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ep21 竹筒(その1)

十津川村南東の果てにある集落 ”竹筒“
 地図で見ると、十津川村にちょこっと引っ付いた様な場所に見え、集落の眼下には北山川が流れます。十津川村役場のある小原からここに行くには一旦村外に出て、再び入らなければ到達できない場所です。

十津川村南東に突き出た場所が竹筒


青文字が飛び地の場所。3県が集合する場所で混乱する

飛び地と竹筒

 地図で見ても県境がごちゃごちゃしてる様な場所ですが、この周辺は和歌山県新宮市の飛び地があり、奈良・和歌山・三重の3県が混在している事が特徴的です。
 この地域、和歌山県の飛び地は2つに別れており、竹筒に隣接するのは熊野川町嶋津と玉置口で、更に北東には北山村があります。
 古くからこの辺りは伐採された木を山から出し、筏(イカダ)を組み、北山川を利用して原木を新宮市まで流していました。経済的な繋がりは十津川村より断然和歌山県新宮市との繋がりが強かった場所です。
 明治4年、廃藩置県の際は奈良県になるか三重県になるのか議論されたと思われますが、住民の都合を考えると和歌山県にする選択だったと思われます。
和歌山県でありながら和歌山の地と接しない飛び地の自治体は非常に珍しい地域です。

 竹筒はどうでしょうか?地理的に竹筒は和歌山県になりそうなものですが、和歌山県にはなりませんでした。これには諸説あります。
 江戸時代に十津川村が士族の郷となると聞きつけた人たちが勢力を伸ばし、北山川を渡って集落を拡大させたという説。士族は苗字帯刀が許可され魅力的です。更に租税地、まさにTax Heaven であった十津川郷は更に魅力的だったので、この地に入ったと言う話も残ります。(正確な情報ではありません)
 竹筒の北側は熊野川町に挟まれ、村境が隣接して非常に細くなっています。当時の状況を当時の時代に行って確認したいものです。

竹筒関係者の話

 先日、竹筒出身の旦那さんを持つ方からお話を聞くことができました。旦那さんは残念ながら数年前に他界されております。
 
 竹筒には小学校の跡が残り、今も建物は残ります。旦那さんはそこに通ったそうです。中学校は竹筒の下流にある和歌山県、九重の中学へ通い、高校は十津川へ行きました。時々本を背負って山越えで歩いて帰ったという事です。
 竹筒は遠方で、十津川村の行事に顔を出す機会も少なく、話し言葉は十津川弁ではなく、新宮方面の言葉であったそうです。これは今でもそうで、例えば三重県熊野市の板屋と交流が深かった玉置川や葛川の村民は、独特のイントネーションで話をされます。
広い村で点在した集落毎に話し方が違うのは面白い現象です。

竹筒は村境のルートに含め辛い

 村境のルートを考えたときに、竹筒を通すのは非常に困難です。3県が入り組んだ場所で、北山川を渡る必要があります。そして、北の細くくびれた場所がどのようにアプローチ出来るのか不明です。くびれた場所をちぎってしまうのは十津川人として後ろめたいものがあります。出来れば現地調査にて、北山川が綺麗に見える場所を通るルートが完成できれば最高だと思います。

青線が村境 北にせり出す半島に百夜月と書かれています

 上の地図を見ると北山川の対岸に村境が確認出来ます。川は蛇行し、竹筒の反対は大きく北にせり出た半島の様に見えます。よく見ると村境の少し西、三重県側に百夜月という文字が見えます。『モモヨヅキ』と呼びます。
 
 次回はこの辺りの村境についてと百夜月と竹筒について書き残したいと思います。



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