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コラム6 リジリエンス

わたくしだけではなく、あまねく人類共通に、ジェットコースターのように急転直下の出来事がいきなり訪れるのが人生なのだと、今しみじみと理解している。

どんなに注意深く暮らしていても、自然災害も頻発するこの国に生きることは、昨日と同じ明日が来るとは限らないのだと、体験を通して得た見解だ。もちろん、災害に限らず、いろんなトラブルが突如自分の人生に発生するのは当たり前。人生の最後の瞬間まで、何が起こるかわからない。それが真実。出会うわけもないと思う人に思わぬタイミングと場所でばったり出くわすなんて奇遇というものも多々出会ってきた。このように、禍福ないまぜで人生に「事件」はつきものだ。

短期的な視点での良いことや悪いことが、長期的にはその意味が逆転することもいくつもあった。わかりやすい事例としては、自分の周りの人たちの、受験の結果である。みな、チャレンジ中は、「希望校合格=成功」と思うけれど、実際には実力があるのに不合格になったりする人の中で、そのずっと先には「不合格=成功」となっているケースをたくさん見てきた。行き先に待っている出会いや出来事が、本人に必ず重要な意味を持っている、必要な不合格、合格なのだと見て取れた。

なので、受験や就職についてもその結果に一喜一憂することもないのだろうと、クールに見ていて、桜の季節の盛り上がりについていけない自分がいる。「人は必ず、行くべきところに進んでいく。合格、不合格という呼び名に安易に自分の自己評価を値打ちを上げ下げしない方がいい」と見解を持っている。
もちろん、受験者が合格出来て喜んでいることは素直に嬉しいし、不合格で沈んでいれば励ましたいと自然に思うけれど、それは生じている感情への共感であって、出来事については、失敗というものがあるのだろうか?と懐疑的になっている。

わたくしがこのような視点に立つようになったのは、もともとそれほど恵まれた子ども時代ではなかったせいかも知れない。辛い出来事に遭遇してもするりとやり過ごし、できるだけ自分の魂にダメージを与えないようにするクセのようなものが自然と身についている自覚がある。

さらには、小学生の高学年の頃、「少女パレアナ」という文庫本を年の近い叔母の本棚から借りたのも、そのヒントになった、と思う。↓

避けようもない、いきなりの、驚く展開の内容が、自分にとって厳しいものだった場合、それをどう受け止めるかだけは、自分の自由にできることだとなんとなく理解できた。考えても、悩んでも仕方ないことへは、すっぱりと割り切ることも身に着けてきたと思う。

そして、未来が見えないことは、先々の困難を思い悩まずに済む「救い」だとも考えている。先読みは可能な範囲でとどめて、できる限り対処するけれど、後は放念すると決めている。

さらに、その先を知れないことの幸いを最大限に受け止めるためには、思わぬ逆境に心折れてしまわず、何かしら前向きに進んでいける心のしなやかさを持ちあわせていたい、いわゆる「ヘコタレナイ」心持ちの人になりたいとつくづく思うのである。

そういうメンタルを、今どきの言葉では、リジリエンス、というらしい。ちょうどまとまった記事があったので、↓にご紹介したい。

最近は、不安な世情からか、以前であれば新宗教に走った人々が、今は「スピリチュアル」という分野に心を寄せているとも聞く。どちらも寄る辺ない不安定な精神に安心できる?ストーリーを用意してくれているようにも感じるけれど、わたくしはいささかいぶかしく感じている。

実は、自分一人で、お金もかからずすっきりとした心持をキープすることはそれほど難しいことではないのではないか、と思っているからだ。生きていくことは、不安と常に道連れでありながら、他にも希望や人との素朴なつながり、助け合いという楽観的なサポーターも同時にセットされているものだ。

「求めよさらば与えられん」の言葉のとおり、これまでの60年で大概の求めたものは、与えられてきたと実体験から強く言える。恵まれているんですね、と言われそうだけれど、辛さや苦しみなども通じて得たものであるからこそ、値打ちも感じられるし、自分自身に納得の持論として多少の自信もある結論だ。

「求める」ということは、ただ楽して寝て待っているのではなく、与えられるまでの道筋を客観的に見据えて、その道を歩き通していく継続力の先に結果を得ているのだ。

これからは、こうして得られた経験値と吟味した情報フル活用して、下降する体力気力を補うのがテーマとも言える。その攻略に必要なアイテムが
リジリエンス、なのではないか?とわたくしはひそかに考えている。

最後までお読み下さり、ありがとうございます。感恩戴徳。



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