【映画評】ナ・ホンジン監督『哭声 コクソン』(곡성(哭聲) 、2016)
●(イエスがペトロに対して)「私についてきなさい。人間を漁る漁師にしてあげよう」
『マタイによる福音書』:十二使徒のうちヤコブとヨハネの兄弟も漁師。
●(同上)「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度、私を否認するだろう」
『マタイによる福音書』
●(イエスが「姦通の女」に対して)「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
『ヨハネによる福音書』:石打ちはユダヤ教における伝統的な処刑法
●教皇グレゴリウス「キリストは、悪魔をひっかけるための釣り餌である」
ジョーゼフ・キャンベル『神話の力』。
『ルカの福音書』の引用に始まる『哭声/コクソン』は、新約聖書中に表れる(特に上記のような「魚」や「釣り」にまつわる)各種の逸話を想起させる(それ以前に魚の図像・記号たる「イクトゥス」がイエス・キリストの象徴であることは論を俟たないし、新約には上記以外にも「パンと魚の奇跡」の逸話がある)。
魚を釣る「日本人」(イエス・キリストであり悪魔)、警察官ジョングに「石を投げる女」ムミョン(罪なき存在=神)、女の忠告を無視し「鶏が三度鳴く」前に娘を助けに行くジョング。國村イエス(本来の魚)の投げた「釣り餌」に喰いついたジョングの娘ヒョジン(彼女もまた魚)。
ナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』における奇妙なエピソードは上記のような新約における記述をことごとくひっくり返して(あるいはずらして)形づくられているように見える。とりわけ、教皇グレゴリウスが示した構図、つまり、父なる神が魚(子キリスト=釣り餌)で魚(悪魔=釣果)を釣るという構図は、「友釣り」あるいは「泳がせ釣り」であると言うこともできるが、そのヴァリアントとして『哭声』は読み解けるかもしれない。あるいは具体=女性原理による抽象=男性原理の換骨奪胎譚として。
ということで、いつの日か、韓国におけるキリスト教の受容史との関連から、この映画について考えてみたい。ナ・ホンジンの個人的経験を通しての、ね。
参考文献:月本昭男監修『図説 旧約・新約聖書入門』、学研、2017年。
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