
弥生時代の大和(奈良)って?① 弥生時代の終わりに突如現れた『纒向遺跡』
北九州を中心とする「銅鏡文化」が三世紀に 大和地方を中心とする古墳文化にシフトしていきます。その中心となるのが纒向遺跡です。
そこで、まず纒向遺跡について簡単に情報を集めることとしました。
【纒向遺跡の概要】
場所は、三輪山の北西麓です。

この西暦200年頃から、西暦350年頃の時期に栄えた纒向遺跡は出土する土器の型式から、5つの時期に分類して論じられています。

纒向遺跡では、奈良地域の土器だけでなく、日本全国からの土器が発見されていて、広域な交流が分かります。
このような外来系の土器は、纒向2類の庄内式土器出現の頃から増加しはじめ、纒向3類から纒向4類の時期が最も多く出土しています。

ネット上で集めた情報ですが、「東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内系3%、紀伊系1%」と言う情報がありました。これを見ると九州系の土器がほとんど出てこないと言う事が分かります。


また、纏向遺跡周辺では、全国に先駆けて古墳が造られ始めます。
纏向遺跡を代表する古墳である箸墓古墳は、第7代孝霊天皇の皇女で、大物主神(三輪山の神)が妻問婚をしたとされる「倭迹迹日百襲姫命」(やまとととひめのみこと)の墓とされています。
この皇女は、魏志倭人伝に記載がある「卑弥呼」と同一人物とする説があります。

に展示されていた「寺沢薫氏」作図
【まとめ】
北九州を中心とする「銅鏡文化」が三世紀に 大和地方を中心とする古墳文化にシフトしていきます。その中心となるのが纒向遺跡です。
この纏向は、当時日本の広域と交流があり、卑弥呼の墓の候補、箸墓古墳がありました。
しかし、纒向からは九州系の土器がほとんど出てこないと言う悩ましい情報がありました。
ただし、この時期の北九州の遺跡(西新町遺跡などからは、畿内系の土器が出土していることから、交流は確かにあったようです。
この『纏向遺跡』はどのように形成されたのでしょうか?
次に【纒向遺跡ができる前】の弥生時代の大和盆地について、調べていきたいと思います。