ドラマ「響子」向田邦子・久世光彦 レビュー ―石の眠りを覚ます鑿の響き―
向田邦子原作のテレビドラマ「響子」は石材屋の家業を下支えする主人公の響子とその家族・従業員との交流を昭和の色彩も彩り濃く描いている。ドラマの場面設定と登場人物の心情を抑制したトーンで丁寧に表現した佳作である。
ドラマの底流にあるのは、石と石を穿つ鑿(のみ)という対になるモノである。石は何十億年もの時間の間に結晶と化した元素の集まり。鑿はそれを意の形へと変幻させる工具である。それぞれに特殊な力が宿っている。石には2つの力がある。1つには自然を鎮め、祖霊を鎮魂し、社会の秩序を保つ力。もう1つは、自然と社会を破壊する暴力的な力。いずれも鑿という外部からきっかけがあって、生じる力ではあるが、それが鑿のせいなのかの鑿にそうさせるのはわからない。同じように鑿にも正負の2つの力がある。いずれにせよ、大地と人間それぞれが孕む正負の性質を石と鑿が象徴しているといえよう。まさに諸刃の刃が戦前の静かな市井の石材屋を巡る小さな世界で数十分のドラマを展開させる。
ドラマの舞台となる石材屋を斜め上からパンした映像は、庭先に暮石や灯篭を穿つ作業場とガラス戸越しの縁側の日本家屋が目に入る。今となっては少し古臭い昭和のテレビドラマ挿入曲の穏やかなメロデイとともにその原光景は視聴者のノスタルジーを心地よく刺激する。昭和ドラマの巨匠久世光彦の趣向であることがわかりやすく理解される。
ドラマの脚本は向田邦子のエッセイに文芸評論家の松山巖の小説がまぜこぜになって創作されており、全体として向田邦子の人間のささいな言動にも愛憎を読み取る機微な観察力と丁寧な描写、そして松山巖の石に対する哲学的な考察に依拠したクールな視点がドラマ全体に一貫しており、視聴者を飽きさせない緊張感を与えているようだ。愛宕山の麓の石材屋の設定、神棚、鞴、縁起物の蜜柑。そして、森繁久弥演じる石材屋の店主や小林薫演じる省三が採石場や石段の石について愛情をこめて語るセリフは松山原作の小説に基づいている。なお、原作の松山巖の小説も、ほとんど小説めいた作り話感と会話はなく、その泥臭い描写は松山の実体験のエッセイなのか区別がつかない。
具体的な内容についてレビューするために、ドラマのあらすじから説明を進めたい。時代は戦前、おそらくは何代か続いている老舗の石材屋である。墓石やお寺の灯篭を作って納品している。店主の常吉(森繁久弥)は高齢で今は床に伏せっていて、弟子たちの石を穿つ音でその仕事ぶりを確認している。本来、家業を切り盛りすべき息子は不在であり、その嫁である女将のとき(加藤治子)が店の経営をきりもみしている。その長女の響子(田中裕子)は母親とともに店の仕事に忙しい。次女の信子(洞口依子)も家事手伝いであるが、OL暮らしに憧れている。実際の石工は、引退を考えている藤田敏八、どこからともなくやってきて住み込みで働き、近頃腕をあげきた省三(小林薫)、まだ見習いの柳ユーレイの3人である。家業を継ぐべく長女の婿養子に入った息子の慎太郎(筒井康隆)は威厳ある言動を見せながらも病気で伏せっている。ドラマの設定としては、それ相応には若いはずなのだが筒井康隆の演じる息子役は長老の貫禄があり、かしわ手で信子を呼びつけ、ときに布団の中に引っ張り込むさまは少し怖いくらいである。ただし、基本的にはドラマを展開させる役割ではない。
店主が高齢であり、商売をまかせたい石工の藤田敏八も持病のため引退を考えている。本来ならば、もっと大役をひきうけそうな藤田敏八もここでは大人しく脇役に徹し、渋すぎず目立たない。女将は今お寺から請け負っている灯篭を納入したら、店を畳まなければいけないと思う。石工の省三の腕は良くなってきたが素行不良で、信用が第一の店を任せるには不安がある。石材店の皆がそのようなことは胸のうちに思いはあるのが、廃業といった重苦しい雰囲気はない。
戦前の大家族と家族経営の石材店、それが今や崩壊の時期にある。店主の家長を頂点とする男子系の封建社会がそろって衰退しつつある。店主も婿養子も石工の藤田敏八も家の中でも外でも力をふるうような男たちではない。古い洋館のレンガがガラガラと音を立てて崩れるようなものだ。ドイツであればリューベックのトーマスマンのブッデンブローク家の人々、あるいはこれを模倣したと言われる北杜夫の楡家の人々か。そこまでの権威の人々ではなく、ささやかな市井の家業である。一つの時代が終わりにきているのは間違いない。
ドラマの進行とともに、家族の平穏な日常の中の小さな愛憎や亀裂を細やかな演出で描くのは向田邦子一流の技である。だが、ドラマはすぐに大きくは展開しない。古い時代の家族社会を遠慮なく否定するのは、次女信子の役割である。姉と同じ部屋で寝起きして、くったくなく愚痴をこぼし、タイプライターを練習しては銀座でのOL生活を夢みる。和室の電蓄で西洋音楽を鳴らす。向田邦子自身は、工務店ではなく中流サラリーマン家族の嚆矢のような家族と厳格な父の教育のもとで育つが、ドラマ中の次女の古い日本のしきたりへの愚痴や外の世界への憧れは向田邦子の少女時代が投影されているように思う。
古い昭和の家屋に必須なのは縁側となる狭い廊下である。外と屋内の部屋を仲介する役割がある。外にいる家族の行動も縁側のガラス戸越しに一瞬だけ確認でき、ドラマのカメラはそこをすかさずとらえる。また廊下は、狭い家屋の中で小さな秘密を抱えた家族それぞれがすれ違う狭いながらも公共空間である。家族の秘密は廊下を介して、あいまいに家族間で共有される。
久世光彦演出でいかにも久世好みの戦前の市井の映像である。その映像の中の建物が舞台の書割めいた軽さに関わらず実在感を伴っているのは、テレビや宣伝のBGMの音もなく、人の息づかいの聞こえるような静けさの中に、一日中鑿の音だけが音楽のようにカンカンと、石材屋の人々を繰るようにカンカンと響いているからではないか。太宰治であればトカトントン。少し登場人物を魔法にかけているような音でもある。そのせいだろうか、次女がカチカチと一生懸命習得しようとしているのはタイプライターであるが、コツコツとリズミカルに叩く様は鑿の作業と変わりない。おまけに次女は石でできたビルヂングの中の会社働きたいのである。夢を叶えようとしても石材屋の生まれの因果は無意識に言動にでてくるものだ。鑿の音の魔法、あるいは血は争えないと作者は言いたかったのかもしれない。
おそらくは主人公である響子は、自分の気持ちは表立って言動には表さないが、石材屋の長女として生まれ、婿にとった夫とは心も通わない境遇には満足していない。妹と結婚の話題となると、いつもよりも、熱く助言めいたセリフを語る。全体として静かな場面設定と美術や演出からなり抑制されたドラマの展開を一気に加速するのは石工の省三と彼に翻弄される長女の響子の関係である。
まずドラマの転機は、長らく伏せっていた店主の逝去をきっかけとする。すでに、店主が家業の経営もままならない状況のことから、この店がどうなるかは家族と従業員全員がよくわかっていた。葬儀も淡々と終わり、女将は、店主が逝去してもお寺の灯篭の完成までは仕事をやりとげてほしいと店員たちに頼む。そして一段落ついたところで、店主の形見分けの儀式がある。その場で省三は店主の形見の鑿を切望するが、女将は店を守る鑿だとしてこれを譲らない。おおげさにとらえれば、亡き店主の鑿は石材店の王権の象徴であって、家業は省三には引き継がれないことを示している。省三は不満ではあるが、それ以上ことをあらげて暴れるまではない。
省三は、石材店に来るまでの経歴は不明であるが、素行不良が目につき、石材店の離れの住まいには、時々別居してくる妻が通ってくる。しかし、省三は妻を抱いた後は、彼女の小銭入れから札束をぬきとるような行為を繰り返す。いずれは離婚の様子である。
親方の教えを伝えようと、ある日、省三は響子を地面の奥深くの石材採掘場に連れて行く。古事記のイザナギイザナミ、またはオルフェウスの冥府下りである。神道集であれば甲賀三郎、ドイツロマン派ノヴァーリスであれば青い花。古来の物語であれば何かがおこるが、このドラマでは挿入エピソードにすぎずただちに何も起きない。しかし、響子の心の中では何かが変わったはずだ。
ある時、省三に抱擁されたことを契機に田中裕子の秘めた熾火は一気に火がつく。家族の目を忍んで省三の寝泊まりする離れへと通う。木枯らしがガラス戸をガタガタと鳴らす。抑制の利いた表情とふるまいと地味な語り方の田中裕子は、突如その表情がドスの利いた猛々しいエロスで溢れるという稀有な大女優である。ドラマでの映像時間ドラマ全体としてはわずかなものであるが、抱擁シーンでの田中裕子の情念が迸る演技には任侠映画の高倉健の立ち回りのようで息を飲む。
それまでのドラマの中では、ほとんど気がつかなかった大女優の顔立ちというものに目が向いて、彼女の顔の造りを改めてまじまじと観察してしまうのはその時である。その小さな額の下に小さな目を削りとって、低い鼻をとってつけてこしらえたような顔立ちは能面のようであるが、能面のような顔立ちも石から鑿でこしらえたものではないかとさえ感じてしまう。石材の石を齧る田中裕子自身は石の化身であることを示しているようだ。
ドラマの主題から見て象徴的なシーンは、墓地での墓石に挟まれた狭いスペースでの二人の抱擁である。先に次女が家業を墓石屋と卑下していたが、墓石とは石が死者たちの魂を鎮めるためのものである。自然の中の現素材の石を人間の意志どおりに加工する。そして石に自然を治める役割を与える。その墓石の隣で、生身の男女が俗な表現をすれば石と石を穿つ鑿のように墓石の合間に挟まって大地と一体化しているようなシーンは印象的であった。
この二人の恋愛騒ぎは、明日の朝には、二人でここを出ていこう、と駆け落ちの約束に至って視聴者としては、心が騒ぐ。ところが、田中裕子が翌朝気づくのは、省三が一人でここをでていったことであった。周囲にはその動揺を気づかせまいとしながらも混乱している表情と演技は見事である。結果として視聴者が心配と好奇心半ばの思いで、見続けてきたドラマはこうして破局の手前で日常に戻る。
エンサイクロペディストとして知られていた文芸評論家の種村季弘は泉鏡花についての評論で、その小説の中に、化け物が登場して日常がカタストロフィー(例えば洪水)へと崩れる寸前で、またもとの秩序の時空間へ回復するモチーフがあると指摘する。おおよそ化け物が登場する小説を幻想文学とすれば、幻想文学とはこの世の果てのあの世の境界までいきついて、もどってくる物語と定義できよう。それを冒険譚として主人公を英雄とすればいわゆるファンタジーとなる。あの世との境界を越えてしまうと、キチガイとかオカルトの範疇であって、もはや日常空間の言語の表現は及ばない世界である。その主人公をあの世の甘美な世界から引き戻すのは広く定義すれば倫理の力である。その秩序へより戻すのは鏡花の場合には、金沢の生家の家業の彫金細工の力にほかならない。彫金細工と石細工は異なるものの、幻想文学好みの久世光彦には通じるものはあったのではないだろうか。
石材屋のカタストロフィーはいったん収まったものの、早かれ遅かれ石材屋は店じまいすることになろう。そして、数年後には太平洋戦争というカタストロフィーが待っており、そのことを知っている視聴者はこの多少の問題は抱えていても概ね幸せな時代であったはずの、ドラマの日常がそのままつつがなく終戦を迎えてほしいと思いながらドラマは終わる。その先のエピローグに拘泥しない、きっぱりしたエンディングも向田さん一流の創作術なのかもしれない。
最後に、響子という名の意味を考えてみた。石材屋の二階と思わしき和室では、近代的な暮らしと流行りの文化には敏感な妹が電蓄でチゴイネルワイゼンのSPレコードを繰り返しかける。その後に一般にはレコードとして普及したLP版と比べてSP版は割れやすいベークライトのような硬質な材料で、石と鑿の関係のようにレコード針がSP版をひっかくと臓腑にしみるような響きを奏でる。まさに、響子という名前は、石と鑿のハーモニーであると読み取るのは考えすぎだろうか。この小文のタイトルにはその感想を凝縮してみた。
以上で話は終わるはずだったが、書いておきたいことが1つでてきた。あるテレビ番組で縄文時代の諏訪湖を特集していた。諏訪湖が古くから周辺の人々をひきつける場所であったことを解説する現地探訪記である。諏訪湖(そこから北上した蓼科界隈)の産物の一つは黒曜石である。縄文時代には肉をさばく刃物として利用された。考古学の書を紐解くとあのナイフ状の黒曜石が割れた丸石の中から結晶面にそって、まるで皮をむいた柘榴の身のように取り出される写真を見た。石と工具とは元は同じものだったのだ。この地域で御神体として祀られてきた丸石の秘密もこれだったのかもしれない。
(参考文献)
向田邦子 思い出トランプ
向田邦子 眠る盃
松山巖 闇のなかの石
種村季弘 水の迷宮
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