社宅の生活 一軒目
昭和45年の春、小学3年生の頃、父の仕事の関係で大分から県外に引っ越ししました。
社宅が用意されていたのですが、本来の社宅は空きがなく、臨時に入居した社宅は戦前の古い二軒長屋の木造平屋建の社宅でした。
とても古いのですが、周りに同じ社宅が100軒以上並んでいました。私達が、入った所は、広い社宅のグランド脇(社宅に広いグランドまでありました💦)で、25番でした。
昭和初期(もしかしたら大正だったかもしれません❗️)の建物で、玄関に入ってすぐに土間があり、そこに台所がありました。
水道の蛇口が台所一箇所しかなかったので、料理するのも、歯磨きするのも、洗濯するのも一つです。洗濯機には洗濯するたびに水道からホースを伸ばし、繋げて洗濯しなければいけません。もちろん、洗濯途中は、水が使えませんでした。
部屋は三部屋ありましたが、隣りとの接触の壁は、夜、隣の明かりが透けて見えるくらい薄いものでした。家の裏には小さいながら庭がありました。縁側があり、その先にトイレがありました。
そう、水道は一箇所だけです。
トイレから出たところに軒下にかけられた水タンクがあってそれで手を洗うようになっていました。
お風呂は共同浴場で、それまで父ともお風呂に入っていたのですが、そこから女風呂に入るようになったので、父との入浴は終わりました。
共同浴場は、家から200m程離れていたので
冬などせっかく温まっても冷めてしまい、雨の日は特に困ったものです。
向かいの家は、その頃流行っていた、「黒ネコのタンゴ」のレコードを毎日掛けていて、近所の音もよく聞こえてきました。
住んでいた時期は、5月から8月まででしたが
かなりのカルチャーショックを受けたものです。
なにせ、大分の新興住宅地から突然、田舎の社宅の洗礼を受けたからです。方言も同じ九州なのに全然違っていて、外国に引っ越したようで悲しくて最初、泣いていました。
引っ越しでいきなり下町生活になったのです❗️と、言っても子供の頃です。
順応性が高いのですぐに馴染んでいきました。
方言も直ぐに使えるようになりました。
(母は馴染めず、いつまでもメソメソしていましたが)
新しい学校にも慣れて、近所の友達も出来て、そこで、一番変わった事は、突然、駄菓子屋に毎日通う生活になった事です。
それまで、駄菓子屋などは行った事がなく、買い食いもした事がありませんでした。
(それまで近くにお店屋が無かったのです)
夏でしたが、社宅で流行っていたのが「凧揚げ」でした。
すぐ横の広いグランドで皆んな揚げていたのです。
もちろん「凧揚げ」なんて、した事はありません。
駄菓子屋で、凧を買って皆んなと一緒に同じ事をしてみましたが、全然揚がりませんでした。
その夜、父が「凧揚げ」のコツと、凧にしっぽを付けることを教えてくれました。
凧に2本、新聞紙で長いしっぽを付けたら上手くあげる事ができて、夏休み中引っ越すまで毎日、「凧揚げ」をしていました。
引っ越しをして、4ヶ月近く、戦前の生活体験のような生活が出来て、貴重な時間を過ごす事ができました。
まるでタイムスリップしていたようでした。