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完璧な声の肖像 マルグリット・ユルスナール 「ハドリアヌス帝の回想」1話

 古代ローマの賢帝の一人ハドリアヌスが死期を待つベッドの上で自らの人生を語る歴史小説である。

 ユルスナールの文才が、多田智満子の見事な訳文が、古代ローマ帝国のハドリアヌスの生涯を静謐に描き出した。ハドリアヌスがその人生で予見することができなかった陰惨な事件や避けることが出来なかった戦い、そして私生活でのささやかな至福のエピソードが琥珀の中に封じ込められたようだ。

 その全貌を隈なく説明して解説する力量は持ち合わせていないので、おそらくは外すことのできない名場面だけ紹介し、あとの料理は何方かにお任せしたい。

 長らく古代のローマ人とダキア人は抗争を続けていたが、先代の皇帝トラヤヌスがダキア王国を滅ぼして、ダキアをローマ属州とした。ローマ帝国の領土は最大になったところで、トライヤヌスが急逝し、そのあとはハドアリアヌスに任された。ところが、それで平和な時代が続くわけでもない。ダキア王国が滅亡するとダキアに鎮圧されていた中小の部族が反乱を起こす。ハドリアヌス帝はこの状況に対処すべく、自ら国境のドナウ河に遠征すると、今度は留守にしているローマで重臣4人によるクーデターがおきた。

 クーデターの報は近衛軍団長官のアティアヌスからのもので、ハドリアヌスが適切に対処するよう伝えたところ、アティアヌスはこの4人を逮捕し裁判にかけることなく粛清してしまった。
これに腹をたてたハドリアヌスはローマからアティアヌスを呼び出した。

彼は、かつてヴェルギリウスが死んだという、港の近く東に向いた旅館の一室で待っていた。部屋の入口まで、足を引きずりながら迎えに出てきた。痛風を病んでいたのだ。二人だけになったとたんに、わたしの口からは非難と叱責の言葉がほとりばしり出た。

穏和で理想的な治世にするつもりでいたのに、それが、深くと考えもせずに実施された四人の処刑ではじまるとは! 四人のうちで一人だけは殺害もやむをえなかったとはいえ、見せかけにしろ合法性を欠いた形で処刑したのは、非難の的になることは必定。このたびの権力の乱用は、以後のわたしがいかに寛大で公正に振る舞おうと、常につきまとう批判の口実にされるだろう。それどころか、わたしの徳でさえも仮面と見なされ、暴君の伝説を産む理由になり、歴史の上でさえもつきまとって離れなくなるだろう。

マルグリット・ユルスナール「ハドリアヌス帝の回想」多田智満子訳

老人は、座ってよいかと聞いた。座った彼は、包帯に包まれたほうの脚を、そばにあった足台に乗せた。わたしは、話しつづけながらもその病んだ脚に、ひざ掛けをかけてやった。

彼はわたしが吐露するままにまかせた。むずかしい暗誦をけっこう無難にやってのける、教え子を見守る教師のような微笑を浮かべながら。

わたしが話し終るや彼は、穏やかな声で、あなたのやり方に反対する者にはどう対処するつもりでしたか、と聞いた。そしてつづけた。もしも必要であったなら、あの四人があなたの死を諮っていたという証拠を集めることなど簡単だった。とはいえ、それがどれだけ役に立ったかは別だが、と言い、さらにつづけた。

排除を伴わずにすむ政権交代などありえない。あなたの手を清らかにしておきながらそれをする役が、わたしに託されたのだ。もしも世論が犠牲者を要求するならば、わたしを近衛軍団の長から解任すればよいのだから、これほど簡単なことはないだ、と。

彼はすでに、この解決法を考えており、わたしにそれを採用するよう推めているのだった。そして、元老院との関係の改善にはこれ以上のことをやる必要があれば、左遷されようが追放されようが自分は満足であると言ったのである。

マルグリット・ユルスナール「ハドリアヌス帝の回想」多田智満子訳

 ハドアリアヌスの回想は、本人の思いつくまま、実際の出来事の時系列にこだわることなく展開するので、ローマ帝国史に精通していない私には、出来事の因果関係が頭にすっきりは入ってこない。そこでにローマ帝国の歴史の教科書に代えて塩野七生さんのご本を紐解くと、ユルスナールのこちらの件のことにもちゃんと言及している。 
 しかも歴史学研究者に分類される塩野七生さんとしては、ユルスナールの描写が美しいことに異論はないが、事実はこれと異なるのではないかと語る。その上で、読者へのサービスなのであろうか。この場面を自分だったらこう書くとして「塩野版ハドリアヌス帝の回想」を示している。

老いたわたしの後見人は、港に近い旅宿の一室で待っていた。部屋の入口まで、足をひきずりながら迎えに出てきた。痛風を病んでいたのだ。

老人は、今では皇帝のわたしに向かって、座ってよいかと聞いた。椅子に座った彼は、包帯に包まれたほうの脚を、そばにあった足台にのせた。その病んだ脚にわたしは、ごく自然にひざ掛けをかけていた。

しばらくの間わたしは、十歳の年から長い歳月を金をせびったり困難な日々には相談に乗ってくれたアティアヌスの、ヒゲをきれいに剃った穏やか顔と、杖の上に静かに重ねて置かれたしわだらけの両手を、まるではじめて見るかのように眺めた後で言った。

「あなたには、近衛軍団の長官を辞めてもらう」

老人の顔には、手塩をかけて育ててきた若者が見事に成長した姿を眼にした人の、心底から満足した微笑が広がった。

塩野七生「ローマ人の物語 賢弟の世紀」


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