出雲口伝における物部伝承⑧九州勢の東征1回目-3/3
「出雲口伝」の中で「物部氏」に関連する内容を簡単に紹介しています。
※この記事は、「親魏和王の都」(勝 友彦:著、大元出版)を参考にしています。詳しくは、この書籍を御覧ください。
<物部勢力の第一次東征:ヤマト争乱>
フトニ大王が吉備に去った後に、ヤマト政権の大王となったのは、クニクル大王(孝元天皇・8代)であった。
このクニクル大王には、登美家のクニアレ姫を后(正室)に迎え、大彦とオオヒビ(大日々・開化天皇・9代)とモモソ姫(百襲姫)の御子たちがいた。
ちなみにその頃のヤマト勢力は以下のような範囲と考えます。
※ちなみに、「唐子・鍵遺跡」は以前の記事でも紹介しています。
大彦は大王の長男であり、次の大王候補と見なされていた。そして彼は物部勢力と最後まで対抗した。
※ちなみに「記紀」には大彦が武埴安彦王の反乱を沈めた伝承が書かれています。そして、この内容は以前の記事でも書きました。
しかしながら、力及ばず、ついに大彦は北を目指して総退却することとなった。
さらに勢力を強めた物部勢は、尾張一族もヤマトから追い出した。その結果、尾張一族は伊勢湾北部に移住することとなり、その地は尾張国の名がついた。
また尾張家と分かれた海家は先祖の地である丹波に去った。
そして、クニクル大王は、物部勢力と妥協して、物部氏の娘・ウツシコメを妃(側室)として迎え、争乱を収めようとした。
ちなみに記紀では、大彦の母を「物部家」の娘「ウツシコメ」と記載しているが これは意図的な誤記としか考えられないと 「出雲口伝」の関連書籍では書かれています。
<物部勢力の第一次東征:失敗に終わる>
古代の政治体制は「王・巫女制」と言われる。神祭りの司祭者である姫巫女(ひめみこ)が王と組んで、民衆の支持を集めた。
大彦が去った後は、「オオヒビ大王 : 開化天皇(9代)」と「モモソ姫」で王・巫女制を築いた。そして、政権実務のオオヒビ王の武力よりも モモソ姫巫女の宗教力によってヤマト中心の政治安定が回復した。
三輪山と含む磯城地方の領主は、登美家の9代目であるオオタタネコ(太田田根子)であった。彼がモモソ姫巫女の世話をした。
この姫巫女が広い地域の人々の尊敬を集めており、巫女のいない物部勢力は ヤマト地方の民衆には支持されず、磯城王朝に飲み込まれてしまった。 ちなみに物部勢力は、当時「星の神・カカセオ」を祭ったが、人気が出なかった。
そのため、物部勢力は九州に帰った者も多かった。
そして第一次物部東征は失敗に終わった。
<纏向遺跡ができる>
「王・巫女制」において、三輪山祭祀の姫巫女(ひめみこ)は 民衆の尊敬を集めていた。
大祭の前後の期間には、三輪山麓の扇状地「マキムク」に宿舎(竪穴住居)を建てて泊まるようになった。
そして、「モモソ姬」の祭りの神殿も建てられた。
各地の豪族は、自分の地元の土器に土産物を入れて持参し、神殿に捧げた。神殿では、九州の影響を受け、銅鏡(神獣鏡)を用いるようになった。
纏向遺跡から、外来系の土器が多く出土するという珍しい特色があった。
近江国や伊勢・駿河など東海方面や関東地方の土器が多く、他にも瀬戸内や吉備地方、山陰、北陸の時もあった。
以前の記事でも、纏向遺跡を紹介しており、九州地方の土器を見かけないことを記載しましたが、これは出雲口伝では「ヤマトの在来勢力の信仰が盛り返したため」と言うことになる。
(つづく)