【コラム】映画の中の「建築家(アーキテクト)」—K・ヴィダー『摩天楼』(1949)に寄せて
男のいいなりのヒロイン
キング・ヴィダー監督の『摩天楼』(The Fountainhead, 1949)で脚本を担当したのは、原作小説『水源』(The Fountainhead, 1943)を著したアイン・ランドその人であり、当然ながら本作は彼女の掲げる選民思想「オブジェクティヴィズム」をかなりの程度反映している。しかし、だからこそ、この映画において、ヒロインのドミニク・フランコン——映画版ではパトリシア・ニールがその役を演じている(右下図)——が、ものすごく気が強く、かつ自立した女のようでいて、その実、最終局面では天才と目される男にそれこそ唯々諾々として従ってしまったのは、非常に残念である。ランドの思想が、結局のところ、優れた「男」を立てるために「女」の自立を後回しにする類のものなのだとしたら、それはとても悲しいことではなかろうか。
クリエイターとしての建築家、パラサイトとしての大衆
映画版『摩天楼』は、そのようなわけで、名匠とされるヴィダー作品の中でも、赤狩りの時代に醸成された稚拙な主義主張(さもなければ誇大妄想)と見るに堪えないマチズモ——男根そのものの高層ビル(左下図)がそれを象徴する――に毒された、実に退屈な作品である。ただし、当作は、建築のみならず社会設計という意味での「アーキテクチャ」、いや、それを司る建築家・設計者、即ち「アーキテクト」の表象を考える上では非常に興味深い。
というのも、映画のなかの建築家たちは、自分の手で世界を創造できると信じている神様気取りのマッチョな「男」ばかりだからであり、『摩天楼』の主人公ハワード・ローク(ゲイリー・クーパー)はまさしくその典型だからである。その建築家ロークは、自らをクリエイター(即ち神に等しい存在)と称する一方で、一般人を「パラサイト(寄生者)」呼ばわりして憚らない。実際、彼はこの物語の中で自分の設計図通りに建設されなかった集合住宅(コートランド)をダイナマイトで自ら爆破するという暴挙に及ぶ。以下はそれに対する弁明である(原作からの引用)。
創造者(クリエイター)は自分自身の判断を固く守る。寄生者(パラサイト)は他人の意見に従う…。創造者の事業は自然の征服である。寄生者の事業は人間の征服である…。私はコートランドを設計(デザイン)した。私はそれを可能にした。私はそれを破壊した。私はそれが、私が欲するように造られるのを見るために、それを設計することに同意したのである(Levinson)。
映画の中のマッチョな建築家
映画に登場する「建築家」に関する論文を著わしたナンシー・レヴィンソンは、「映画の建築家の神秘性はスタジオの中だけでなくベッドの中でもまた明白である」と指摘する。「映画では、少なくとも芸術的な能力は性的な潜在力と親密に結びついている」のであり、『摩天楼』のロークについても、「彼が操作するパワー・ドリル、彼がデザインする高層ビル――これらは、映画がそれによってロークの職務外における男らしさを示すのみならず、それとプロフェッショナルとしての主体性との不可分な繋がりを示す、巧妙ならざる小道具だ」と述べる(左上・右上図参照)。とりわけ『摩天楼』では、「芸術的創造性と性的能力が実際に同じものなのだ。偉大な恋人が偉大なビルを建てるのである」(Levinson)。
そのようなわけで、レヴィンソンが指摘するように、映画の中の「建築家(アーキテクト)」は、『摩天楼』のゲイリー・クーパーや『逢う時はいつも他人』(1960)のカーク・ダグラス辺りまでは、最新技術で世界観を更新する神秘の人、理想の男だった。しかし、その後の建築家は映画の中で、むしろ己の人生設計に苦労することとなる。参考までに、以下にレヴィンソンが2000年の時点で取り上げた建築家の登場する他の映画を挙げておこう。
『ウチの亭主と夢の宿』(1947)、『夢去りぬ』(1955)、『十二人の怒れる男』(1957)、『情事』(1960)、『いつも二人で』(1967)、『タワーリング・インフェルノ』(1974)、『狼よさらば』(1974)、『ラグタイム』(1981)、『ハンナとその姉妹』(1986) 、『建築家の腹』(1987)、『スリーメン&ベビー』(1987)、『ミスティック・ピザ』(1988)、『ジャングル・フィーバー』(1991)、『ハウスシッター/結婚願望』(1992)、『フィアレス』(1993)、『幸福の条件』(1993)、『めぐり逢えたら』(1993)、『わかれ路』(1994)、『激流』(1994)、『ゆかいなブレディー家/我が家がイチバン』(1995)、『代理人』(1995)、『素晴らしき日』(1996)。
女性建築家とパラサイト、これからの建築家映画
上記リストの中で女性建築家が『素晴らしき日』のミッシェル・ファイファーただ一人であることは覚えておこう。ここに最近の『インセプション』(2010)のエレン・ペイジ、『バーナデット ママは行方不明』(2019)のケイト・ブランシェットを加えることもできるだろうが、依然として数は少なく、男建築家ほどの「力」を彼女らは持ち合わせていない。
あるいは、ポン・ジュノの、その名も『パラサイト』(2019)において、有名建築家が設計し住んでいた豪邸の地下に文字通りの「パラサイト」が棲み付いていたことを、そして上記C・ノーランの『インセプション』でもアーキテクトと呼ばれる夢の設計者が植え付けるアイディアが「パラサイト」と呼ばれていたことを、建築家の登場する映画を考える上では忘れないでおきたい。
今後、映画にもっとたくさんの女性建築家が登場するよう、かつ彼女たちが映画内外の男性建築家たちの仕事を異化(換骨奪胎)してくれるよう期待したい。また、現実の男性建築家たちについても、映画の中の彼らのようには傲慢でマッチョではない――はっきり言えば「下衆」ではない――と証明してほしい、そうお願いしておこう。
出典:Nancy Levinson, “Tall Buildings, Tall Tales: On Architects in the Movies” in Architecture and Film, Mark Lamster, (ed.), New York: Princeton Architectural Press, 2000 (Kindle).