【映画評】シドニー・ポラック監督『トッツィー Tootsie 』(1982)
シドニー・ポラックはハリウッド的な映画作りから距離を取る「ニューヨーク派」の映画監督の一人である。これまでシドニー・ポワチエを主演に据えた『いのちの紐』(65)で黒人問題を、バーブラ・ストライサンドを起用した『追憶』(73)で赤狩り問題を扱ったことなどから「社会派」とも称される。だが、アカデミー賞を初めとする映画賞をいくつも受賞しているわりには、ポラックの「作家」としての評価は高いとはいえない。実際、彼が2008年に死亡した際、『キネマ旬報』(2008年8月上旬号)の組んだわずか8ページの追悼特集は、彼が役者としても活躍したこと、実生活ではなかなかの腕前をもつ料理家であったことを証言記事で回想するばかりで、その「作家」としての功績についてはほとんど触れず仕舞いだった(「追悼のシドニー・ポラック」 38-39)。
だから、もし『トッツィー』に光が当てられるとしても、それは、シドニー・ルメットの作家性を言い立てるためというよりは、「名優」ダスティン・ホフマンの「女装」演技を称揚するためであろう(残念ながら本作でのアカデミー賞主演男優賞受賞は逃したが)。映画公開当時、監督やホフマンが盛んに吹聴していたのも、「まるで『ジョーズ』の機械仕掛けのサメのように手こずった」というホフマンの「女装」の苦労話である。結局、自らを「ミスター・メインストリート」(「追悼のシドニー・ポラック」 39)と称したポラックの認識は正しかった。一見「社会派」のようにも映る彼の作品は(たとえ『トッツィー』のような「女性の苦労を男性が知る映画」であっても)、当の社会の支配的なイデオロギーに対してそれほど批判的ではなかったからである。
数少ない『トッツィー』評が指摘するのもそのあたりの事実である。もともとテレビの演出を手掛けていたポラックは、テレビ業界の内幕を描く『トッツィー』という作品をウェルメイドな作品に仕上げてはいる。だが、グレアム・ターナー Graeme Turner はジュディス・ウィリアムソン Judith Williamson の説を援用しつつ以下のように指摘する。
『トッツィー』(1982)は、いくつかの点で進歩的な特徴をもつ映画とみなすことができる。この映画は、通常女性がこうむる性差別を体験する男性を描いている。彼は男性が女性としての生活を送ることがいかに困難であるかを学ぶ。ダスティン・ホフマン演じるマイク・ドーシーは、ドロシーという女性に化け、テレビ制作会社の彼/彼女の女性の同僚を「解放」しようとして、ついに率先してある程度それに成功する。表面上、これは男性が享受してきたイデオロギー的特権を覆したように見える。しかしながら、ジュディス・ウィリアムソンが示すように、かならずしもそうではない。マイク・ドーシーはドロシーに化けているときですら、なお男性であり、この映画から学べる教訓はといえば、男性は女性よりフェミニストとして優れており、それは他のあらゆる点でも同様だということなのである!(グレアム・ターナー『フィルム・スタディーズ ― 社会的実践としての映画』、水声社、2012年、 211)
ターナーはまた、ほとんどのハリウッド映画の「成り代わり」映画(黒人⇔白人/男性⇔女性/金持ち⇔貧乏)にあっては、「一見革新的だが、物語が展開するにつれ、映画のポイントは、しばしばたんに主人公が以前の状態を受け入れるのを正当化するにすぎないことが明らかになる」のであり、その目的は畢竟、「人の望むものはかならずしもその人が本当に欲するものではないということを発見すること」に存すると指摘する(前掲書、同所)。
そもそも、映画『トッツィー』では、ホフマンが女装するにふさわしい「理由」が①映画外のダスティン・ホフマンのレベル、②映画のマイク・ドーシーのレベル、③映画内テレビのドロシー・マイケルズのレベルという三つのレベルで同時に示されていた(①では「女性に対する理解」、②では「失業」、③では「不幸な生い立ち」のために女装することになる)。しかも、最終的にはダスティン・ホフマン=マイク・ドーシー=ドロシー・マイケルズの女装は解かれ、映画内外での「女装する前よりよい男になった」とのホフマン=ドーシー=ドロシーの自覚がヘテロセクシャルな恋愛関係の成就をもって達成される本作のハッピーエンドを支えるのである。
よって、シドニー・ポラックやダスティン・ホフマンが、本作をして「ドーシーが女になることでよりよい男になる」物語、「男が女のフリをすることで成長する」物語だなどと能天気に証言しているのも当然のことなのであるし(DVD特典映像『『トッツィー』の思い出』参照)、『トッツィー』の日本公開当時のパンフレットにある「映画の内容はゲイやレズの世界を扱っていない。ご覧になればお分かりのようにふつうの男と女の愛の世界を描いている。くれぐれもお間違いのないように!」などという文言も「社会派」どころか「体制派」であるこの映画の本質を実に見事に暴露しているといえよう。
とはいえ、『トッツィー』という作品の画面それ自体は、作家や映画が無意識に踏襲する体制的イデオロギーに対して、常に従順であるとは限らないことをここで指摘しておきたい。たとえば、映画内で描かれるテレビ・スタジオでは「彼女(ドロシー)をアップにするな」と繰り返しいわれるが(なぜならばドロシーの顔には皺が目立つから)、『トッツィー』という映画の画面上では、女装したホフマンの顔が、屋内外で、ヒロイン、ジェシカ・ラングと同等の照明(ハイキー)を浴びつつアップにされる(映画内テレビでアップにされるのはジェシガ・ラングの顔ばかりである)。映画女優の映され方が男優と異なる点(多くの場合、女優は男優スターを補う立場に追いやられる)については留意が必要であろうが、ここではひとまず、映画内テレビと映画との間で「女優」のあり方が相対化されている点(ドロシーの「皺」は映画では大写しにされている)に注目したい。あるいは、女装したホフマンとジェシカ・ラングが同時に収められたショットには、ホモ・エロティシズムとヘテロ・エロティシズムが奇妙に同居しており、彼(/彼女)/彼女らへ「同一化」し恋愛主体/客体となろうとする観客(彼/彼女)に混乱をもたらす。もちろん、女装を解きつつあるダスティン・ホフマン(上半身裸の、メイクが完全に落とされていない状態の彼/彼女は、男と女の中間的/両性具有的状態にある)とそのルーム・メイト(ビル・マーレー)のツー・ショットは、本作において最も攪乱的なショットとなるだろう(事実、こうしたツー・ショットが、ホフマンをゲイにもレズにも「間違わせる」ことになるのだから)。作家の意図や当時の社会に支配的だったイデオロギーを超えて露出する「なにか」が、「社会派」というお定まりの肩書きから『トッツィー』を解放するかもしれない。
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