞の頃に書いた詩で、俺は気づけば顔が真っ赤っ赤となっていた。
「どうだ。わかったか?」
「わからなかったであります」
「なぜわからないんだ?」
「ピーが多すぎるからでありますっ」
「わかった。お前、そういうことに本当に興味がないんだな。子どもひとりもうけているくせに。よしわかった。人の本をわざわざ宣伝してやる義理はないからな。これ以上はあまり言わないことにする。ちなみに詩集のタイトルは「自費出版の孤独」だ。もしくは、著者による求めやすい別のアンソロジーが本人によってインターネットにまとめられているから、明日にでも、買うのだ。お前はもっとこの夫婦の道の勉強をしないといけない。妻と仲良くやっていくためには、な。いいか?
「はいであります」
駅長はわかったようなわかっていないような顔をした。もしかして彼にとっては、難しい話だったのかもしれない。そこで俺は老婆心からこう告げた。
「いいか、いくら気に入ったとしても、この詩をご婦人の前で絶対に朗読するなよ!すれば即逮捕だ!」
――第六の方法(家族愛賛歌)――
俺はそれからもしばらく夜の営みについて、駅長と深く話し合った。話してみてわかったことだが、彼は夫婦間の問題に深刻なトラブルを抱えてるようだった。妻が「もう、いい」と一方的に告げてきたというのだ。もっとよく聴くと、それでも妻は不満そうなところは全くないのだという。気がつけば、もう半年も関係がないらしい。人間の生活とはとても言えない。
「なあ、駅長。お前、仕事は好きか?」
「大好きでありますっ」
「じゃあ、妻は好きか? 愛しているか?」
「もちろん、大好きでありますっ。愛しているでありますっ」
「どちらも好きなんだな」
「そうでありますっ」
「では聴くが駅長。貴様、妻の身体にほくろがいくつあるかわかるか? 妻の“草むら”はどんな匂いがするか覚えているか?」
「さあっ。ほくろはなかったように思われます。ところで草むらとはなんでありますか?」
「わかってないな。野球をするところだ。駅長、貴様、最近ちゃんと“バット”は振っているか?」
「“バット”なら、物置にしまったばかりでありますっ」
駅長は、そう言っては、その後、「あまり野球は好きではないであります」と急いで付け加えた。
「馬鹿!“バット”とはここのことだよ。」
そこで、俺はチイン! と駅長の局部を強めに弾いた。駅長は不意を突かれて、その場にうづくまった。
「どうやら、貴様はやっぱり性のことに本当に関心がないようだな」
「関心はあるであります」
「だったら、なぜ、家に早く帰らない?」
「それは……」
駅長はそこで口ごもった。
「セックスに関心がないのであれば、さっきも言ったと思うが、大人になる意味などないだろう。わざわざ妻を娶る必要もない。「大人子ども」でいいわけだ。皆、夜、知らないところで愉しんでいるんだ。どんなに忙しくともな。なのに駅長、貴様の生活には、昼があるばかりで、夜がまったくない。永遠に「駅長」という縛りのもとに、このK駅に使役させられ続けているんだ。えっ。違うかっ?」
「はいであります」
「駅長。おまえ一週間に何時間働いてる?」
「ええと……」
駅長はそういうと、首を斜め四十五度に傾げた。俺は彼をしばらく待った。
「だいたい八十時間から九十時間であります」
「そうか……」
「はいであります」
「もしそれが本当だとしたのならな……」
「……」
「駅長。貴様は働きすぎだ」
「……」
駅長は少し不満げな顔をした。
「いいか、ただでさえ日本人は働き過ぎなんだ。働きすぎて家を留守にしているときには……妻を別の男に寝取られる。チーターのような奴にだ。仕事をあまりしない男のなかには、そういうことだけに限って、やけにご執心な輩がいるからな。大丈夫だと油断していたら君たち夫婦の隙間にも入り組んでくるぞ。何しろ、貴様は善良で全くのノーマークという感じだからな。間男からすれば、盗塁し放題なはずだ」
「そんなわけはないでありますっ」
「なあ、駅長。今、少し巷で流行っているが、『昼顔』って言葉。お前知ってるか?」
「『朝顔』なら毎日花壇に水をやってるであります」
俺はため息をついた。
「まあいい。働きづめで流行りのドラマを観る時間もないな。それに朝顔に水をやるのも人として極めて大切なことだ。弟よ。俺はお前のそういう優しいところが大好きだ。君の妻もおそらく、君のそういう純粋で無垢なところに惹かれたのだと思う。だかな、残念なことにお前はやさしさの振り撒き先を間違っているのだ。慈しむべきは、朝顔でなくて、妻だろう。時刻は夜というよりもう朝だな。構うことはない! さあ、こんな時こそ一刻も早く家に帰って、妻をたたき起こして夫婦の営みをするのだ。『夜摩羅は朝摩羅にしかず』あるいは『御本尊は朝方早くに打て』。夜、仕事で時間がなかったら朝、性交をするんだ。今なら子どもはまだ寝ている。昔は皆、そうだ。朝の一発はいいぞお。さあっ。弾倉に弾丸を込めよ!一発といわず二発。三発。四発。五発。六発。七発。八発。若い男ならとどめ射て!そうして愛の営みを丁寧に毎日繰り返した後は、可愛らしい娘が二人。三人、四人、五人。六人。七人。八人。山喜田家はすっかり、『若草物語』あるいは『サウンドオブミュージック』となる。そういうのもまた、格別にいいだろう。」
「はいっ」
駅長は元気な声で答えた。
―ちいん―
俺は駅長のアソコを再び軽く弾いた。駅長はまたしてもその場にうずくまった。にもかかわらず、俺は改札の向こうへと逃走はしなかった……。
「どうだ。見るか。俺の娘たちとのメール」
「はいでありますっ」
「娘たちのそれぞれの誕生日に、俺がプレゼントをあげた交換にメールを打って貰った。いつもはこんなメールをくれるような娘たちじゃないんだがな。全くじゃじゃ馬ばかりだ。珍しいからお気に入りのやつだけをまとめて、保存しているんだ。真相はどうでもいい。果たして実のところ娘が俺を愛してなくても構わない。俺にとっては、ここに書かれた言葉こそが娘の真実の言葉だからな。それはもう、かたちを伴っている。俺の娘が俺に届けてくれた不滅の言葉だ。このところ、訳あって家を空けることの多い俺は、すっかり、記憶のなかだけで、娘と生きている。久しぶりに実際の生身の彼女たちに会えば、調子が狂って、会話などろくずっぽ照れてできやしない。ただ、無言の時間が流れるだけだ。人によってはこんなのは親子関係とはいえない、というかもしれない。確かにもしかすれば、娘たちの父に対する思い、というのは、本人たちの与り知らぬ俺だけの妄想なのかもしれない。でも、これは間違っていない。間違っていないぞっ。確かに俺のなかでは全き真実なんだ!」
そういうと、俺は保存フォルダにおいておいた七人の娘たちからのメールを駅長に見せた。娘からの宝物。俺の生きる存在理由。ここのところ、いつもくれるわけではないから、俺は特別に順番ごとにまとめて編集してある。名前に別に改めてルビまでふってな!
「パパ!私大きくなったらパパのお嫁さんになる!」と長女の徳子(とくこ)。
「パパ!私大きくなったらパパの愛人になる!」と次女の麗子(れいこ)。
「パパ!やったね!テスト百点だったよ!」って三女の御子(みこ)。
「パパ!友達の順子ちゃんがパパのこと素敵って」と四女の富和子(ふわこ)。
「パパ!早く帰ってこないと、私、彼氏つくるから」と五女の空子(そらこ)。
「パパ!ママがパパのことあーいしてるって」と六女の裸々子(ららこ)。
「パパ!私、お腹ちゅいた」と七女の志都子(しつこ)。
「だいたいこうだ。どうだ。羨ましいだろう」と俺は駅長に告げた。
「羨ましいであります!」
「なんか気づくことはないか?」
「わからないでありますっ」
「わからないのか!」
「わからないでありますっ」
「わからない。じゃあ、娘たちの名を上から声をあげて復唱してみろ!っ」
「徳子。麗子。御子……あとは忘れましたーっでありますっ」
「馬鹿っ!」
俺は大声で怒鳴った。
「並べてみたら上からドレミファソラシド、だ」
「あっ」
もっとも高いド、にあたる八女は今から作るんだけどな。妻とは仲良くしないといけない。最初からこれは計画済だ」
「なあるほどっでありますっ」
「なっ。そうだろう? 面白いだろう? 面白いだけじゃない。皆、可愛い盛りだ。人生で最も美しい時間なんだ。そうなるもこうなるも君の心掛け次第。こんな時はいつまでも仕事してないで家に帰ろう。君は何のために仕事してるんだ? もちろん家族のためだろう? 違うのか?」
「そうでありますっ」
「……」
駅長はしばらく押し黙った。俺は何か悪い胸騒ぎがした。
「どうした? 何か言え!」
「淋しいのでーっあーりますね?」
駅長はぽつりとひと言言った。その言葉で俺はすべての説得が無に終わったことを悟った。
――第七の方法(強盗)――
「ぷわあああぁーーん」
その時、懐かしくもけたたましい汽車の音がした。ついに始発列車がホームについたようだ。
――そうか。俺はついに帰れなかったか、との思いが一瞬頭をかすめた。今日は結局一睡もできなかった。明日は明日で昼から忙しい一日だというのに……――
やはりというか。そして、駅二階構内から今日、一番目の客がさっそく降りてやってきた。まだ二十代とも思わしき若い女性だった。働いているようには見えない。こっちは一晩中この変人の相手をしていたのに、随分と気だるいアンニュイな表情を浮かべている。
――ちぇっ。お楽しみか!――
ところ変わって、我が駅長はここにきてもまだ迷っているようだった。この男は本当に最後まで何が大切かちっともわかっていなかった。法を護るあまりに、自ら滅びる。一見すると、美しい生き方のように思えるが、俺には到底、その美しさは理解できない。早く実家に戻って、この胃袋をただただ、旨い飯で満たしたい。糖分と淡水化物が著しく欠乏して、もう、そのことしか、考えられなくなってきている。
そうして俺は堪忍袋がついに切れた。イライラが爆発して、すぐ側の改札を難なく通りすぎようとしている女性に衝動的に抱きつこうとした。欲情からではない。ひょっとしたらこの刹那、この見ず知らずの女に激しい憎しみを感じていたのかもしれない。先までの永遠と続くかに思える不毛な攻防に巻き込まれた俺には、この改札口を何の苦労もなく、なんなく通り過ぎるということがどうにもこうにも許せなかったのだ。俺は無警戒で通り過ぎようとしている俺たちに全く関係のない女に抱きつき、ついに絶叫した。
「金を出せ! 金を出さないならお前の身はどうなるかわからないぞーっ」
「きゃあああっ」
「金を出せ! いますぐ出すんだ」
「いくらでも出します。何円出せばいいの!」
「五円だ」
「えっ」
「五円でいい。何でもいいから黙って今すぐ出すんだ!」
そういうと、女は困惑のあまりしばらくその場に立ちつくしていた。俺も自身の思いもがけぬ行動に自分ですっかりたじろいでしまったが、いったん言ってしまったが最後、そのままじっとしているのもちゃんとした一犯罪行為として、気まずい為、いかにも、強盗、といった風に乱暴に振る舞いながら、若い女の鞄をひったくって、無理やり金を奪おうとした。
そこへ駅長がすかさず来た。俺を女から引きはがし、彼は逮捕! 逮捕! と叫んでいた。通りすがりの女、という第三者の出現により、五時間弱に及んだ拮抗がここにきて、ようやく破れた。
「きゃああああ」
その間に、女はあらん限り叫んで、改札をつき抜けて駅の向こうへと走り去っていった。
俺と駅長はしばらく女の行き先をぼんやりと眺めていたが、女がすっかり去ったのが事実として認められてくると、ふたり、ぽかぽかと殴り合いを始めた。
「この公僕野郎!」
俺はついに切れた。
「通せってんだ!」
すると駅長はここで待ってましたとばかりに大見栄をきる。十八番である彼の好きな台詞をもう一度俺に繰り返してくる。
「この駅で乗降して頂く以上。この駅長。私がルールです。私がルールブックなのです。いくら買収しようとおもっても無駄です。恫喝するのも無駄です。私がルールブックなのですから」
それからも俺たちは床の上で組んだり組し抱かれたりして、激しく揉みあった。俺は奴に躍りかかって、一発とはいわず、三発四発としたたかに殴ってやった。駅長とて負けずに応戦し、俺に渾身の一撃のパンチを頬に何度かくらわした。全体としては俺の優勢で喧嘩はまもなく終わるはずだった。だが、こんな喧嘩勝っても所詮、全く致し方なかった。俺は彼を叩く拳そのものが彼を殴るたびにだんだんと、傷ついていっているように思えてならなかった。
駅長は駅長で俺にもみくちゃにされながらも、「ルールはルールですから」などと時おり、高い声で叫んでいる。始発列車がやってきて、まもなく十分が過ぎようとしていた。しかし、次の列車に乗る乗客がやってくる気配は一向になく、俺たちは人ひとりッ子いない駅構内で、兄弟の契りも何のその、争い続ける。田舎の駅の朝の出来事なので誰も加勢したり止めるものは全くいない。その時だった。
チャリーン。
いったい、どこのポケットに入っていたのか。激しく揉み合っているうちに一枚コインがそっと落ちた。コインはしばらくころりころりと廻っていたが、ふとおのずから回転を止めようとする。俺と駅長は互いに相手のからだを殴っていた手を止めて、しばらくその光輝くものがいったい、何なのかを凝視しようとした。
その硬貨は穴が開いていた。穴が開いていたとなると、とどのつまりこの日本国の硬貨では五円玉と五十円玉しかない。一円玉でないことははや確実だった。『たった今、速報が入りました。H県×区民自党早島道広氏。当選確実です。繰り返します。民自党早島道弘氏苦戦と伝えられていましたが、現職を破り、当選確実です』ふと、この両耳にそう確かに聴こえたような気がした。俺のなかで勝利のファンファーレがけたたましくも鳴り響き始める。この時点で、俺が改札をくぐれることは早くも約束された。あとはもう、それが何円玉でも大差ない。ただ、犬か猫かがそれを持っていかないことには、改札は開き、門は、ついに開かれるのだ。
コインはついに束の間の自転をやめ、そのはらわたを俺たちに見せた。五円玉だった。
磨き上げられ、まだ使用されたことがないとでもいうような綺麗な五円玉だった。稲穂が曲がり、収穫の秋を祝するといったデザインに色どられている五円玉。
今までどこにあったのだろう? ひょっとすると神様がいつまでも和解できないふたりを憐れんで、急きょ、俺たちのもとへひょいと落としていったのかもしれない。
ふたりはその後もしばらく床に落ちた硬貨を見つめていた。こういう時はあまりのことでとっさに動けないようだ。
五円玉だな。確かに五円玉だな。一円玉であるということはないか。俺はそう、不安におののいてしばらくその光輝く硬貨を見やったが、やはりそれは、どう見ても五円玉だった。もう間違いがない。五円玉だった。なんだかとても不思議で神妙な気持ちがした。
それから時がゆっくりと三秒流れた。黄褐色の五円玉がいつになく輝いて見えた。我々の諍いをやめるために現れた五円玉。我々の縁を結ぶ五円玉。我々が兄弟になるための五円玉。俺たちはこの硬貨に日頃、充分に感謝しているというのだろうか?
俺たちはそのままゆっくりと同時に頭をあげ、俺はスローモーションのように駅長の顔をまざまざとみた。目と目があった。俺は彼にしばらくゆっくりと微笑んだ。
最初、俺の微笑みを受けた駅長は一瞬、顔を曇らせたが、それがやがて歓びへと変わり、ー彼とて一刻も早く職務から解放されたかったであろうー最後に立ちあがって、自動改札入口にまで一歩下がると、俺の顔をたちまちもう一度見るやいなや破顔した。
「ぴこん!」
と次の刹那まるで大学クイズ王のチャンピオンみたいに素早く、手元にあった改札の開閉ボタンをすっ叩いた。
「ぱかっ」とこの五時間近くの苦労が嘘のようにその改札は自ずから恥もあられもなく開いた。
「どうぞ~〜」
次の瞬間、駅長が丁寧に手招きした。一流ホテルマンの給仕のように、恭しくおじぎした。こんなにあっけなく駅前改札口は通れるものだったなんて、俺は感動のあまり、その時、すべてのわだかまりを忘れた気がする。
「ありがとう。通れればいいんだ。通れれば。さっきからすまんな」
と、俺はすっかり心晴れて、こちらのほうこそ恭しく挨拶した。
「いいえ。規則は規則ですから」
と、駅長も晴れがましい顔で言った。
「お客様はちゃんと代金を払って頂いております。無事、確認が取れました。こうなっては、K駅心得の冊子を紐解くまでもなく、お客様の正義。確かめてみるまでもございまっせん」
と、駅長は例の全く変わった「であります調」なしで言った。俺はその変化にすっかり感服した。先までの闘いが走馬灯のように甦る。まるで別人だった。彼がこんな紳士だったとは。改めてこの男に対する親しみと彼という人間性に対する好奇心が一斉に湧いた。「まったくお前はすごいよ。大したものだ。君のような極めて堅実な駅長がいて、この街も安泰だよ。感謝する。この駅には不正が一件もない。言うな。聴かずともわかる。君が駅長なら絶対にないはずだ。いつも街のためにありがとう。賄賂撲滅。キセル撲滅。暴力はんたあ〜い。K駅万歳! K駅万歳! K駅万歳! 永遠に繁栄あれ!」
そうして、俺と駅長は握手した。ぶるんぶるんぶるんっと握手した。駅長はただ感に打たれたかのような呆然とした顔をしていた。出会ったころのような寂然とした表情を浮かべていた。
「さっ帰るか。弟よ」
「うん」
と駅長はうなづいた。
「帰ろ。帰ろ。家に帰ろう。今日はこれにて解散!」
そうして、少し俺はどっと疲れて改札を出た。時刻はまもなく六時である。もうすっかり朝になってしまった。改札を出るやいなや、俺は実家にさっそく電話をかけた。目覚めの早い母がすでに起きていた。聞くと俺の頭からはすっかり忘れていたが、執事が駅のロータリー近くで俺をずっと待っているという。観ると彼は路上でぐうぐうと寝ていた。
――また、仕事もせずに酔いつぶれていたのか――
こいつが起きていれば、もっと早くに改札をくぐれたのに……。全くもってけしからん奴だ。夜半何度コールしてもこいつは電話に出なかった。全くいい心臓を持っているな……。本編ではまったくもって、この執事は登場しなかったが、俺が誰かを一番わかってない奴はひょっとしてこいつかもしれない。
それにしても駅長は……弟のあいつはなんていうのだろう。桁外れなまでに常識のない奴だった。彼と過ごした五時間あまり……。それを経る前と後では俺も随分と人間が変わった気がする。確かに厭な奴ではあったが、それだけではなかった。「駅長体験」とでもいうべきか。権威に媚びへつらってくる奴。おべっかをつかって正直に相対しない奴が大半を占める日常にあっては、彼らに比べると奴は気持ちがよいほどに不快だった。
この開放感は何だろう。不快も極めれば、快に通じる。例えるなら身体じゅうに詰まっていた糞がすべて、一気に出尽くした感じだ。終わってみれば、この度の死闘は嘘のように短く感じられた。あの不条理をまた、味わいたい。また、駅長に全力で挑み、彼を今度こそは僥倖なアクシデントなしに説き伏せたい。そんな気持ちが改札をくぐった後もメラ
メラと沸いてくるのだった。
――駅長……。今日のところはここまで。だが、また近いうちに会おう……――
そう、俺はこの度の出来事を懐かしく振り返る。先までの敵が今日のかけがえない友のように感じる。強敵、と書いて、友(とも)か。昔、確か少年漫画であったなあ。手強かった。後にも先にもあんなに強い男は初めてだった。こんな奴、最高裁でも見たことがない。最強の敵……駅長……おまえもまた、強敵(とも)だった、そう述懐して駅のロータリーへと歩みを速める。
「お帰りなさいませ。お坊ちゃま」
「うむ」
観ると執事が朝霧のなか直立不動で立ちつくしていた。アルコールはもう抜けたのだろうか。よく観ると、タキシードの服の至るところに、草がついていた。どうやら蒲公英(タンポポ)のそれのようだ。
しかし、彼がこんならしくない振る舞いでも、俺はもう何とも思わなかった。あんな非常識な駅長がいるならば、こんな執事がいても別に構わないじゃないか。奴に比べたら、コイツはまだまだだ。俺は随分と免疫がついたのだ。
「随分と待たせてごめんな」
と、一言いって、俺は車に乗り込んだ。
それからは、やっとことが終わったことからの安堵から、どっと一息ついた。後は寝ていても実家に戻れる。時間をやりくりして戻って本当によかった。
「坊っちゃん。どうなさいましたか? 額に汗が噴き出しております」
執事はそういって、ハンカチをとりだしては俺に渡した。
「ありがとう」と俺は一息ついた。それからである。俺は思い出したようにさっき考えていた重要なことを執事に告げた。
「あ、K駅の駅長だけど。クビな。本日限りで罷免しろ」
「かしこまりました。坊っちゃま。お車着き次第にでも、お父様に伝えておきます」
「うむ」
そういうと、執事はすみやかに車を出した。K駅の駅舎がどんどん遠くなっていく……。
この街は再開発が必要だ。市民のためにもぜひとも必要だ。数年後、俺がオヤジの後を継いで、晴れて国政政治家となった時は、□△電鉄をこの地域一帯まで延長しよう。さあその準備で忙しくなるぞ……俺はキャデラックの後部座席にふんぞりかえりながら、ニタっと笑った。
(了)
(四百字原稿用紙162枚)