(本と日記)引越しのこと / 部屋の幽霊 / 見えない隣人たち
引越しの季節
就職に伴い、6年近く住んだ古いアパートの部屋から引っ越すことになった。電灯の切れた外廊下、雪国なのに風防がない吹きっ晒しの玄関、アパートの真横を通る電車、騒音に慣れきった住人たち、壊れた雨樋しか見えない窓、小さなユニットバス…お金のない学生が住むにはちょうどいい風情の部屋だった。それでも家賃は家電付きで2万円ちょいと、学生アパートにしてもかなりの破格。友人曰く「カスみたいなアパート」だけれど、私なりに飾り付け、本棚をドンドン置き、ふわふわな寝床を整えたら、かなり快適な住処になった。今は、そんな慣れ親しんだ世界を組み立てていたパーツをひとつひとつ取り外し、段ボールに詰めて発送する作業をしている。
会社の都合でしばらく大半の荷物を実家に預けることになったので、今年の夏頃まではそれらの荷物にアクセスできなくなる。何よりつらいのはほとんどの物理書籍と離れて暮らす期間があることだ。別に全部の本を常に開いているわけじゃないので、問題ないといえばないのだけれど、いつだって手に取れる場所に彼らがあることがどれほど嬉しかったか…!(私視点では)どこか不安げな顔をしている本たちを紙紐でまとめ、大丈夫、夏にまた会いましょう、と心の中で声をかけて段ボールにしまい込んだ。自分でも「ひとりで何やってんだろう…」と思ったけれど、大好きなものとの別れは少しの間でもずいぶん寂しいものだ。
同居していたぬいぐるみたちも本と一緒に段ボールに詰められた。ペンギンのヨシダさん、うさぎ(二足歩行)のナカムラさん、ティッシュケース(ネコ)の黒部さん。ちょうど今、Andrey Kurkovの"Death and the Penguin" (George Bird 英語訳)を読んでいるところ。主人公Victorの同居ペンギン・Mishaの一挙一動のあまりの愛おしさに、ヨシダさんのことを思い出さずにはいられない。でかいペンギンは本当にいいものだ。遠く離れて初めてわかるヨシダさんの良さ。
部屋の幽霊
高校生の頃まで住んでいた実家の家屋が、嫌というほど夢に出る。家の形はその時の心情と深く結びついているらしく、実家を舞台にした夢はだいたいひどい悪夢だ。子供達が家を出てから実家の様子はずいぶん変わったらしく、私が記憶している家屋のありようはもうどこにもないのだけれど。
部屋の夢について考えていて、ふと、今住んでいる部屋は滅多に夢に出てこないことに気づいた。不思議とかつて住んでいた部屋たちばかりが夢に出る。そしてその部屋たちはもうこの世に存在しない。言うなれば部屋の幽霊だ。部屋は幽霊にならないと夢枕に立たないのだろうか?
一人暮らしをしていて感じたことに、家屋は一つの生き物のように振る舞う、ということがある。日々の買い物を取り込み、それらを消化し、週に2回はゴミを排泄する。このサイクルが回らない部屋は死んでいく。人が住まない家は廃れていく。モノを取り込み、消化し、排泄するという、生き物か、そうでなければ細胞のような振る舞いをする部屋のことを思うと、そこにどこか人格じみたものを見出したくもなる。私が引っ越すとき、部屋は中身を全部取り去られて生まれかわる。壁と床と天井は保存されても、次の住人がやってくればそこに宿るのは異なる人格だろうと思う。もうじき、この部屋も幽霊になる。この部屋には幸せな記憶がたくさんある。私の安全な巣箱だった部屋。もし幽霊になって夢に出てくるなら、この部屋は楽しい夢を見せてくれるかもしれない。
すこし前に恋人に会ったとき、Kevin John Brockmeier の「いろいろな幽霊」(市田 泉 日本語訳)を見せてもらった。私はシーツを被ったおばけの絵がかなり好きなので、本屋さんで表紙を一目見て気になっていた。表紙から推察される通り、本当にいろいろな幽霊の話を集めた作品集のよう。こんなにヘンテコな幽霊の話があるなら、部屋の幽霊がいてもいい。
見えない隣人たち
中古で本を買うと、元持ち主の痕跡を様々な形で見つけることがある。この話は以前の日記でも書いていて、中古本の過去を辿るということをやっていた。
これらの痕跡たちの中でも、最近密かに楽しんでいるのが、文中の単語や表現について言及している元持ち主による書き込み。英語の小説を買うと、大抵は英語学習者による書き込みが多いが、稀に感想をすこしだけ書いたものや、特定の文にアンダーラインが引かれた本に出会うこともある。時間も場所も違えど、同じ本を手に取って、同じページを、作中の時間を共にしている隣人たち。彼らがページの上にいると、不思議と顔の見えない誰かと一緒に読み進めている気分になる。そういうわけで、私は密かに彼らのことを「見えない隣人」とか、"invisible companion"とか呼んでいる。ちょうど読み終えたPaul Austerの"Man in the Dark"にも、ひとりの見えない隣人がいた。