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日本の建国の時期は?【5】銅鏡から

『日本はいつ頃、建国されたのでしょうか?』

『いつ頃に建国されたのか?』という<時期>について理解を深めてきたく、いろいろな角度で考察をしていきます。

【銅鏡の製造時期と分布】

ここでは「銅鏡」の『製造時期』をキーワードに見ていきます。

「銅鏡」といえばどういったことが思い出されるでしょうか?
『西暦239年 邪馬台国の卑弥呼が魏国より「銅鏡」を100枚もらった』という話が有名だと思います。そして、日本各地の古墳から出土する代表的な青銅器が「銅鏡」です。その中でも、特に三角縁神獣鏡 は「景初三年」や「正始元年」など、魏国の年号を記した鏡もあり、「卑弥呼」との関連が連想されています。
※尚、銅鏡は、舶載鏡(輸入鏡)だけでなく仿製鏡(国産鏡)もあります。


 「青銅器祭祀」に用いられた「銅鏡」にはどんな分類がある?
 卑弥呼が中国からもらった銅鏡は、魏国から頂いた銅鏡で、魏の建国は西暦220年です。後漢が滅びた後の時代の鏡は、その頃成立していた国名から「魏鏡」や「魏晋鏡」、「三国鏡」などと呼ばれます。一方で、それより前の時代の鏡は、漢国から頂いた銅鏡なので、前漢鏡や後漢鏡と呼ばれています。
 そして西暦2世紀以前の「弥生時代」を考察するには、「魏鏡」でなく「漢鏡」を調べる必要があります。

漢鏡の分類

 最近は岡村秀典さんによる様式区分が広く用いられているということでしたので、こちらで頭を整理していきます。

銅鏡区分 :漢鏡の区分は岡村秀典による様式区分(一部改変)

 以下は、20年以上前の古い情報ですが「漢鏡の出土分布」が示されていて、大づかみに傾向が見るには意義があります。
 

 ここまでが「前漢鏡」。九州の埋葬遺跡から多く出土しています。

 この後は「後漢鏡」

引用:国立歴史民族博物館報告 第185集 2014年2月 https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf

漢鏡5期以降の後漢鏡は大和地方からも出現するようになります。そして、漢鏡7期第2段階の鏡では、出土の主流が九州から大和に移行をしています。


<ここからの学び>

●前漢鏡は「九州地方」の甕棺墓などの埋葬遺跡から多く出土される。
●後漢鏡である「漢鏡5期」からは、九州だけでなく「大和地方」にも分布が広がる。「九州地方」を中心とした「銅鏡」文化が「大和にも広がった」ということは、「九州勢力が大和へ移動」したことを示唆しています。

ただし、ここまでの分析は、銅鏡の製造時期からの分類をベースに論じており、銅鏡の埋葬時期を分けての議論ではありません。

 次の記事では、「銅鏡の埋葬時期」も考察したいと思います。



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ちなみに蛇足となりますが「前漢鏡」ができる前は?
紀元前2-3世紀: 前漢という国が誕生するのは紀元前206年であり、それ以前は、もちろん漢鏡はありません。中国では、戦国時代や秦国の時代であり、その頃の日本では、多鈕細線鋸歯文鏡(多鈕鏡)という銅鏡が登場しています。紐を通す穴が複数ある形状で朝鮮半島や中国東北部で製作された鏡で初めて日本列島に出現した金属製の鏡です。日本での出土分布は広く、福岡・佐賀・長崎・山口・大阪・奈良・長野などで出土しているが12面の出土例のみと数は少ない。そして、須玖タカウタ遺跡(福岡県春日市)から多鈕鏡の鋳型の破片(紀元前2世紀頃)が出土したことから、この多鈕鏡の頃から日本では既に国産化していた可能性があります。

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