【映画評】リチャード・フライシャー監督『ドリトル先生不思議な旅』(Doctor Dolittle, 1967)
今の我々の目には、家畜動物が家の中にたむろしている様を延々と見せられるのは、正直つらい。フライシャーにはどうやらミュージカルを統率する才能はないらしく、楽曲もダンスも低調だ。特にドリトル役のレックス・ハリソンはどの映画でも――例えば『マイ・フェア・レディ』(1964)――歌っているというよりはリズムに乗って喋っているだけにしか見えない。
それはさておき、動物と人間の共生について過激な主張を繰り広げるドリトルを、女性であることにつまらなさを感じており、その結果、男性名(フレッド)を付けられもするヒロイン、エマが追いかけるという構図は面白い。しかし、その途中に差別的な「黒人」/アフリカ描写があり、ぐだぐだで散漫な展開のうちにドリトルとエマの恋愛成就がほのめかされて終わる辺りは、やはりどこまでも保守的だ。
要するにこれは、19世期以来、ヴィクトリア女王(という女性)を頂点して貴族女性・ブルジョワ女性主導の動物愛護運動が推し進められてきたその裏で、「黒人」保護という名の差別と、労働者「啓蒙」という名の差別とが同時に進められてきたという歴史(そこに女性の権利獲得運動の問題も絡んでくる)の無自覚な反映なのである。
それにしても、この映画の数多の動物たちは、その動きをカッティングと編集それに調教によって徹底的にコントロールされながら、人間に対して「反乱」を起こすように(演技するよう)仕向けられているわけで、果たしてそれは動物愛護なのか虐待なのか、よく分からないことになっている。
いやまあ、奇形のラマ(上図)をサーカスに売って見せ物にして、女王救済のための旅費を稼ぐってんだから、虐待だよね。
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