【映画評】ジョナサン・レヴィン監督『ウォーム・ボディーズ』(Warm Bodies, 2013)
「ゾンビ映画(研究)史」的に正しい?あらすじ
クロースアップ・ショットに捉えられながら饒舌に内省し、たどたどしくもしゃべり、いざとなったら走り、化粧も辞さない、容姿端麗な――「有名」なハリウッド若手 俳優ニコラス・ホルトが演じる――若/白ゾンビ「R」と、人間の若い白人女性「ジュリー」による高予算・青春恋愛 /家族映画。「甦った死体」=ゾンビという意匠を借りて、現代人が失った「人間性(dream, bleed, ex-tomb, connect, communicate し、heartbeat, feeling, remorse を持つこと)」の「回復(cure)」、他者との共存を象徴的に物語る。
「ゾンビ・アポカリプス」から8年後、北米のどこかの町でジュリーら生き残った人類は、ゾンビの襲撃から 身を守るために「壁」で囲まれた町、ゲイテッド・コミュニティ(green zone)で共同「生活」している。他方、R は、人間のいない空港で他のゾンビらと「死活」しつつ、「新しい飢え(new hunger)」に駆られると町の周辺に繰り出しては人間を襲っていた。
あるとき医薬品の調達部隊に加わったジュリーは、城壁外(dead zone)でゾンビ に襲われたところを R に助けられる。やがて二人の間には恋が芽生えるが、その恋路(心[heart]の回復譚)に 町の指導者であるジュリーの父親と(骸骨の姿をしたCG 製ゾンビ)「ボーニー (Boneys) 」とが立ちはだかる。
抵抗か回帰か
これは、シェイクスピア『ロミオとジュリエット』の文字通りの「換骨奪胎」—R は ロメロ (Romero) ならぬ ロメオ (Romeo) の名を拒絶し、R に留まる—である。あるいは本作においてRが回復する「身体性」(心臓の鼓動、流れる血液)は、「観念」や「象徴」、「抽象」ばかりを重視する西欧的家父長制/白人男性社会、その権化としてのジュリーの父あるいはボーニー(実は彼らは裏表一体である)に対して開始される抵抗の足場となる。
かくて人類はゾンビ(モンスター)と人間の境界線(壁)の引き直しを迫られ、ということは、人間にとっての理性と欲望の境界線をも問われることとなる。スティーヴン・シャヴィロが指摘する通り、ゾンビは人間の「シミュラークラル・ダブル(simulacral doubles)」なのである(Shaviro 93, 95)。
とはいえ、当然のことながら、それは他方で男女の恋愛を軸としたロマンス、即ち古典的物語(直線的でヘテロセクシャルなハッピーエンド)への回帰とも見える。完全悪として排除されるボーニーも可哀想だしね。
Shaviro, Steven, “Contagious Allegories: George Romero”, The Cinematic Body, University of Minnesota Press, 1993, pp. 83-105.
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