大彦命と武渟川別命⑧稲荷山古墳
「大彦命」と「武渟川別命」の親子について伝承を調べています。大彦は 孝元天皇(8代)の皇子ですね。
ここでは、「埼玉県行田市埼玉」の「さきたま古墳公園」にある「稲荷山古墳」について紹介したいと思います。
<稲荷山古墳>
築造: 5世紀後半(460~490年頃?)
所在地:埼玉県行田市埼玉
形状: 前方後円墳
規模: 墳丘長120m
稲荷山古墳は埼玉古墳群にある県内最古の古墳
そのなかでも最初に造営された古墳。
埼玉県内でも第2位の規模の大型前方後円墳。
なお大阪府堺市の大仙陵古墳と墳形が類似している。
※大仙陵古墳の4分の1サイズ。
⇒「なぜ、ここで取り上げるのか?」というと、この古墳から出土した「金錯銘鉄剣」に「大彦」を思われる名が刻まれていたためです。
<金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)>
この鉄剣には「表面に57文字」「裏面に58文字」の合計115文字の銘文が刻まれていました。そこには【「辛亥年」(西暦471年)の「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)の御代に「乎獲居臣」(ヲワケの臣)がこの鉄剣を作製したこと】が書かれていました。
ちなみに「ワカタケル大王」は「雄略天皇」(21代)とされています。
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【表の銘文】
辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名 意富比垝 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比
<訓読>辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
【裏の銘文】
其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今 獲加多支鹵大王寺在斯 鬼宮時 吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
<訓読>其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
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<ちょっと考察です>
雄略天皇(21代)の御代に、この鉄剣を作った「乎獲居臣」の「祖の名」として「意富比垝(おほひこ)」が記されていました。
「意富比垝(おほひこ)」は「乎獲居臣」から「7代」遡るようです。
では、「雄略天皇(21代)」を「7代」遡ると、どの天皇の御代となるのでしょうか?
「21代-7代=14代」ということで、「14代目の天皇つまり仲哀天皇(14代)の御代」となるのではありません。
父子での直系継承だけで続いたわけでなく、兄弟継承もありました。
図のように「雄略天皇(21代)」を「7代」遡ると「垂仁天皇(11代)」となりました。
7世代も遡ると、ズレが生じてくることも多分にあると思います。そのため、【この鉄剣に記されている「意富比垝 (おほひこ)」は孝元天皇(8代)の皇子とされる「大彦」】とする可能性は十分にあると思います。