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【映画評】ジョセフ・コジンスキー監督『トロン:レガシー』(TRON: Legacy, 2010)。

 浅見克彦やその参照先たるブキャットマンを読みながら、本来「非空間(nonspace)」であるサイバースペースを(CGで)表象する際になぜ「擬人法」が必要とされるのか考えた。「没入」・「操作」していた前作『トロン』(1982)から3Dの仮想空間が現実世界を包み込む今作へという移行はその際、何を規定することになるのか。
 登場人物たちが(とりあえずは)「没入(ジャック・イン)」する「格子(グリッド)」と呼ばれるウィリアム・ギブスン由来の「均質空間」(ミース・ファン・デル・ローエ)は、『トロン』では素朴なものだったが、28年後の今作では明らかに「都市」化しており、実際にオープニング・シークェンスではそれが現実の都市と重ねられる。また前作では「顔」として表象されるマスター・コントロール・プログラム(MCP)に「ユーザー」としてのケヴィンが立向ったが、今作では全身を擬人化されたプログラム(クルー)に「クリエイター」を自任するケヴィンが対峙し、更にクリエイターの「似姿(クローン)」でもあるクルーと実の息子サムが対決することとなる。
 人工的アーキテクチャの集積、即ち仮想都市としての「グリッド」には、本来これと相反するエコシステム(自然の生態系)が生まれつつあり、そこではアイソー(ISO)なるアルゴリズム(これは女性として擬人化されている)が世界の担い手となるはずだった。かくて人間の側からの「没入」ならぬ、女型ポストヒューマンによるコンピュータ世界と現実との「連続性」の模索、即ち人間世界への「展開」が今作のテーマとなるのである。
 公開当時、何だか評判が芳しくなかった覚えがあるが、「シュガー・ラッシュ」シリーズ(2012-18)へと連なるディズニー映画におけるサイバー都市(三次元仮想空間)表象、その様な「(非)空間」における身体表象(擬人法)について考える上では、非常に興味深い映画なのであった。「シュガー・ラッシュ」のヴァネロペ「姫」も外に行かないかな。

 参考:浅見克彦『SF映画とヒューマニティーサイボーグの腑』、2009年/五十嵐太郎/磯達雄『ぼくらが夢見た未来都市』、2010年/田中浩也「サイバースペース─対面から体現へ」『10+1』第22号、2000年、78-83頁/Scott Bukatman, Terminal Identity: The Virtual Subject in Postmodern Science Fiction, 1993.

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