Day8】インパクトは数より一つの大きさ
1.父の命日
7/27、父の命日。
14年前、ボクの職人としての本業である電気工事士の国家試験日7/27の朝、枕元の携帯が鳴りました。
当時から携帯電話を目覚まし時計代わりにしていたので目覚ましが鳴ったかと思いきや、姉からの着信でした。
とっさに「その瞬間が来たか」と思い電話に出ると「ゆうじ、今や、今お父さん亡くなったで」と姉が伝えてきました。
肺がんを患い、末期状態で手の施しようがないとして、京都市内にある緩和ケアセンターに入っていた父。
意識を失い、今夜がヤマかもしれないという電話がセンターから入り、試験日前日の26日、実技試験に使う工具を持って京都に向かいました。すでに姉と義母は来ていましたが、父はもう話せる状態ではなく焦点の合わない目をうつろに開きながらウ〜ウ〜と唸っていました。
父も大変ではありましたが、ボクも結婚を控えて生活を左右する国家試験が明日に迫っていたので、唸る父の横でペンチを使って電線を剥いていました。
遅くまでいましたが、朝から試験が大阪であるため、姉と義母に託して帰阪しました。
そして翌日試験日の朝、父は亡くなりました。
何でよりによってこんな日に、と何とも言えない気持ちを抑えつつ、試験会場に向かった事を覚えています。
2.約束された日
ボクは父とは生涯で5年しか暮らしておらず、特に今ボクの息子と同じ年頃の父との思い出はあまりありません。
ボクが0歳か1歳の時に父と母が離婚し、僕はまだ小さかったため5人いる姉のうち2歳上の姉と2人で母方に引き取られましたが、母の今でいうネグレクトがあったようで、1歳7ヶ月の頃、その姉と一緒に京都にある積慶園という孤児院に入れられました。
そして10歳になる時、父親に引き戻され家だった孤児院を後にし、亀岡に住む事になりました。
次女の姉(長女は生まれつきの身体障がいで60年間養護施設に入っています)曰く、廃校の廃材で造られたという2階建ての文化アパートでの暮らしが始まりましたが、父はほとんど家に帰る事はありませんでした。
後の義母と別で住んでいたとの事です。
家の食べ物がなくなり、夜中に姉が10円玉を持って近くの商店の公衆電話でどこかに電話をかけ「お父さんに食べ物がなくなったと伝えてください」と話していたのを今も覚えています。
お腹が空いて座卓の下で寝ていると、姉に揺り起こされ、目をこすりながら開けるとその座卓の上に袋いっぱいの菓子パンが置いてあり、姉が「食べぇ」と僕に言いました。
その時には父の姿はもうなく、姉達と黙々とパンをかじりました。
そんな中でも、父が必ず帰ってくる日がありました。
それは、クリスマスでした。
父はクリスマスだけは、大きなバタークリームのケーキを手に必ず帰ってきて、バタークリーム故にあまり量は食べられなかったですが(笑)、それでも家族皆んなでクリスマスを過ごす事ができました。
ボクは今、会社でも11月からクリスマスの飾り付けをするほど、クリスマスが大好きです。
1年で最も好きな日です。
街にクリスマスの曲が聞こえてくると身震いするほど嬉しくなります。
なぜこんなにクリスマスが好きなのか自分でもよく解りませんが、おそらく子供の頃に唯一家族が揃うという約束のされた日として、ボクの脳に深くインプットされたのではないでしょうか。
確かに父との良い思い出は少ないですが、ボクにとってはあのクリスマスのインパクトが残っているため、全てが不幸ではなかったと思う事もできます。
3.インパクトは数より一つの大きさが活きる
そういう意味では、数が重要ではなくインパクトは大きなものが1つあれば十分かと思います。
事業も同じかと思います。
ボクがいるアイデンという会社でも、会社事から社会事を捉える社会課題解決型へ変革している最中ですが、あれもこれもと他人の真似事のような事をいくつも行うより、1つであってもアイデンにしかないという事を突き詰める事の方が大事ではないかと思うのです。
たくさん良い事があるのも素晴らしい事ではありますが、そうであったなら、あのクリスマスもそれほどのインパクトにはならなかったかもしれません。
インパクトは大きく独自性のあるものならば1つで十分。
むしろそれにとことん向き合い尖っていくべきではないかと思います。
アイデンではそれが犬事に繋がります。
第1フェーズでは犬を救うとなりますが、第2フェーズ以降は犬を通して地域社会を少しでも笑顔あふれるものに、そのファクターの1つにしていく事を考えています。
そういうアプローチの仕方は未だ日本には浸透してはいません。
大切なのは自分たちの1本の道を見つけ、それを突き詰め社会に大きなインパクトを与える事。
妻と息子と初めて家族3人で行った命日の墓参り。
そんな事を父にも話してきました。
ありがとう。
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